境内由緒書とは? わかりやすく解説

境内由緒書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:16 UTC 版)

木曾三社神社」の記事における「境内由緒書」の解説

当社は、後鳥羽天皇御代元暦元年1184年)の創立伝えられる延喜式信濃筑摩郡三座岡田神社沙田(いさごだ)神社阿礼神社三社は、木曾義仲厚く崇敬し神社であるが、元暦元年正月義仲没落及んで、その遺臣今井高梨町田小野沢萩原諸田、串淵等が神託奉じて、この地に遷したものである。 木曾神社遷宮鎮座に関して平成データ』に以下の話が載っている。木曾義仲没後、その遺臣らは一時木曾の谷にいたが、源頼朝詮議厳しいので、木曾決し安全な隠れ場所ではなくなった。この時、木曾氏信仰していた三社神社神官であった高梨南学院という人は、三夜続けて不思議な夢をみた。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。そこで遺臣らが相談した結果神体七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和ながあった。そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると、「只の箱だ。」とのみ答えた。今、その土地箱田と言う。しかし、神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下だった。そして、また人々は旅に出た今度半日にして利根川東岸山中のある清い泉の所に着いた。ここで人々は一憩したが、その時御神体の箱をとある石の上降ろした。すると不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。ここにまつられたのが箱田神社、後の木曾三社神社である。今でも神社前に高梨氏石像と、木曾三郎義基の御腰掛石とがある。遺臣たちはここに土着して四方広がっていった。

※この「境内由緒書」の解説は、「木曾三社神社」の解説の一部です。
「境内由緒書」を含む「木曾三社神社」の記事については、「木曾三社神社」の概要を参照ください。

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