由緒・歴史とは? わかりやすく解説

由緒・歴史

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相内神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

相内神社嚆矢となったのは、屯田歩兵4大第3中隊所属する屯田兵と、その家族親族信仰である。現在の北見市相内町周辺屯田兵入植したのは明治30年1897年)から明治31年1898年)にかけてで、現在の北見市美園中隊本部を置き、同東相内町、同豊田に分住して開拓訓練励んだ。 これら3地区それぞれに小祠祀られ日常参拝もとより、春は札幌神社現在の北海道神宮)の例祭日合わせ6月15日に、秋は伊勢の神宮神嘗祭が行われる9月17日祭礼行って崇敬心を深めるとともに日々疲れ癒していた。 まもなく屯田兵制が廃止されたのちも、屯田兵とその家族親族多数同地残り大正10年1921年)、野付牛町(現・北見市)より分かれて相内村成立すると、彼らを中心に一村鎮守神としての神社建立すべしとの声が高まってゆく。まずは新造されてまもない村役場敷地内西側に、神名記した木標を立てて祭祀行い昭和7年1932年)、相内小学校御真影奉安殿新造されると旧奉安殿社殿として流用し現在の相内町市街地北方中央社殿地と定め遷座祭行ったこれを機に村議会初め有志の間より社殿新造営、村社昇格申請の議がたびたび起きるが、戦時体制へと移行してゆくうちに立ち消えていった戦後になって昭和10年1935年)頃より日夜熱心に社殿参拝し氏子崇敬者教化努めていた今村政男を常任神職として祭祀委ねるべきとの声が高まってきたのを機に昭和27年1952年)、同氏私財及び氏子崇敬者浄財をもって社殿造営今村政男が宮司就任その後境内整備、一層の氏子教化育成図り今日隆盛を見るに至る。

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杉山神社 (横浜市保土ケ谷区星川)」の記事における「由緒・歴史」の解説

当社創建時期は不明であるが、貞観11年869年)に編纂された『続日本後紀』に記載のある「枌山神社」や延長5年927年)に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵国都筑郡唯一の式内社とされる杉山神社の論社一つとなっている。 また江戸時代には、『新編武蔵風土記稿』にて橘樹郡神奈川領下星川鎮座する杉山神社についての記載がされている他、『江戸名所図会』ではこの神社指して延喜式内社である旨の記載もされている。 昭和に入る頃までは境内密集しており、日光届かないほどであった太平洋戦争時には星川から天王町帷子にかけての地域全焼しているものの、当社裾野延焼免れている。

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射楯兵主神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

播磨国風土記』より、8世紀以前飾磨郡因達里(いたてのさと)因達神山比定地八丈岩山姫路市辻井田寺新在家)に伊太代神(射神)。 764年天平宝字8年6月11日 - 飾磨郡伊和水尾山(姫路市山野井町にある水尾神社)に兵主神祭祀787年延暦6年) - 兵主神飾磨郡国衙小野江の本(姫路市本町、現社殿地の北方500m)に遷座。 『延喜式神名帳』に小社射楯兵主神社とあり、927年延長5年)までに射神が合祀されている。 1181年養和元年) - 播磨国16174座の大小明神社合祀し播磨国総社府中社と称する1567年永禄10年) - 黒田職隆の命により拝殿御神門修復この際屋根板葺きから瓦葺き葺き替えられた。 1581年天正9年) - 羽柴秀吉姫路城築城するのに伴い現在地遷座1945年昭和20年) - 姫路空襲により焼失戦後まもなくして再建2006年11月 - 西参道総社御門再建飾磨郡伊和里(姫路市街地周辺)は伊和族(宍粟市一宮町須行名にある、播磨国一宮伊和神社伊和大神祀る氏族)の平野部においての拠点であったようで、兵主神伊和大神であると言われている。出雲系である伊和大神大己貴神大国主命)と同一化され、兵主神大国主命であるといわれるようになった考えられる神仏習合時代には、神宮寺として般若院般若寺)があった。また、播磨天台六山書写山圓教寺増位山随願寺法華山一乗寺・八徳山八寺・妙徳山神積寺・蓬莱山普光寺)による大般若会が行われていた。 江戸時代には、姫路藩主の崇敬が篤かったと伝えられる

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西野神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

西野地域開拓は、明治18年1885年)、故郷から産土神抱いて渡道した五戸入植者達によって開始され、この五戸人々開拓守護神として三を奉斎する小祠当時西野地域中心おぼしき所に建てたのが、西野神社起こりとされる明治32年1899年1月右股現在の平和地区)、左股現在の福井地区)、広島現在の西野地区)の各集落小祠合祀して西野全域統合神社として社号西野神社とする。同年2月札幌神社北海道神宮前身)の禰宜であった野村茂が、他の数社とともに西野神社社掌初代宮司)も兼務する同年7月には、境内地として安井右衛門から300坪、安井五郎から150坪の寄付それぞれ受ける。 大正4年1915年)、西野神社改築認可得て、翌5年社殿新築される。同年11月境内地として久守五作から畑三反歩寄付を受ける。 大正14年1925年12月西野神社昇格願が内務大臣提出され昭和4年1929年1月無格社から村社に列格される。同年7月神饌幣帛料供進神社指定を受け、同年8月には上手稲小学校前の神社用地現在の西野福祉会館の地)に西野神社遥拝所造営される。 昭和9年1934年)、江別神社社掌経て手稲神社社掌となった須浪仙太郎が、西野神社社掌2代目宮司)も兼務する昭和11年1936年11月上川神社から手稲神社社掌転任した山口栄が、同時に西野神社社掌3代目宮司)と山口神社社掌兼務する山口栄は戦後上手稲神社星置神社宮司兼務した。 昭和27年1952年4月神社本庁から、翌28年2月には北海道庁から、それぞれ宗教法人西野神社規則承認され同年3月西野神社宗教法人設立登記手続完了昭和42年1967年)、大正5年1916年)に社殿新築されてから50年経ち社殿老朽化著しく進んでいたことから、半世紀ぶりに社殿建て替えられる。同年遥拝所廃止昭和51年1976年)、2代目社掌務めた須浪仙太郎が、西野神社神職として初め社務所常駐するようになり、これ以降現在に至るまで西野神社には神職常勤している。これ以前は、神職ではない一般の人が、神社施設管理人として家族とともに境内常駐していた(神職ではない管理人がいつから常駐していたかについては正確な記録がないため不明)。 昭和53年1978年4月3代目宮司 山口栄の退任に伴い、須浪仙太郎宮司に再就任する西野神社にとって、須浪仙太郎第2代・第4代宮司であるとともに、初の本務宮司でもある。なお、西野神社兼務宮司退任した山口栄は、平成2年8月まで手稲神社本務宮司務めた昭和57年1982年7月神社前の市道 右股道路拡幅工事施工のため、境内地一部札幌市売却昭和58年1983年)には、西野神社創祀百周年記念事業一環として幣殿造営拝殿増築神饌所増築社殿屋根銅板への葺き替え回廊欄干増設など大規模な増改築が行われ、また、ほぼ同時期に社務所新築神札所・物置渡り廊下改築ガレージ移設手水舎改装等の工事なども行われたため、境内様相一新される。 昭和60年1985年7月西野神社創祀百周年記念塔が竣工同年9月西野神社創祀百周年記念式典祝典挙行される。 平成3年1991年1月前月4代目宮司 須浪仙太郎死去したことに伴い西野神社禰宜であった須浪和弘北海道神宮出仕として同宮でも奉仕)が5代目宮司就任する平成7年1995年10月創祀十年記念事業として、授与所と参拝者トイレ新築される。 平成10年1998年)、参拝者控室多目的応接室建設され、ほぼ同時期に神饌所改修屋内手水舎新設社務所玄関改築中庭造園工事なども行われる平成11年1999年4月西野神社公式ホームページ開設される平成17年2005年)には創祀二十年記念事業として、創祀二十年記念碑の建立拝殿向拝境内参道への御影石敷設などが行われ、境内はほぼ現在の様相となるが、その後も、境内地拡張隣接地買収)に伴う第2駐車場拡張第3駐車場新設拝殿向拝への木彫取り付け参集殿改築土俵改修社務所増築各種樹木植樹などが行われる。 平成20年2008年2月株式会社クリーンリバーからの奉納として神輿殿新築される。 平成27年2015年)には、創祀三十年記事業として、第一駐車場全面創祀二十年記念碑周りへの御影石敷設掲示板建て替え氏子青年会結成などが行われる。 平成30年2018年)には、老朽化進んでいた神楽殿取り壊され令和元年2019年)、その跡地に、神前結婚式はじめとする各種神事が斎行できる殿舎として儀式殿新築される。儀式殿竣工合わせて大祭として竣工遷座祭盛大に執り行われ、同祭で、本殿祀られている祭神分霊儀式殿内の神殿へも奉遷される。 創建当時明治18年頃)の西野神社想像図 大正時代西野神社 大正時代西野神社 拝殿 昭和42年西野神社 拝殿 昭和58年西野神社(諸工事落成記念平成27年西野神社 拝殿 令和元年西野神社 儀式殿竣工記念

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神明社 (横浜市保土ケ谷区)」の記事における「由緒・歴史」の解説

以下は社伝よる。 天禄元年970年)、天照大御神谷(はんがや)の峰に来臨し、その後川井二俣川、北保土ヶ谷宮林移転した嘉禄元年1225年)、神戸(ごうど)に外宮造営榛谷御厨八郷(榛谷氏所領)の総鎮守となる。--『神明社由来書弘治元年1555年鎌倉時代榛谷重朝支配していた当地一帯伊勢神宮寄進していることから、当地伊勢神宮荘園榛谷御厨になって以降産土神として存在していた当社天照大御神祀った、とも考えられる。北保土ヶ谷宮林とは、現在の霞台という説がある。なお、この書に登場する「北保土ヶ谷」は、保土ヶ谷地名最も古い記録である。 その後来歴 天正18年1590年)、徳川家康により、社殿の造営が行われ、朱印地与えられた。 元和5年1619年)、本社当地移転社殿の造営境内の整備が行われた。 明治6年1873年)、村社に列せられ、後に神饌幣帛料供進神社指定される平成10年1998年)、平成大造が行われ、移転以来境内社殿12棟が一新される。 平成12年2000年)、神奈川県神社庁献幣使参向神社指定される

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古峯神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

創祀年代不明神社公式ウェブサイト2021年閲覧によれば創建は「今を去る1300余年の昔」という。『下野神社沿革史』(明治35年1902年)に載せる社伝によれば藤原隼人という人物京都より当地移って邸内日本武尊祀ったのが神社創建とされており、この隼人石原家名として祠官石原家祖先になったという。隼人日本武尊仕えた家臣であったともいう伝承もある。日本武尊東征の折に着用した服の片袖神体にしていたというが、明治期にはすでに失われ口承のみになっている日光山開山の祖である勝道上人は、古峯ヶ原深山巴の宿で3年間の修行ののちに天応2年782年)に男体山に登ったとされる。これにより「日光発祥の地」とも呼ばれるといい、山岳信仰霊地であった。 この由緒に基づき神仏習合していた時代には、日光全山2680坊の僧侶日光修験)は古峯ヶ原で修業をするならわしであり、「供峯」は日光入峯重要な修行であった。『下野神社沿革史によれば日光赴く修行僧石原家投宿し雪中案内行い以後恒例となった日光にあった金剛童子の像を日本武尊とともに祀り金剛権現こんごうみねごんげん)と呼んだという。 明治初年神仏分離伴って仏具撤去され金剛童子像は日光に還仏したという)、祖先石原隼人祀った日本武尊のみを祭神として「古峯神社」と号したという。1966年昭和41年)に古峯神社日光山律院共催により、供峯が「巴祭」として復興されている。

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瀬戸神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

古代現在の泥亀町から釜利谷東にわたる一帯入り江となっており、現在当社のある辺りの狭い水路によって平潟湾つながっていた。この水路は罪穢を流し去る神聖な場所として、海神祀られるようになった境内その周辺縄文時代以来人類生活していた場所で、「瀬戸神社旧境内地内遺跡」と呼ばれている。1987年昭和62年以来幾度か発掘調査で、縄文海進期の波蝕台縄文土器縄文早期)、古墳時代土師器貝塚室町時代から江戸時代にいたる貝塚陶磁器遺構など発掘されている。 治承4年1180年)、源頼朝伊豆挙兵した際に加護もらった伊豆三島明神をこの地に勧請し社殿建立した。これが今日に至る瀬戸神社創建である。 室町時代には、鎌倉公方瀬戸神社参拝する慣例があり、『鎌倉年中行事』にも4月8日恒例参拝日として記述している。

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貴船神社 (みどり市)」の記事における「由緒・歴史」の解説

社伝に、天暦10年956年)に関東地方干魃襲われた際、山城国貴船神社現在の京都府京都市左京区鎮座貴船神社)から神霊勧請し降雨五穀豊穣祈願したところ霊験著しく甘雨得たため、渡良瀬川流域山地祀ったのが創まりで、江戸時代寛文8年1668年)に現在地遷座したという。

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杉山神社 (横浜市保土ケ谷区川島町)」の記事における「由緒・歴史」の解説

天文年間1532年 - 1555年)、北条氏康がこの地に陣を張った際、祠を建てて武運長久祈ったのが始まりとされる当社延長5年927年)の『延喜式神名帳』において「武蔵国都筑郡唯一の式内社」と記されている、「杉山神社」の論社一つとなっている。 1844年弘化元年2月には社殿焼失しているが、その後村民によって再建されている。1873年明治6年)には村社指定された。現在の社殿1955年昭和30年5月造営されたものである

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長尾神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

長尾広大な神域鎮座し、『延喜式神名帳』に「葛下郡長尾神社、大、月次新嘗」と記されている式内古社。このあたりを支配していた長尾氏氏神とされる定かでない。また吉野連との関係があるとされる。『日本三代実録』に、「貞観元年己卯875年正月二十七 日大和国従五位下長尾神社従五位上」とあり、9世紀にはこの地に鎮座していた。社伝によると、寛平9年897年)より弘安4年1281年)までの間に九階進昇。弘安4年には正二位江戸時代には正一位にまで昇進した。『放光寺古今縁起』(1302年)や『大和志』(1736年)によると祭神伊勢の神宮内宮及び外宮大神天照大神豊受大神である。伊勢の神宮真西鎮座していることから、古くから人々篤い信仰得た神社であった。また住吉熱田諏訪神々祀られている。江戸期文献では水光姫命、白雲別命祀られたとある。また『放光寺古今縁起』には「長尾神社葛下郡全体総社である天武天皇壬申の乱672年)で勝利した後に感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社献じられた」と記されている。 鎮座地竹内街道長尾街道横大路交差する交通の要衝であり、古来より交通安全旅行安全の神として篤く信仰されている。参道拝殿向かって東西長く伸びており一の鳥居近年新たに竣工した。二の鳥居両脇には「なで」が配されて、参拝者見守っており、安産祈願の神としても名高い。また水光姫命は古事記日本書紀に体が光って尾が生じていたと記されており、神様化身白蛇であると言われるところからの頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承がある。さらに長尾神社西日本長尾姓の発祥地とも表記がされているが、苗字帯刀の頃より吉川家代々受け継いでおり、関係性定かではない

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ハワイ出雲大社」の記事における「由緒・歴史」の解説

1906年 - 出雲大社教2代管長千家尊愛(せんげたかあき)の命を受けた広島県出身神職宮王勝良がハワイ渡りホノルル市アアラレーン周辺において出雲信仰布教開始する1907年 - ダウンタウンキング街とベレタニア街の三角地点(パラマ地域)を境内地とし、初め教会所神殿竣功する。 1909年 - 出雲大社教より「出雲大社教布哇教会所」として正式に認可マウイ島ハワイ島などにも教会所講社開設され積極的に活動展開する1918年 - 宮王勝良を初代分院長として「出雲大社教布哇分院」に昇格翌年にはハワイ出雲大社教団法的組織化ハワイ準州政府より認可される1922年 - 同地本社模した社殿新築される。翌年出雲大社教3代管長千家尊有(せんげたかもち)ら一行当地迎え盛大な祝祭が斎行される。 1935年 - 宮王勝良帰幽大日本帝国神職資格取得し1931年よりハワイ奉仕していた次男・宮王重丸が2代分院長に就任1941年 - 大日本帝国軍による真珠湾攻撃により、宮王重丸とその家族分院役員らはFBI身柄拘束され終戦1945年までアメリカ合衆国本土抑留される。抑留中教団解散社殿など財産ホノルル市政府寄贈され公園局と衛生局管理した1946年 - 前年末、抑留所より帰布した宮王重丸がヤング街の倉庫改造して社殿とし、正月より神社としての活動再開する1952年 - 宮王重丸を原告とするハワイ出雲大社教団1万人を超える署名集め社殿返還求め請願書ホノルル市議会提出返還満場一致決議されたものの、公園局が返還不服として以後係争となる。 1961年 - 6次に亙る返還運動の末、最終的に教団側が勝訴ホノルル市政府より社殿返還認められる1968年 - ククイ街の再開発計画に伴い社殿現在地移転修復遷座祭執り行われる翌年には千家達彦(せんげみちひこ)出雲大社教5代管長奉仕のもと「布哇出雲大社竣功祝祭並びに例大祭合併祭」が斎行される。 1976年 - アメリカ合衆国建国200年記念してハワイ州巡業中の日本相撲協会力士により横綱土俵入り奉納される1990年 - 社殿正面鳥居脇にホノルル広島両市の姉妹都市1960年締結)を記念した広島平和の鐘”がホノルル市政府により設置される1993年 - 宮王重丸帰幽現任者である天野大也氏が3代分院長に就任2006年 - 千家達彦・出雲大社教管長奉仕のもと「布哇出雲大社鎮座100周年記念大祭」が斎行される。

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出雲大社 (堺市)」の記事における「由緒・歴史」の解説

1946年昭和21年):創建愛宕神社命名主祭神火之迦具土神 1948年昭和23年):島根県出雲大社より分祀祭神大國主大神拝領合祀して出雲大社改名1958年昭和33年):出雲大社大阪分祠昇格1962年昭和37年):本殿完成

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杉山神社 (横浜市西区)」の記事における「由緒・歴史」の解説

白雉3年652年)、当地開拓した杉山一族出雲大社大己貴命分霊を「塩田の浜」に祀った伝えられる。さらに当社創建後には、近隣に「杉山」の名が付く神社多くなったとも伝わる。 江戸時代には「杉山明神社」と称していた。また願成寺別当寺とし、幕府より朱印地与えられていた。その後1873年明治6年)には村社列している。なお、現在の本殿1956年昭和31年)に再建されたものである

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宇都母知神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

当社創建時期は定かでないが、雄略天皇3年皇紀1119年)に厳粛な祭祀執り行われたという記録がある(『日本総国風土記』)。また、これまでに転社(移転)の記録はないが、同風土記では当社鎮座地が「相模国鷹倉郡宇都母知郷」とある。なお、『延喜式神名帳』では「相模国十三座(式内社)の内 高座郡六座内の一座 宇都母知神社」と記されている。 天慶2年939年)、大和国泊瀬より若日下部命尊霊遷座相殿合祀した正応3年1290年)、鎌倉幕府八代将軍久明親王執権である北条貞時社殿改築、さらに寛永4年1627年)、当地領主である高木主水源正次社地900坪(約3000m2)を寄進して本殿改築行なっている。当社呼称として、江戸時代には「大神宮」「神明宮」とも称されていた。 その後明治6年1873年12月には郷社近代社格制度)に列せられた。大正12年1923年)の関東大震災により社殿安政5年1858年〉造)を含み全壊したが、3年後大正15年1926年9月には全復旧し現在に至っている。 境内西側出て道を挟んですぐのところにある鐘楼釣鐘は、昭和20年1945年)の春に太平洋戦争物資回収により献納されたため暫く設置されないままだったが、昭和50年1975年になって再建された。また、境内全域風致林指定受けており、昭和49年1974年)には自然環境保全地域指定されている。 拝殿 鐘楼

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埼玉縣護國神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

埼玉県人の英霊祭祀は、昭和以前県内各所神籬建てて鎮魂慰霊祭祀行っていたが、満州事変県下英霊増えたのを機に招魂社創設機運高まり昭和9年1934年4月9日朝香宮鳩彦王当時近衛師団長臨席の下、「埼玉県招魂社」として鎮座した。同14年3月に「埼玉県護國神社」と改称し4月指定護国神社となる。 戦後昭和21年1946年2月宗教法人となり、同23年10月崇敬者総意により一時埼霊神社」と改称したが、同27年に「埼玉県護國神社」に復した昭和30年1955年)、奉賛会設立されるまた、平成25年10月には特攻勇士の像建立された。

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天満宮 (横浜市港北区)」の記事における「由緒・歴史」の解説

鎌倉時代末期1325年(正中2年)に創建した伝えられ2025年創建700年迎える。 社伝によれば正中2年5月25日当地申酉(西北西)の方角から光物が現れてしきりに震動し夜になっても周辺を昼のように明るく照らした。ようやく当地山中鎮まったが、昼夜電光乱れ飛び人々近づくことができなかった。この時、小梅の木の下に現れ異香放ち正しく観世音菩薩天神として垂迹したもの思われた。興禅寺港北区高田町1799)の弁殊法印は「これこそ衆生済度方便大慈大悲誓いなり」と感じ先達となってを小前に置くと、小の上に留まった。領主桃井播磨守直常は、これを近く見聞きして信心止みがたく、社殿建立して当地一帯氏神としたという 。 江戸時代文化・文政期1804年1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「除地三段村内興禅寺のつづき南の方にあり。上屋三間四方、内に小社を置く。拝殿三間二間、南に向ふ神体新旧の二躯を安ず。共に長一尺許り。石の鳥居を立つ。の惣鎮守にして例祭年々九月二十五日なり」とある。 現在の社殿江戸時代初期領主旗本曾根氏造営したもので、幾度か大規模な改修重ねている。元は茅葺きであったが、第二次大戦後に瓦に替え現在のような姿となった

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 02:13 UTC 版)

深見神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

明治9年1876年)の火災により、社殿古文書に至るまで全て焼失している。以下は当社に伝わる由緒であるが、『総国風土記』や『延喜式神名帳』などの歴史文献記され内容除き正式な文書として今に残っているものではない。

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 04:56 UTC 版)

小野神社 (厚木市)」の記事における「由緒・歴史」の解説

当社創建時期は不明であるが、『延喜式神名帳』において「相模国十三座(式内社)の内 愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社である。当地域は古くより「小野の里」と呼ばれ、『和名類聚抄』にも記載されている愛甲郡玉川郷」の中心地であった霊亀2年716年)、奈良時代高僧である行基薬師如来の像を刻んで当社奉安したと社伝により今に伝えられている。 鎌倉時代には、源頼朝以来三代渡り御家人として将軍仕え弓の名手として名高い愛甲に館を置く愛甲三郎季隆が当社篤く信仰していた(季隆を筆頭愛甲全体でも崇拝されていた)。古い納札には建久5年1194年)に当社再興した記録があり、その時願主愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官大江大夫廣元の名も残っている(以降社殿は現在までに五回改められている)。なお、愛甲氏本家である横山氏小野妹子の子孫といわれている。 その後江戸時代末期にはわずかに鎮座地の転社(移転が行われ(転社の歴史については「#旧社地」を参照)、また明治6年1873年)には郷社近代社格制度)に列せられている。拝殿それまで藁葺屋根嘉永元年1848年)築)であったが、昭和43年1968年)には鉄板葺に替えられている。 扁額に現在も残っている「閑香大明神」は江戸時代称していた名で、小野の「閑香さま」と一般に呼ばれていた。江戸時代編纂された『新編相模国風土記稿』からは、当時社名が「閑香大明神」、祭神は「下春命」であったことが伺える。祭神現在の日本武命となったのは明治時代入ってからで、「日本武尊東国遠征する際に野火焼きうちにあった」という『古事記』記述の地が、小野関係するとされたことによる

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 18:27 UTC 版)

杉山神社 (横浜市港北区新吉田町)」の記事における「由緒・歴史」の解説

房総半島より移ってきた一族祀ったとする説がある。創建時期は不明であるが、『武蔵式社記』では「都筑郡吉田云う杉山という小地名ありて其の処に座す実蹟なり」、文化・文政期1804年1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では「除地二段五畝、北方にあり、石階数級を登り社前鳥居を立つ、本社二間二間半、拝殿三間二間南向神体不動村内正福寺の持」とそれぞれ記されている 。なお、当神社神宝由緒書等は別当寺であった正福寺により保管されていたが、同寺院火災の際に尽く焼失した伝えられている。 1873年明治6年)には当時都筑郡吉田村1889年合併により新田村となる)において郷社に列格している。

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 22:43 UTC 版)

本牧神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

創設時期については諸説がある。本牧神社由緒書によると、建久2年1192年)、鎌倉幕府開設した源頼朝が、鎌倉から鬼門方角である北東にあたる本牧の地の鎮護のために朱塗厨子奉納したことが始まりであるとしている。江戸時代本牧神社別当寺であった多聞院由緒書によれば弘長三年1263年元旦本牧海岸漂着した大日霊女命の像を祭ったことが始まりであるとしている。『新編武蔵風土記稿』では、永禄2年1559年1月8日に、本牧村漁師松本次郎左衛門が漁をしていた際、網にかかった十二天の像を本牧隣接する北方若宮八幡宮奉納し、後に本牧総鎮守にしたとされている。 鎌倉時代には将軍惟康親王室町時代には関東管領から寄進を受ける。天正19年には、本牧十二天12石の寄進を受ける朱印状徳川家康から与えられた。江戸時代には神仏習合によって多聞院別当に入ることになるが、明治元年神仏分離令によって、多聞院から再び分かれて独立した本牧神社は、元々は東京湾つきだした高さ30メートルほどの本牧十二天の丘(現・本牧十二天緑地)の麓に所在していた。太平洋戦争の際、本牧十二天の丘も空襲遭い社殿境内消失する氏子によって仮社殿造営されるが、戦後アメリカ軍横浜進駐し、昭和21年から本牧十二天を含む本牧地区アメリカ軍住宅地区として接収された。昭和29年には、氏子結成した本牧神社復興奉讃会による寄付が行われ、本牧町へと仮遷座した。昭和57年アメリカ軍から本牧地区返還され横浜市による区画整理事業が始まる。平成5年所在地本牧和田へと移し社殿完成した

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:10 UTC 版)

鈴鹿明神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇御代539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている。一方正倉院文書』によると、天平年間729年749年)には当地鈴鹿王所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名付けられたとも考えられている。また、当社縁起では「遠く伊勢鈴鹿郷の祭礼において神輿海上渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神崇め祀った」という伝説残されている。 当社最古棟札弘治2年1556年)の再建時のもので、当地小田原北条氏領地であったことから北條藤菊丸(北条氏照)が大壇越(金子五千疋で「鈴鹿大明神再造成就処」)、および地域領主若林大炊助であった旨が記されているが、これには近世初頭改竄見られる。またこの再建時には京都祇園八坂神社祭神素戔鳴尊」が合祀されている。造立修理伝え棟札この他にも、元和6年1620年)、寛文6年1666年)、元禄16年1703年)、享保3年1718年)および18年1733年)、宝暦8年1758年)の記銘のあるものが伝えられている。 江戸時代には当社鎮座する座間宿村入谷村総鎮守となっていた。その後明治2年1869年12月には、座間宿村入谷村を含む27現在の座間市相模原市全域および大和市海老名市一部に及ぶ広範囲地域)の郷社に列格している。また、現代において昭和43年1968年1月神奈川県神社庁献幣使参向神社指定され県内の有力神社となっている。

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 23:33 UTC 版)

福聚寺 (北九州市)」の記事における「由緒・歴史」の解説

1665年寛文5年)、小倉小笠原初代藩主小笠原忠真菩提寺として創建開山即非如一隠元高弟)。1679年延宝7年)、2代藩主小笠原忠雄により現在地改められた。1866年慶応2年)、長州藩との戦い時に多く焼失したが、本堂入り口の門、鐘つき堂等は当時のまま残されている。1969年昭和44年)、県指定史跡境内墓地には小倉藩戦死者祀る慶応之役小倉藩戦死者墓」がある。また、小倉炭鉱出水事故殉職者慰霊塔建立されている。

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由緒・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:28 UTC 版)

引手力命神社」の記事における「由緒・歴史」の解説

創建時期は不明であるが、一説には白鳳13年(684年)に発生した大地震伴って海底が突然三百丈余隆起して琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震多く土地が海没した土佐国から神が土地引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われる。「琵琶島」はやがて砂洲形成により陸繋島となり大瀬崎となった平安時代末期源為朝源頼朝、および北条政子源氏再興祈願して当社弓矢、兜、鏡、太刀などを奉納し源氏再興叶い鎌倉幕府成立して以降は、多く武将たちが弓矢太刀奉納するようになったとされる室町時代には熊野国水軍武将であった鈴木繁伴がこの地を支配し(館の跡とみられる遺構がある)祭祀勤しんだとされるが、その後度重なる地震津波で館も奉納品全て失われた。しかし砂の中からそれらの一部が見つかるに及んで地元人々がこれらを奉り何時とはなしに再興され今日至っている。 現在の社殿1939年昭和14年)に再建されたものである伊豆七不思議のひとつである神池を境内地持ち、禊の地として、また海上守護の神として多く人々崇敬集めている。これと共に駿河湾対岸富士山愛鷹山を望む景勝地として、またダイビングメッカとしても広く知られている海上安全を願う人々が赤い褌(写真右側の赤い布々)を奉納する風習があり、また漁船進水式関連してその漁船縮尺模型海上安全と豊漁祈願して奉納する風習もあった。この関係で、漁の様子描いた絵馬漁船木造模型など多数奉納され、その一部絵馬奉納殿に展示されている。ただ、1892年明治25年)に発生した火災により、それ以前奉納されていた模型焼失してしまった。2008年現在は、それ以降奉納され32隻のうち一部展示されているが、模型の裏には墨書き奉納者の氏名住所奉納年が記録されており、明治・大正・昭和初期駿河湾沿岸漁船様式正確に再現され、また同神社信仰圏駿河湾の広い範囲分布していたことが見出される

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