境内由緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 04:12 UTC 版)
平安時代の末、木曾義仲の遺臣であった今井氏、高梨氏、根井氏、楯氏、町田氏、小野沢氏、萩原氏、望月氏、串渕氏、諸田氏等が長野県の延喜式内社である岡田・紗田・阿礼の三社を勧請し、箱田神社を創建し祭祀して来たが、その後、社殿は荒廃した。安政年間(1854年 - 1860年)に下箱田の木曾三社神社から分詞して木曾三柱神社とした。 木曾神社の遷宮鎮座に関して『平成祭データ』に以下の話が載っている。木曾義仲の没後、その遺臣らは一時木曾の谷にいたが、源頼朝の詮議が厳しいので、木曾は決して安全な隠れ場所ではなくなった。この時、木曾氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院という人は、三夜続けて不思議な夢をみた。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和な村があった。そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると、「只の箱だ。」とのみ答えた。今、その土地を箱田と言う。しかし、神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下だった。そして、また人々は旅に出たが今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。ここで人々は一憩したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろした。すると不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。ここにまつられたのが箱田神社、後の木曾三社神社である。今でも神社の前に高梨氏の石像と、木曾三郎義基の御腰掛石とがある。遺臣たちはここに土着して四方に広がっていった。 明治41年(1908年)、境内末社と宇東田の郡玉神社、宇天神東の井出上神社、宇四ノ宮の滋野神社、宇八幡山の八幡宮、宇西裏の大山祇神社を合祀した。なお、郡玉神社は『上野の国神名帳』に「正四位下郡玉明神」とあり、井出上神社は「正五位上井出上神」とある。
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