境内・社殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/19 16:18 UTC 版)
大分市街地西方の二葉山(八幡柞原山とも)山麓に鎮座する。境内入口の長い階段を上ると南大門が南東向きに建つ。この門を過ぎると、道は正面方向と右斜め方向の二手に分かれる。正面の道は西門(参拝入口)へ向かう参道、右斜め方向の道は勅使道と呼ばれ、石段を経て神域南正面の楼門へ至る。本殿は八幡造と呼ばれる特異な建築形式になる。本殿手前には申殿、その手前に接して拝殿が建ち、拝殿手前に前述の楼門がある。このほか、楼門左右に東西回廊、本殿左右に東西宝殿、本殿西方に宝蔵と八王子社、申殿西方に前述の西門が建つ。本殿、申殿、拝殿、楼門、東西宝殿、東西回廊、西門、南大門の10棟は2011年、国の重要文化財に指定された(他に宝蔵と八王子社が重要文化財の「附」(つけたり)指定となっている)。以上の社殿はいずれも寛延2年(1749年)焼失後に順次再建されたものである。 本殿は嘉永3年(1850年)上棟の八幡造社殿である。八幡造とは神社本殿の建築形式の一つで、大分県宇佐神宮(宇佐八幡)本殿にみられることからこの名があり、切妻造社殿2棟を前後に連結したような特異な形式である。当神社の本殿はともに桁行5間、梁間2間の後殿と前殿を前後に接続した形になる。柱、梁などの軸部は朱塗とし、蔀(しとみ)を黒塗とする。この配色は当神社の他の社殿にも共通している。屋根は銅板葺きとする(当神社の重要文化財建造物は東西回廊を除いてすべて銅版葺き)。西側の縁の後方に「花堂」(華堂)と称する小社殿が付属するのも当本殿の特色である。同様の小社殿を付属する例は大分県南部から宮崎県北部にかけての神社にみられる。 本殿手前には切妻造妻入りの申殿、その手前に接して同じく切妻造妻入りの拝殿が建つ。申殿は前述の寛延の火災後まもない宝暦2年(1752年)頃の建立、拝殿は後述の楼門と同じく宝暦9年(1759年)頃の建立とみられる。 楼門は棟札により宝暦9年(1759年)の上棟、翌年の完成とわかる。入母屋造、間口3間の通常の形式であるが、下層正面に軒唐破風(のきからはふ)を設ける点が特異である。 楼門の左右に接続する東回廊・西回廊は寛政10年(1798年)頃の建立で、他の社殿と異なり桟瓦葺きとする。西回廊西端の授与所は重要文化財指定の対象外である。 本殿の左方と右方に建つ東宝殿・西宝殿は宝暦7年(1757年)の建立で、いずれも切妻造、桁行3間の小社殿である。 西門は切妻造の四脚門で、江戸時代末期の建立とみられる。 南大門は棟札により明治3年(1870年)の建立とわかる。柱間に二十四孝、日本武尊などを表した装飾彫刻があり、「日暮門」とも呼ばれる。外観は複雑に見えるが、構造の基本は入母屋造の四脚門で、この前後にそれぞれ唐破風造の突出部を設け、左右に切妻造の脇門を設けたものである。 大鳥居JR九州・西大分駅の北側、表裏の両参道入口にある。撮影位置の背後方向には当社の浜の市仮宮がある。写真は3代目の鳥居であり、1979年から2019年まで設置されていた。 注連縄鳥居表参道側の鳥居。階段を上ると南大門がある。 南大門別名・日暮し門。元和9年(1623年)に再建されたが、現存する門は明治3年(1870年)の建立。この門の先で、道は西門へ向かう参道と勅使道に分かれる。 西門 申殿・拝殿・楼門西門付近から撮影。左から申殿・拝殿・楼門。 勅使道から見上げた楼門 拝殿・申殿の内部楼門内部から撮影。階段の手前が拝殿、向こう側が申殿。一番奥には本殿の扉が見える。
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