山岳信仰とは? わかりやすく解説

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さんがく‐しんこう〔‐シンカウ〕【山岳信仰】


さんがくしんこう 【山岳信仰】

山岳宗教とも。山に超自然的威力認め、または霊的存在として、信仰の対象とし、あるいはそこを聖地修行道場とする宗教ギリシアオリンポスユダヤシナイ山中国五岳インドチベット間に連なるヒマラヤなど、世界中にその例がある。日本では富士山のように民間信仰から教派神道発展江戸時代したものもあるが、上代にはすでに仏教融合するものが現れ比叡山高野山など好例)、中世になると修験道場方々にでき、これらを山岳仏教とも呼ぶ。→ 修験道

山岳信仰(さんがくしんこう)


山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 05:58 UTC 版)

山岳信仰(さんがくしんこう、英語: mountain worship)とは、を神聖視し崇拝の対象とする信仰





山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 13:46 UTC 版)

鳥海山大物忌神社」の記事における「山岳信仰」の解説

越国より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北着手至ったが、当時この地方原生林覆われ、また南方追われ蝦夷群居し、常に噴煙吐き時々大爆発する鳥海山存在朝廷軍にとって脅威であったそのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷鳥海山爆発が夷乱と相関していると疑ったではないか、と『名勝鳥海山』では推測している。 前述の『日本三代実録貞観13年871年5月16日の条にある出羽国司からの報告には、鳥海山噴火について、「出羽名神祈祷したが後の報祭怠り、また墓の骸骨山水汚しているため怒り発して山が焼けこの様災異起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火兵乱前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』では述べている。 上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名無く、山そのもの大物忌神称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄忌むことであり、山の爆発山神が夷乱凶変忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷考えたことが、この山神大物忌神称した所以であると『名勝鳥海山』では考察している。また同書では、山神怒り鎮め、その力を借りて夷乱凶変未然防ごうとした一例として、『日本紀略天慶2年939年4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱発生の報が到達した際、朝廷物忌が行われたことを挙げている。なお『本朝世紀天慶2年939年4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 17:54 UTC 版)

本山 (宇都宮市)」の記事における「山岳信仰」の解説

榛名山はかつて山岳信仰の対象であったことから、山頂部には榛名神社祀った石の祠がある。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 05:17 UTC 版)

ボグド・ハーン山」の記事における「山岳信仰」の解説

詳細は「ブルカン・カルドゥン」を参照 ボグド・ハーン山は山岳信仰の対象となっている。文化遺産暫定リストには記載されている。

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山岳信仰

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龍王岳」の記事における「山岳信仰」の解説

山名になっている龍王とは竜族の王で仏法守護しを祈る本尊あり、かつては当山山頂雄山神社東社の龍王獄社の小社があった。祭神天水分神国水分神で、天地司る神である。 立山カルデラにある湖沼一つである刈込池龍王住処とされ、伝説では立山開山の祖、佐伯有頼常願寺川氾濫鎮めるため水害をもたらす三里四方悪龍大蛇立山権現祈って全てこの池に閉じ込めたという。 1858(安政5)年の大地震水害以降は、立山温泉龍王岳から移動した水上龍王堂があり、刈込池龍神請雨祈祷しとされる

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山岳信仰

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立山」の記事における「山岳信仰」の解説

立山は、縄文太古から自然崇拝の山として、また、奈良・平安時代以降は山岳信仰による立山修験現れて、日本三霊山一つとされている。 越中の守として遣わされ国司大伴家持天平18年746年)-天平勝宝3年751年以前在任)は、 天平19年747)「皇神すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その多知夜麻(たちやま)に〜」(国神領有され新川のその立山に)と立山霊性詠んだ。「万葉集」(延暦25年806年以降に完)に歌われ立山は、遥かに敬い拝む神山であり、立山は、天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に、片貝川が詠われたのは有力な拠点があったと伺え片貝川後世まで立山神のふるさとといわる。現代まで片貝川小石持参して頂上供える習俗続いており、保の伏山や有頼などを伝え大伴氏から別れた佐伯氏片貝川布施川辺り蕃衍している。山麓には信仰にかかわる立山神霊祀ったとみられ、この奈良時代(710-794)ごろは、古来地主神とされる刀尾(たちお)天神敬っていたと見られる一方8世紀ごろに役小角舒明天皇6年634年)- 大宝元年701年)伝)を開祖とする修験道広まり加え、これを追いかけ9世紀初頭空海(佐伯真魚)・最澄(三津広野)らが密教真言宗天台宗)を日本伝える。山中での修験広まり密教結びつき立山には、吉野熊野三山、および、高野山金剛峯寺比叡山寺門派などの修験修行僧入った考えらる。開山の記に、大日岳剣岳の両山頂付近では、奈良後期から平安初期錫杖が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろ律令国家的な開山がなされ、併せて寺院など建立進んだことが伺える。 京の東方立山では、大日、および、不動明王薬師浄土など真言密教系の修験取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教修験の場である。中心に西方司る阿弥陀坐す最澄修めることが出来なかった真言密教は、円仁から円珍(814-891)と渡り補完された。佐伯一門空海の甥の円珍は、役行者の後を慕い承和12年845年大峯山葛城山熊野三山巡礼修験道の発展寄与し承和13年846年延暦寺学頭となって仁寿3年853年)唐に渡った天台山に学ぶのみならず青龍寺の法全(はっせん)から伯父空海同じく密教奥義伝授された。天安2年858年)に帰国し、翌貞観元年859年)に園城寺入り清和天皇より園城寺を賜わって園城寺顕教密教加えて修験道兼学する伝法灌頂道場とし、唐から請来した経典法具園城寺唐院収蔵した。円珍は、最澄志した真言密教修めた天台法華円宗の円密一致補完した。 この円珍弟子、康済(こうぜい)(828-899)は、比叡山にて承和14年847年)に受戒し円珍天安2年858年)に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂授けられ律師法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承ししそうじょう)しており、のちに天台座主第8世園城寺長吏4世別当大師)に至る。高野山比叡山と同規模上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設登山ルートなど形の整えは、在地佐伯一門中心にまた、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる立山説話では、立山山麓芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)又は森尻(もりじり)など広範囲広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台仏寺は残らず、峅、岩峅の両拠点雄山神社の他に、日中日置神社が、森尻神度神社残って僅かに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺中宮祈願殿)、岩峅寺の麓大宮前立社壇とともに三位一体の形を有し健在である。峰本社見上げ室堂平には参籠の場として建てられ室堂復元されている。この他に、刀尾神社が点在しており、また、真言密教仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などが僅かに現存している。 康済が律師となったころ、「雄山神」は、清和天皇から貞観5年8639月条、初め官位授かり三代実録25日甲寅越中国正五位下雄山神に正五位上授く」とあり、その功績から律令国家の下におかれている国司同様それ以上遇される雄山神社創建伺え、この時までには開山していたと見られるまた、雄山神」の功績から、宇多天皇寛平元年(889)8月条、日本紀略正五位上雄山神を従四位下に叙す」と昇進している。 国司政務は、在地佐伯一門影響があったと想起され、何らか雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる国司8世紀家持と池主のほか佐伯御形佐伯守、9世紀大伴黒成、佐伯河雄などが続き、 特に10世紀赴任した従五位下越中守佐伯有若 (延喜5年905年)- 延喜10年910年在任) は殊更で、在地にも基盤があったと見て取れ有若名声開山縁起残している。かつて魚津蕃衍した在地佐伯一門は、御形守の頃より拠点移動して森尻日中経て開山前には、峅、岩峅の両拠点移っていたと見られる開山縁起では、大宝律令施行大宝元年701)に遡って、これら開山大きく比喩した説話替えられている。剣山刀尾天神白鷹剣岳)を目指し立山に入るも、不意に現れ阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢立て感得して立山建立しまた、慈興律師らの寺院普及などを、国司有若または子の有頼の功績として説話祭ったと見られる説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起見られる修験説話形式踏まえて、かつ、康済と在地佐伯一門天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀例え中興の祖良源諡号慈恵のように)を名に当て嵌めて、慈朝と慈興などと准えと見られる立山中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐す考えられたが、其れまで秘境であった立山において姿すら未知秘峰立山本峰(ほんみね)に坐す雄山神」が、天台立山開山伴って周知されると信仰改まったと見られる。「雄山神」は、日本神話説話古事記(712)、日本書紀(720)など)による天地開闢黄泉の国伊邪那岐命いざなぎ)の黄泉帰り神産みの禊などに根ざし末法思想広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰強く結びつき立山地獄説話と共に西方極楽浄土神山として立山権現定着したまた、剣岳に刀尾(たちお)権現本地不動明王)として手力男命たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる雄山神社祭神は、主神伊邪那岐命阿弥陀如来、副神に手力雄命不動明王祭られ本地垂迹による神仏混淆がみられ、岩峅寺雄山神社境内摂社にも刀尾(たちお)神社祀られている。また「和漢三才図会」(1712年)巻六八に、立山りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現祭神として伊邪那岐命手力男命あがっている。 なお、平安以降立山権現には現在と異なる姿がある。 芦峅寺坊本立山縁起」には「立山禅定濫觴トハ神祇五代開基伊弉冉伊弉諾命霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元衆生流出本土也」とあり、国初男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年1696年橘三喜立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間仕切り伊弉諾いざなぎ)・伊弉冉いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。 明和7年(1770)京都公卿町尻兼久従臣遣して岩峅寺立山権現参詣させた時、岩峅寺社僧立山国初男女両神祀る明言している(岩峅寺文書)。 岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現伊弉諾伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図石川県金沢市図書館)。

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山岳信仰

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日光白根山」の記事における「山岳信仰」の解説

江戸期から明治にかけて、上州では奥白根山を『荒山権現』として祀り信仰登山対象となっていたと云われるが、その遺跡皆無である。現在、そのルート日光白根山ロープウェー経由の道に比較近く当時信仰登山纏わる地名地図上にのみ見える。 現在は、前白根山山頂前白根山神社奥白根山山頂奥白根山神社がある。

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山岳信仰

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磐梯山」の記事における「山岳信仰」の解説

磐梯山南西にあった慧日寺現在の恵日寺)は北東磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割果たしてきた。そもそも慧日寺開基806年磐梯山噴火した翌年のことであり、噴火慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルート慧日寺門前町本寺始点としたいくつかのルート開拓されている。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:22 UTC 版)

飯豊山」の記事における「山岳信仰」の解説

652年白雉3年)、知同和尚と役小角開山したとされるい山信仰の場である。飯豊山大権現祀る修験の場として栄え江戸時代初期までには修験道修験者多く訪れた元禄以降修験色は弱まり稲作信仰成人儀礼死者供養などを中心とする庶民信仰の形態移行したまた、明治初年神仏分離によって飯豊山神社となり、地域住民から崇敬された。特に太平洋戦争前までは、飯豊山への登頂少年成人儀式として用いられたことから地域との密着性が高まった15歳まで登頂しなかったものは一人前として認めてもらえなかった(通過儀礼参照)ことから、盛んに集団登山御山駆けが行われていたのである終戦後は、こうした習慣廃れはしたものの、女人禁制解除され多く登山者訪れる山として変貌した前述したように県境設定原因にもなった。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:41 UTC 版)

神峯山寺」の記事における「山岳信仰」の解説

役小角開山した寺院であったことから、神峯山寺一帯は山岳信仰が色濃く残る場所であった一帯の峯を総称する神峯山は龍のご神体として信仰され境内にある九頭龍滝はその龍の口であると言い伝えられていることなどから、神仏混淆寺院として天台宗寺院とは異な側面を持つ場所であることが分かる。現在も修験道志す修験者寺領修行をする光景見られる

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山岳信仰

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恵日寺 (福島県磐梯町)」の記事における「山岳信仰」の解説

慧日寺北東磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割果たしてきた。そもそも慧日寺開基806年大同元年)に磐梯山噴火した翌年のことであり、噴火慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルート慧日寺門前町本寺始点としたいくつかのルート開拓されている。

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山岳信仰

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岩木山」の記事における「山岳信仰」の解説

岩木山は、古くから山岳信仰の対象とされていて、山頂には岩木山神社奥宮がある。岩木山神社には、五大の神である岩木山大神祀られている。丹後国郎党大江時廉の陰謀によって滅ぼされ岩城正氏の子安寿と厨子王丸伝説残されており、安寿岩木山祀られているため、岩木山の神は丹後国の人を忌み嫌うという言い伝えがあった。丹後国の人が当地に入ると風雨がうち続く悪天候となり、船の出入りできないとして厳し吟味が行なわれ、入り込んだ丹後国の人は追い出された。安政5年5月24日布令には「頃日天気不正に付、御領分へ丹後入込候哉も難計に付右体之者見当候者、早速送返候様、尚亦諸勧進等も吟味仕候様被仰付候間、御家中在町寺社共不洩候様、此段被申触候以上。御目付と書かれた。 山頂神社奥宮では夏季になると職員常駐しお守り登頂記念の手拭い購入することができる。岩木山から遠い五所川原市市浦地区には、関東見られる富士講のように、近隣三角錐型の小さな山である山(標高152m)を岩木山見立てて参詣する習俗があった。市浦地区山には岩木山神社があり、別名「脇本岩木山」と呼ばれている。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 17:30 UTC 版)

茶臼岳 (栃木県)」の記事における「山岳信仰」の解説

茶臼岳をはじめ、那須岳山麓温泉街は、古くから那須連山の山岳信仰のための登山基地のような機能受け持っていたと云われる。山腹には九尾の狐と殺生石伝説など、山岳信仰に因む逸話数多く残されている。またこの殺生石付近那須湯本には複数の社があり、温泉群にも信仰因む名称が付されている。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:58 UTC 版)

瓶ヶ森」の記事における「山岳信仰」の解説

斉明天皇の頃、当山々頂から北方向に下った中腹聳える龍王山標高840m辺り)に役の行者役小角)は籠り修行をしていると阿弥陀三尊出現ついには土蔵大権現感得した。その後龍王山から約0.5km下った平地天河寺創建した天平9年737年行基によって当山々頂に石土山開山され、天平勝宝5年753年)には芳元によって熊野権現勧請され、当山絶頂にて「宮とこ」と称した天河寺はその別当として登拝の拠点として隆盛した。天長5年828年)には、今の石鎚山弥山にも当山から勧請された。しかし、室町末期兵火により天河寺は廃塵と化しその後再興されことはなかった。 現在は、石土宗総本山石中寺いわなかでら)が男山山頂を石土山頂上として、毎年7月1日から10日までを「石土山入峰大会」と称して信者達が当山および子持権現山に登拝する行事行い、その10日間は頂上直下にある山小屋泊まり込んでいる。 なお、最近まで男道女道は別々で男女分かれてそれぞれの山に登拝していた。 西の川→名古瀬越谷十郎あれ→常住(988m)→鳥越→釜床谷→瓶壺→男山(または、鳥越子持権現山男山西の川東之川谷→東之川新道→台ヶ女山

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山岳信仰

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笹ヶ峰」の記事における「山岳信仰」の解説

山頂には金剛笹ヶ峰鉄蔵大権現大日大聖不動明王祀られる石鎚山および瓶ヶ森と共に伊予三名山」とされてきた。古代石鎚山として称された山は瓶ヶ森子持権現山および笹ヶ峰であったとされる。『正法寺史』の記述に基づくと奈良時代石鎚山瓶ヶ森子持権現山笹ヶ峰のうち、現在の笹ヶ峰指してたとする説があり、新居浜市の石鈇山正法寺は現在も石鎚権現別当主張し毎年7月笹ヶ峰お山開き登拝をしている。 1935年には、山頂直下紅葉谷に石神社建立されていたが、現在では社殿倒壊し祭祀場所ちち山山頂祀られた祠に遷っている。

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 16:14 UTC 版)

与四兵衛山」の記事における「山岳信仰」の解説

この山は芦峅寺から鋭い三角形山容見えるうえ、山頂立山連峰一望できるそのことから最も古くより立山の山岳信仰の聖地ときて盤を設けて祭祀が行われてきた。またこの山の中腹はいくつもの安山岩巨石があり、そのうち一つの石は富山市本宮にある立蔵神社に、公卿石符号とみられる碁盤状の線刻多数ある石)に加工され奉納されている。この山の麓にはかつての雄山神社本宮があったとも言われている。 2000年7月には山頂に「立山本宮」の石碑建てられ

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山岳信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 09:50 UTC 版)

葉山 (村山市)」の記事における「山岳信仰」の解説

葉山は、山岳信仰の山として東北地方一円尊敬受けていた。 東北地方には、葉山信仰呼ばれる信仰がある。葉山は「羽山」「端山」とも書かれ、里から離れた奥山」に対し、里に近い山という意味をもつ。葉山には農業の神が住むとされ、季節の折々に山に登り五穀豊穣祈った村山葉山は特に、役小角が山を開いて以降修験道の山となり、山麓寺院宿坊作られ江戸時代初期までは羽黒山月山とともに出羽三山一山数えられていた。のちに出羽三山一山となる湯殿山奥山見立てその手前にある葉山という形である。葉山の神は、「葉山薬師権現」と呼ばれていた。 「慈恩寺 (寒河江市)」も参照 初期には、天台宗真言宗兼学慈恩寺葉山別当寺であり、この地を領していた大江氏最上氏庇護を受けつつ葉山修験中心となっていたが、天文年間慈恩寺葉山と関係を絶ち三合山(十部一峠)を奥の院としてからは葉山山岳修験衰退しいつしか出羽三山からも外れることとなった江戸時代には、寒河江市にあった天台宗大円院葉山修験中心となったかつては12坊の壮大な伽藍誇り新庄藩庇護を受け、新庄藩祈祷所でもあった。葉山は、農業神のみならず、最上川水運守り神として、船頭からも尊敬されたという。 明治時代になると、葉山修験はますます衰亡し、1946年昭和21年大円院敷地GHQアメリカ陸軍大高演習場着弾地に指定されると、大円院への立ち入り禁止され寺院取り壊され葉山修験はほぼ消滅してしまった。なお、大円院規模大幅に縮小して1950年(昭和25年)に村山市岩野移転し寺院として現存している。また、もともと葉山修験行っていた坊が、慈恩寺の坊として寒河江市慈恩寺現存する

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