室町時代から江戸時代
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藤長以降、笛・儒道を家業とした。室町時代には甘露寺兼長―清長―忠長の系統が嫡流であり、伝奏や室町殿家司を務めたが、政治的失脚の為に断絶したとみられ、その後は清長の弟である房長の子孫が嫡流とされた。房長の子である親長は戦国時代にさしかかろうとする時期に当主を務め、当時の政局や公家社会の様相を知るうえでの重要史料『親長卿記』の記主として著名である。江戸時代の家禄は200石。
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室町時代から江戸時代
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「子 (人名)」の記事における「室町時代から江戸時代」の解説
室町時代になり貴族社会が混乱すると、女性の裳着は行われなくなり、裳着と共に実名を与えることもなくなった。実名は、叙位・任官されるような時に付けられる特別な名となった。 これにより、女性の実名を子型とする風習は続いたものの、実名自体が希となり、ほとんどの女性は子型の名を持たなくなった。 その一方で、室町時代には従来の「漢字1文字の訓読み+子」という制約から離れた、「徳子(とくこ)」「茶子(ちゃこ)」のような「音読み+子」という名も現れた。なおこの時代「阿子(あこ)」という女性名も現れたが、これは「我が子」を意味する童名が通称となった名で、語源的には「音読み+子」ではない。 子型の実名に変わって使われるようになった女性名は、公家や大名では「姫」で終わる名、庶民では2音(仮名で2文字、拗音を含むときは3文字)の名となった。
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