略縁起
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千葉氏の守護神である北辰妙見尊星王(妙見菩薩)を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立され、千葉氏の祖平忠常の子覚算大僧正によって伽藍が整備されたと伝えられる。以降千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われた。また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。 千葉妙見宮には本来、妙見菩薩とともに1181年(養和元年)に千葉常胤によって鶴岡八幡宮から勧請された八幡神が祀られていた。当初は八幡神が弓箭神とし、妙見菩薩は鎮守・産土神・農耕神的な役割を担っていたが、千葉氏の一族が多数連座した宝治合戦で一族が動揺した時期(13世紀中期)に一族の団結を維持するために従来の八幡神に代えて、千葉氏を含めた房総平氏において独自の篤い信仰を受けていた妙見菩薩に弓箭神の要素を加えて、千葉氏が妙見菩薩を庇護された存在であることを強調する“妙見説話”が形成された。その集大成が『源平闘諍録』であり、後世に千葉妙見宮(千葉神社)を描いた縁起絵巻にも反映されている。現在も末社の1つに八幡神社があるのはその名残である。 1591年(天正19年)徳川家康が関東に入部し、この寺を参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を寄進したとされ、同時に朱印地200石と十万石の格式が与えられた。 江戸時代には北斗山金剛授寺尊光院と称する真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められた。ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が日本有数の「妙見信仰」の中心とされてきている事には変わりがない。
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略縁起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/25 02:37 UTC 版)
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する小字名善光寺屋敷址といわれる位置にあったが、天正年間織田信長の河内小山城攻めの折、小山城と共に戦火をうける。堂舎焼失後、西誉宗珍によって慶長年間(江戸時代初期)になって現在地に移転再建される。小山善光寺は南面山無量壽院善光寺と称し、本田善光の伝説を持っている。その内容としては、推古天皇の御代若使主東人(オカオミアズマビト)本田善光が信州に帰国する途中、難波の堀江で一光三尊仏を拾ってこれを背負って小山の里の隆聖法師の庵に宿泊した。法師はその仏像をまつらせてほしいと善光に所望したが一体しかないので二人で三日三晩にわたり念仏したところ第三日目に一光三尊仏が二体になったので隆聖法師はその一体を入手して本尊とし河内小山に一寺を建立した。本田善光は他の一体を背負って信濃に帰り信濃の善光寺の本尊とした。日本で最初に建立されたので日本最初の善光寺と称するようになった。
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略縁起
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欽明天皇13年(552年、一説に538年とも)、百済(朝鮮半島南西部)の聖王(聖明王)が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が、疫病流行のために物部氏によって難波の堀江(現在の大阪とも奈良県明日香村とも)に捨てられた。 推古天皇8年(600年)、上洛していた本田善光がそこを通りかかるとその阿弥陀如来像(のちに長野市善光寺の古来から絶対秘仏として伝わる本尊となる)が水中から出現して背に乗った。 信濃に戻り家に安置し、その後阿弥陀如来の霊告で、信濃水内郡芋井郷(現在の長野市)に移座し、如来堂を建立して祀ったという。
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