インドの歴史 インダス・ガンジス文明

インドの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 04:44 UTC 版)

インダス・ガンジス文明

インダス文明

インダス文明

紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あり、Iravatham Mahadevan紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説(Dravidian hypothesis、南インドのドラヴィダ系の民族)を提唱したが、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラ英語版が支持し、研究は振り出しに戻っている[1]

パンジャーブ地方ハラッパーシンド地方モエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、ウルを始めとしたメソポタミアの諸都市と交流していた[2]

焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった[3]。この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、アハール・バナス文化英語版 (Ahar-Banas culture)、マールワー文化英語版 (Malava Kingdom, Malwa culture)、ジョールウェー文化英語版 (Jorwe culture) などがその例として挙げられる。

これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となったギリシャサントリーニ島ミノア噴火)などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない[† 1]

前期ヴェーダ時代

カイバル峠

インド・アーリア人は、紀元前1500年前後に現在のアフガニスタンバクトリアから北西インド(現在のパキスタン)に移住したと考えられているが[5]、インドの伝承では移動に関して何も記していない。『リグ・ヴェーダ』によれば、その後、バラタ族トリツ族など諸部族の間で戦争が勃発した(十王戦争)。バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる[6]

バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族のプール族の混血も進んでいった(クル族の誕生)。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにヴェーダの宗教が初期バラモン教としてインド化していった。

後期ヴェーダ時代とガンジス文明

十六大国

十六大国の位置

紀元前1000年頃より、バラタ族はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。また、この時代に鉄器が導入された。鉄器による農耕技術の発展と、それに伴う余剰生産物の発生によって、徐々に商工業の発展も見られるようになった。農作物としては、それまで栽培されていた大麦に加え、ガンジス川流域では米が作られた。さらに、小麦の栽培も開始された[7]

ヴェーダ祭式文化を拠り所とした社会は拡大を続け、現在の東インド、ビハール州にあたる地域にまで広がった[8]。一方で、ヴェーダ祭式文化の拡大は、旧来の政治勢力・伝統的祭式観の影響力低下をもたらした。北インドでは諸勢力が台頭し、十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。『マハーバーラタ』によると、紀元前950年頃にクル族の子孫であるカウラヴァ王家が内部分裂し、クルクシェートラの戦い英語版パンチャーラ国に敗北して衰退していった[9]。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた[10]。十六大国のうち、とりわけマガダ国コーサラ国が二大勢力として強勢であった[9]。十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝ダレイオス1世のインド遠征 (en:Iranian invasion of Indus Valley) によって支配されるようになり[11]、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。

ウパニシャッド哲学と新宗教

紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中でバラモンが凋落すると、それに代わりクシャトリヤヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下にマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教が、それぞれ創始され当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生し、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。

ペルシャとギリシャの征服

紀元前330年頃には、インド北西部にマケドニア王国アレクサンドロス3世(大王)が進出し、ナンダ朝マガダ国(後述)に接触していた[12]


補注

  1. ^ 都市活動の停止の要因としては、このほか乾燥化によるとする考えやアーリヤ人の侵入の結果とする考えなどがあるが、現在これらの説は否定されている。2007年現在有力視されている説は、土地の隆起によるインダス川の洪水の頻発、ガッガル・ハークラー川の干上がり、これらの要因によるインフラと農業生産力の衰亡である。しかしながら、この環境変動説も考古学的・地質学的証明の裏付けが十分とは言えない[4]
  2. ^ 例えば、近代インドを代表する聖者であるラマナ・マハルシ[33] は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は「心」そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している[34]
  3. ^ シングルトン 2014によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた[35]
  4. ^ 伊藤雅之はこれを1920年代から1930年代のこととしているが、シングルトン 2014によれば、少なくともクリシュナマチャーリヤに関して言えば1930年代以降のことである。伊藤論文では西洋式体操から編み出された近代ハタ・ヨーガをひとりクリシュナマチャーリヤのみに帰しているような記述となっているが[36]、シングルトンによれば同時代のスワーミー・クヴァラヤーナンダとシュリー・ヨーゲーンドラも重要であり、クヴァラヤーナンダの活動はクリシュナマチャーリヤに先行している。また、伊藤は近代ハタ・ヨーガにはインド伝統武術に由来する要素もあるとしているが、シングルトンの著書にはそれを示唆する記述はない。

出典

  1. ^ 未解読のインダス文字を、人工知能で解析 (WIRED.jp)[リンク切れ]
  2. ^ 山崎&小西 2007, pp. 38–39.
  3. ^ 山崎&小西 2007, p. 39.
  4. ^ 山崎&小西 2007, p. 40.
  5. ^ Masica, Colin P (1993) [1991]. The Indo-Aryan languages (paperback ed.). Cambridge University Press. p. 36. ISBN 0521299446 
  6. ^ 山崎&小西 2007, p. 82.
  7. ^ 山崎&小西 2007, p. 83.
  8. ^ 山崎&小西 2007, p. 84.
  9. ^ a b 山崎&小西 2007, p. 85.
  10. ^ 山崎&小西 2007, pp. 81–83.
  11. ^ 山崎&小西 2007, p. 103.
  12. ^ 山崎&小西 2007, pp. 103–104.
  13. ^ 河合秀和訳『20世紀の歴史――極端な時代(上・下)』(三省堂、1996年)[要ページ番号]
  14. ^ 中村平治「独立インドの国家建設 -国民の政治参加の拡大-」内藤雅雄・中村平治編『南アジアの歴史 -複合的社会の歴史と文化-』有斐閣、2006年、p.204
  15. ^ a b c シングルトン 2014, p. 33.
  16. ^ a b 佐保田 1973, p. 23.
  17. ^ シングルトン 2014, pp. 33–34.
  18. ^ シングルトン 2014, p. 34.
  19. ^ 山下 2009, p. 69.
  20. ^ 山下 2009, p. 68.
  21. ^ a b 山下 2009, p. 71.
  22. ^ 佐保田 1973, p. 27.
  23. ^ a b 山下 2009, p. 105.
  24. ^ 『世界宗教百科事典』丸善出版、2012年。 p.522
  25. ^ 佐保田 1973, p. 36.
  26. ^ シングルトン 2014, p. 279.
  27. ^ a b シングルトン 2014, p. 35.
  28. ^ 佐保田 1973, p. 35.
  29. ^ 川崎 1993, p. [要ページ番号].
  30. ^ 佐保田 1973, p. 37.
  31. ^ 伊藤 2011, p. 96.
  32. ^ a b シングルトン 2014, p. 99.
  33. ^ ポール・ブラントン 著、日本ヴェーダーンタ協会 訳『秘められたインド 改訂版』日本ヴェーダーンタ協会、2016年(原著1982年)。ISBN 978-4-931148-58-1 [要ページ番号]
  34. ^ デーヴィッド・ゴッドマン編 著、福間巖 訳『あるがままに - ラマナ・マハルシの教え』ナチュラルスピリット、2005年、249-267頁。ISBN 4-931449-77-8 
  35. ^ a b シングルトン 2014, pp. 45–52.
  36. ^ a b 伊藤雅之「現代ヨーガの系譜 : スピリチュアリティ文化との融合に着目して」『宗教研究』84(4)、日本宗教学会、2011年3月30日、417-418頁、NAID 110008514008 
  37. ^ シングルトン 2014, p. 5.
  38. ^ Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity Intangible Heritage UNWSCO





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