嵯峨天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 08:01 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動嵯峨天皇 | |
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![]() 嵯峨天皇像(御物) | |
即位礼 | 809年5月30日(大同4年4月13日) |
大嘗祭 | 810年12月19日(弘仁元年11月19日) |
元号 |
大同 弘仁 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 平城天皇 |
次代 | 淳和天皇 |
誕生 | 786年10月3日(延暦5年9月7日) |
崩御 |
842年8月24日(承和9年7月15日) 嵯峨院 |
大喪儀 | 842年8月26日(承和9年7月17日) |
陵所 | 嵯峨山上陵 |
追号 | 嵯峨天皇 |
諱 | 神野 |
元服 | 799年3月17日(延暦18年2月7日) |
父親 | 桓武天皇 |
母親 | 藤原乙牟漏 |
皇后 | 橘嘉智子 |
子女 |
仁明天皇 源信 源常 源弘 源定 源融 正子内親王 有智子内親王 源潔姫 他多数 |
皇居 | 大内裏 |
桓武天皇の第二皇子。母は皇后の藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。
略歴
延暦9年(790年)閏3月に、数え年5歳で、生母の藤原乙牟漏を亡くす(『続紀』)[1]。
延暦11年(791年)、嵯峨天皇の諱が乳母である賀美能宿禰の出身地の神野郡より賀美能(神野)親王と名付けられる(『六国史』)。
延暦18年(799年)2月に元服。聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父の桓武天皇からも愛された(『日本紀略』)[2]。
延暦25年(806年)5月9日に弾正尹となったが、同月19日に兄の平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父の桓武天皇の意向が働いたとも云われている[3]。
大同4年(809年)4月1日、平城天皇の譲位を受け、即位(『日本後紀』)。平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした(『日本紀略』)。
弘仁元年(810年)に平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、今度は異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟に立てた(『日本後紀』)。これが承和の変の遠因となる。なお、平城上皇はこれ以後も太上天皇の尊号と礼遇を受けている(『日本紀略』)[3]。
以後、約40年間にわたり平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期を過ごす。
同年(810年)に、蔵人所を設置し、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任命[4]。弘仁3年(812年)に右大臣となった藤原園人を中心とする官僚に政務を任せ、詩宴を精力的に開催するなど、文治的事業に専念する[5]。弘仁9年(818年)には、平安京の十二門を唐風の名に改め[6]、宮中の儀式も唐制に改めた(『日本後紀』)。
弘仁6年(815年)4月、近江国志賀郡への行幸中に梵釈寺で輿を停めた際、唐から帰国した僧である永忠が自ら点てた茶を飲んだとされる(『日本後紀』)[7]。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布。この頃、農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、財政難は深刻であった。その対策として、墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われた。
弘仁14年(823年)には、空海に東寺を賜り、その前年には、最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認めている。
弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位し太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。この時、律令体制維持のための財政緊縮を主張してきた藤原氏[3]の一員であり、嵯峨天皇の腹心であった右大臣の藤原冬嗣は、凶作が続く中で、平城上皇の他さらにもう一人上皇を持つのは財政負担が大きいとして、反対した(『日本紀略』)[3]。それでも譲位を実行したのは、天皇の長子が原則として皇位継承していくという習慣[8]に逆らって、桓武天皇の次男であった自分の子供に皇位継承させるためだった可能性が指摘されている[3]。
譲位後は冷然院に住んだ。淳和天皇による国政への関与の例は少ないが、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の翌月、薬子の変に連坐した流人を召喚する処置をとったのは、嵯峨上皇によるものだった(『日本紀略』)[3][9]。
天長10年(833年)、淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位する。この時、淳和上皇らの反対を押し切って[要出典]自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を仁明天皇の皇太子とした。
同年10月、在位中に設営された洛外の離宮の嵯峨院(後の大覚寺)に御所を新造し(『続日本後紀』)、太皇太后嘉智子と共に移り住んだ[3]。その庭には中国の洞庭湖を模した人工池である大沢池が造られている。
実子である仁明天皇の国政へは、より頻繁に関与し、自らの遊猟に奉仕した者に叙位を行ったり、小野篁を流罪にする(『続日本紀略』)などしている[3][10]。
承和9年(842年)、崩御。宝算57。その後間もなく承和の変が起こっている。
皇子皇女が多数おり[注釈 1]、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。
漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」(国宝)が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている[注釈 2]。
系譜
嵯峨天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
50 桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
51 平城天皇 | 伊予親王 | 万多親王 | 52 嵯峨天皇 | 53 淳和天皇 | 葛原親王 | 良岑安世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岳親王 | 阿保親王 | 54 仁明天皇 | 有智子内親王 | 源信 〔嵯峨源氏〕 | 源融 〔嵯峨源氏〕 | 源潔姫 | 恒貞親王 | 平高棟 | 高見王 | 遍昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在原行平 | 在原業平 | 平高望 〔桓武平氏〕 | 素性 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈
出典
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), p. 11
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), p. 12
- ^ a b c d e f g h 目崎徳衛「政治史上の嵯峨上皇」『貴族社会と古典』(吉川弘文館、1995年), pp. 2-22
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 25-26
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 27-29
- ^ 川勝政太郎「平安宮十二門に関する問題」『史跡と美術』162
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 39, 305-306
- ^ 井上光貞「古代の皇太子」『日本古代国家の研究』
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), p. 54
- ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 54-55
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『諸系譜』第一冊,笠朝臣(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年による)
- ^ 瀧浪[2017: 90]
- 1 嵯峨天皇とは
- 2 嵯峨天皇の概要
- 3 后妃・皇子女
- 4 諡号・追号・異名
- 5 参考文献
嵯峨天皇と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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