じょう‐だい〔ジヤウ‐〕【上代】
〒860-0068 熊本県熊本市西区上代
上代
上代(かみしろ)
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「ちぱパニック!!」の記事における「上代(かみしろ)」の解説
第12話「ちぱとカミシロ」にて登場したベテラン警部。偶然空き巣を捕まえ感謝状を貰うちぱに、「いい気になるな」と忠告し対立。
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上代
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『日本書紀』によれば、神功皇后が夫・仲哀天皇の崩後、皇太后として幼少の誉田別皇子(後の応神天皇)の代わりに「摂政」したというが、皇太后の執政は摂政というよりも称制に基づくものと考えられるし、また皇后の実在性の問題も含めて一般には史実と考えられていない。従って、神功皇后は摂政の例に数えない。
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上代(奈良時代)
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『古事記』におけるヤマトタケル。前述。 『万葉集』柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とある。 蜻蛉島大和の國は神からと言擧げせぬ國しかれども吾は言擧げす 巻十三 作者不詳
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上代
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日本では、3世紀終わりに和邇吉師によって漢字がもたらされたという伝説が残っており、その後も散発的に渡来人との交流があったと考えられるが、漢語の知識が体系化されたのは、上代になってからである。 日本はこの時代に大いに中華文明を模倣し、漢語も本来の意義と用法に出来る限り忠実に使用するよう努力された。漢語が日本語として融和することはなく、行政官や学者、あるいは僧侶の間の教養として用いられた。 この頃の日本語には、まだ拗音が存在しなかったため、「精進」を「サウジ」、「修行」を「スギヤウ」のように直音化して発音していたと考えられる。一方でこのとき日本語内部でイ音便やウ音便などの変化が発生したのは、漢語の発音が何らかの影響を与えていたからとされる。
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上代
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上代歌謡 和歌が現れる以前に、感情の高まりから発せられた叫び、掛け声が次第に成長して、祭や労働の際に集団で歌われるようになった歌謡があったといわれるが、多くは文字に記されることなく失われてしまったという。それら歌謡が現在見られる五音七音でもって構成される和歌となるまでには、その形式に様々な過程や変遷を経たと見られる。現在『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『古語拾遺』『琴歌譜』『仏足跡歌碑』などに収録される韻文を上代歌謡と称しているが、その多くは五音や七音の句で構成されるなど、すでにかなり洗練された内容となっている。 記紀歌謡 『古事記』『日本書紀』に採られた上代歌謡を、特に記紀歌謡という。独立した歌謡ではなく、物語の効果を高めるために用いられていることが多いが、宮廷人が歌った儀式の歌謡や、創作もあるとされている。片歌、旋頭歌、短歌、長歌などの五音と七音を標準とする歌体に、対句、繰り返し、枕詞、序詞などの技法が用いられている。 上代歌謡は神楽歌や催馬楽などの楽器を伴う儀式歌の源流となるが、その歌体、技巧は後の和歌の母胎ともなっている。 万葉集 統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。それらを大成したのが『万葉集』である。万葉集の注記によると、万葉集以前にも『古歌集』『柿本人麻呂歌集』『笠金村歌集』『高橋虫麻呂歌集』『田辺福麻呂歌集』『類聚歌林』などがあったとされるが現存しない。『万葉集』は長い期間を経て多くの人々によってまとめられたが、最終的には大伴家持が現在の二十巻の形に編集したのだといわれている。約4500首が収められており、その最も古いものは仁徳天皇の代のものであるが、大部分は飛鳥時代から奈良時代中期にかけての約100年弱のもので占められている。貴族の歌のほかに東歌、防人歌など民衆の歌もあり、現実的、写実的な歌風が多いとされる。
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上代
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崇神天皇10年7月 - 四道将軍大彦命が高志道を綏撫したといわれる。 垂仁天皇23年 - 山辺之大鶙が垂仁天皇の命ずるところにより、鵠を追うて高志国に至ったといわれる。 景行天皇25年7月3日 - 武内宿禰が北陸巡察を行う。 成務天皇年間 - 伊彌頭国造として大河音足尼を任ずる。 仲哀天皇元年閏11月4日 - 越国より仲哀天皇へ白鳥を貢ずる。この時、蒲見別王がこれを越国人より奪ったので、仲哀天皇は兵を遣わし、これを誅殺した。 573年(敏達天皇2年)5月3日 - 高麗の使人が越海に漂着し、船破れて溺死者が多かったといわれる。 574年(敏達天皇3年)5月5日 - 再び高麗の使人が越海に泊り、7月20日上京したといわれる。 588年(崇峻天皇2年)7月1日 - 阿部臣が越国国境を視察する。 642年(皇極天皇元年)9月21日 - 越国の蝦夷が帰順したといわれる。 白雉年間 - この頃、鵜坂神社創建という。 658年(斉明天皇4年)4月 - 越国守阿倍比羅夫が粛慎の征討を開始し、660年(斉明天皇6年)2月には二百艘の船を率いて陸奥・渡島まで遠征したという。 698年(文武天皇2年) - 伝承によればこの年、各願寺(旧婦負郡婦中町)が創建されたという。『肯構泉達録』曰く、「婦負郡長澤山各願寺の草創は文武帝御宇なり越中は天武帝第九皇子経宮の御領地にて経宮又越の宮とも称せり皇子浮屠に帰依まし〳〵て祝髪し給ひ女犯肉食を断ち自仏の像を刻み朝昏供養し給ふ御年三十にして越へ下らせ三川島といふ所に宮を造り暫く爰に在し文武帝即位の年長澤山に伽藍を建立し給ふ是れ各願寺開山自信院一品親王仏性聖人なり」。 大宝年間 - この頃までに越国を分かって越前、越中、越後とする。越国の分立国は『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条に「越前国司献二白蛾一」とあるのを初見としていることから、692年(持統天皇6年)以前に越中国も成立した可能性が高いとされている。また、婦負郡、新川郡、射水郡、礪波郡もこの頃までには成立していたといわれ、703年(大宝2年)以前には頸城郡、古志郡、蒲原郡、魚沼郡も越中の版図に含まれていた。 701年(大宝元年) - この頃、越中国の国司である佐伯有頼またはその父・佐伯有若によって立山が開山し、雄山神社が開かれたと伝えられる。開山縁起についての最古の文書である『類聚既験抄』には「文武天皇御宇大宝元年始所建立也。相伝云、於立山狩人有之。熊射矢ヲ射立追入出処。其熊乍立矢死了。見之皆金色阿弥陀如来也。仍此山云立山権現也。顕現地獄云々」とあるのみで、誰が開山したかということは記されていない。『伊呂波字類抄』では単に狩人ではなくて熊を射った人物を越中守佐伯有若とし、阿弥陀如来を射てしまったことを契機に出家し、諸寺を建立したということになっているが、佐伯有頼を開山の祖とする文献も多く、『和漢三才図会』では佐伯有頼が白鷹を追って奥山に入った際、襲いかかってきた熊を弓で射たところ逃げていったので、これを追っていったところ血を流している阿弥陀如来に出逢い、如来より有頼へ立山を開くようにお告げのあったのが立山開山の謂れであるとしており、『立山大縁起』はこの佐伯有頼の出来事を大宝2年のこととしている。また『神道集』は立山開山は大宝3年に教導聖人によって行われたとしている。かくの如く立山開山譚は一様ではないが、佐伯有頼を開山の祖とする縁起が多い。 703年(大宝2年)3月甲申 - 越中国に属していた四郡(頸城郡、古志郡、蒲原郡、魚沼郡)を越後国に所属させる。 この年、婦負郡常楽寺に文武天皇の勅願によって常楽寺が創建されたという。本尊は行基の作と伝え、『越中旧事記』に「縁起云、文武天皇御勅願、大宝壬寅二年御建立也。本尊十一面観音行基師の作、御堂十一間四面観音を安置す」という。 706年(慶雲3年)2月26日 - 越中国の神社が祈年幣帛の例に入る。 709年(和銅2年)3月5日 - 越中等諸国より兵を徴発して越後の蝦夷征討を行う。 718年(養老2年) - 伝承によればこの年、天竺より僧善無畏三蔵が来朝し、礪波郡安居寺を創建したという。『越中旧事記』に「縁起に云、この寺は善無畏三蔵、此所に紫雲立をみて、この寺を発起すとなり。善無畏三蔵は、北天竺の甘露飯王の後胤なり」という。 719年(養老3年)7月9日 - 北陸道等の民二百戸を遷し出羽柵に配する。 7月13日 - 初めて按察使を置き、越前国守正五位下多治比広成に能登、越中、越後を管轄させる。 725年(神亀2年) - 寺伝によると、北陸巡錫中の僧侶行基によって国内最大の石仏である不動明王像が彫られ真言密宗大岩山日石寺が開かれたという。『越中旧事記』曰く、「伝云、昔行基法師諸国に遊行して、仏像を造り給ふ、然るに越中白石と云處にて、東方を臨み見るに、東山の麓に火上石見ゆ、行基直に行て此不動尊を彫刻すといへり」。 732年(天平4年)9月5日 - 越中守として田口年足を任ずる(文献上初の越中国国司)。 741年(天平13年)2月14日 - 聖武天皇、国分寺建立の詔を渙発し、「毎レ国造二僧寺一」よう命ずる。越中においては現在の高岡市伏木一宮にその遺構があり、県指定史蹟となっている。 12月10日 - 能登国(羽咋郡、珠洲郡、能登郡、鳳至郡)を越中国に併合する。 744年(天平16年)9月15日 - 初めて巡察使を畿内七道に派し、従五位下石川東人を北陸道使となす。 746年(天平18年)4月5日 - 初めて鎮撫使を置き、北陸山陰両道に巨勢奈氐麻呂を任ずる。 6月21日 - 越中国の国司として歌人でもある大伴家持が任ぜられる。後に大伴家持が中心となり編纂した『万葉集』には富山県の風景や伝説を詠んだ歌が全4536首のうち337首収められている。 8月7日 - 家持邸にて歌会を開き、史生土師宿祢道良が「ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ二上山に月傾きぬ」(巻十七)と作歌する。 8月15日 - 家持、宇佐八幡宮の神霊を勧請し奈呉八幡宮と称して、この日放生会を行う。これが放生津八幡宮の創始であると言われる。『越中国神社由来』曰く、「同郡放生津八幡宮、往古大社ニ而北条時政再興之由申伝候得共、寄進状等無二御座一候、古来ゟ奈古浦与申祭礼、八月十五日幸放生会ニ付、嘉暦三年ゟ放生津与改申由」云々。 9月25日 - 家持が、弟の卒去したのを聞き、これを悲しんで「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七)と作歌する。 747年(天平19年)2月20日 - 家持が病臥して、国守の館にて「山川のそきへを遠みはしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ」(巻十七〉と作歌する。 748年(天平20年)1月29日 - 家持、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」と作歌する。この「あゆの風」というのは鹿持雅澄が『万葉集古義』に「安由能加是は、下の自註に、越ノ俗語、東風ヲ謂ニ之安由之可是一也とあり、今も安以乃可是と云由、契沖云り」というように、元来は越中において東風を意味する語であって、あいの風とやま鉄道株式会社の社名はこれに由来している。 春 - 出挙のため家持が諸郡を巡行し、「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも」や「雄神川紅にほふ娘子らし葦付取ると瀬に立たすらし」(巻十七)などの歌を作る。 3月23日 - 左大臣橘家より使者あり、大伴家持を訪う。家持饗応して作歌あり、「奈呉の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む」(巻十八) 749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)5月5日 - 大伴家持が東大寺占墾地視察のため、東大寺占墾地使僧平栄を饗し、「焼き太刀を礪波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ」(巻十八)の歌をなす。 751年(天平勝宝3年)7月17日 - 大伴家持が少納言に任ぜられ、越中より離れる。悲別の歌を作って曰く、「しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき夕かも」(巻十九)。 757年(天平宝字元年)5月8日 - 越中国より能登国を分離する。 758年(天平宝字2年)9月28日 - 初めて越中国に駅鈴を頒つ。 759年(天平宝宇3年)11月14日 - 往時の越中における東大寺の荘園園の規模等を示す「東大寺越中国諸郡荘園惣券」が成る。 775年(宝亀6年)3月2日 - 初めて越中に大少の目を置く。 780年(宝亀10年)12月14日 - 射水郡二上神社及び礪波郡高瀬神社を従五位下に叙する。 784年(延暦3年)3月3日 - 気多神社を正三位に叙する。 795年(延暦14年)8月18日 - 高瀬神社、雄神神社、二上神社を従五位上に叙する。 804年(延暦23年)6月10日 - 越中国を上国とする。
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上代
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なお流通・商業用語ではこれに相当するものを「上代」(じょうだい)といい、これに対して卸売における売価を「下代」(げだい)という。ただしこの場合は、上代はあくまでも末端の商店が店頭にて販売する上での参考価格であり、これは消費者には全く明示されず、商店側の経営努力次第でこれよりも安い価格を示しても良いし、または輸送や販売に掛かるコストを加味した上で上回る価格を示すこともある。消費者には示されない用語ではあるが、昨今ではインターネットを使って一般にも卸売りする業態もあるため、電子商店街の中にも「上代/下代」という表現を使っているところも見られる。
※この「上代」の解説は、「希望小売価格」の解説の一部です。
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上代
「上代」の例文・使い方・用例・文例
- 税抜上代
- 物品配達の上代を払う
- 咫という,親指と中指を広げた時の長さに対応する,上代の長さの単位
- 稲城という,上代に敵の急襲を防いだ囲い
- 上代の墳墓の石室
- 上代の語り部という職業
- 古事記と日本書紀の中の上代歌謡
- 上代の首飾りの玉
- (上代の)肥人という種族
- 上代染めという染め模様
- 上代特殊仮名遣いという,万葉仮名文献に存する仮名遣い
- 上代錦という,7〜8世紀につくられた錦織り物
- 上代様という,平安中期に完成したとされる和様の書風
- 手纏きという,上代の腕飾り
- 上代の玉で飾った腕輪
- 上代において,肥人書という文字
- 上代において,肥人書という文字で書かれたもの
- 太占という,上代の占い
- 史という,上代の姓
- 上代,朝廷に仕えた官人
上代と同じ種類の言葉
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