司馬江漢 司馬江漢の概要

司馬江漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:38 UTC 版)

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しば こうかん
司馬江漢
生誕1747年
江戸
死没1818年11月19日
江戸
墓地東京都豊島区西巣鴨慈眼寺
国籍 日本
別名安藤吉次郎[1]、安藤峻、鈴木春重
活動拠点江戸
寒柳水禽図 (パワーズコレクション旧蔵) 絹本油彩 寛政初期
卓文君像 絹本着色

略歴

司馬江漢は延享4年(1747年)、江戸町家に生まれた。江漢が長く住んだのは、銭座(現在の東京都港区東新橋2丁目)である。「司馬」の姓は、新銭座に因むものである。生まれつき自負心が強く、好奇心旺盛な彼は絵を好み、一芸を持って身を立て、後世に名を残そうと考えていた。宝暦11年(1761年)15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師駿河台狩野派狩野美信(洞春)に学ぶ。しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、19歳の頃に紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵師となり、錦絵版下を描いた。明和半ばの25歳頃、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門に入る(源内が書い『「物類品隲』の中で宋紫石のヨーロッパリアリズムにいたく感嘆する)。ここで南蘋派の画法を吸収し漢画家となった(当時、写実的な漢画の表現は流行の先端を行くものだった)。ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、師事した順番は諸説あってはっきりしない。後に洋風画を描くに至った。源内と接点があり、彼を通じて前野良沢小田野直武に師事したとも言われている。33歳までに、直武に洋風画を学ぶ。源内からは西洋の自然科学の知識を得、27歳の頃は源内の鉱山探索に加わった。30歳の頃、源内のエレキテル(摩擦起電機)を知った。33歳の頃、良沢の門に入り、大槻玄沢らの蘭学者に接し、37歳の時玄沢の協力により蘭語文献を読み、銅版画の製作に成功した。翌年(天明3年(1783年))自作の銅板画6点とそれを覗く反射式覗眼鏡(のぞきめがね)[2]を売り出した。[3]

天明8年(1788年)春、42歳の時、江戸に参府していたオランダ商館の外科医ストゥッツエルの所持していた『ジャイヨ世界図』(フランス、1720年刊)を模写する。同年4月23日、長崎への旅に出る[1]藤沢より西を知らなかった江漢は、東海道から仰ぐ富士山の姿に心を打たれ、後年、数多くの富士を描いている。旅の途中で見た風景を写生する、それは「見たままを正確に写し取る」という精神に彩られていた。長崎で一ヶ月余滞在し、オランダ通詞吉雄耕牛本木良永らと交流する。また、ストゥッツエルの紹介でロンベルク商館長を訪問し、オランダ船に乗船する機会を得た。平戸藩では蘭癖大名として知られた松浦静山に会い、所蔵の洋書類を見せられ、静山が自らたてた茶でもてなされ、平戸の街で評判になった[1]。。さらに、生月島捕鯨を関することが出来た[3]。江漢は、漁師と鯨との闘いから解体までを観察し、江戸へ帰った後に繰り返し画題としている(土浦市立博物館蔵『捕鯨図』など)。翌年に江戸へ帰るまでの見聞は『西遊旅譚』『江漢西遊日記』にまとめ、後者ははるか後年の文化12年(1815年)に書き上げた[1]

長崎では初めて多量の輸入油絵を目にする。江漢にとって次の克服すべきは油絵の制作であった。江漢はカンバスの布を使い、絵の具は当時、の防水に使用していた荏胡麻油に顔料を混ぜ合わせて作った。これは元々、漆工芸品の彩色法として発達した手法であるが、江漢はそれを油絵に転用した[4]

蘭学に通じていた江漢は、世界地図を描いた『輿地全図』を寛政4年(1792年)に、それを改訂した『地球図』を翌年に刊行。寛政8年(1796年)以降にまとめた版画集『ORRERY図』では太陽の周りを水星金星、地球、火星木星土星公転する図を載せ、地動説など西洋の天文学や地理学の紹介に貢献した[1]

享年72。墓所は東京都豊島区西巣鴨染井霊園慈眼寺墓域。法名は桃言院快栄寿延居士。

歌川広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱。外部リンクに否定説あり)

業績

浮世絵

明和末年頃、「二世 鈴木春信」の名前で錦絵を出していた。そして初期には鈴木春重名で、明和7年(1770年)に没した鈴木春信の贋作絵師として安永初年頃まで活動していた。春信に師事して、版下絵を描いていたとも言われる。安永初年から末年にかけて次第に独り立ちし、蕭亭あるいは蘭亭の名で、肉筆画を残している。自著『春波楼筆記』によると、春信の死後、春信の落款で春信の偽絵を描いていたが、後に春重と署名するようになったと記されている。春信の落款時代には、背景に極端な遠近法を使用し、浮絵の画法を取り入れていたが、春重落款の作品ではより春信風になっている。

洋画

日本における洋風画の開拓者としては、秋田蘭画小田野直武とともに重要な画家。直武の作品が、遠近法、明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、画材は伝統的な絵具ととを使用していたのに対し、江漢は荏胡麻の油を使用した油彩画を描いたことで特筆される。江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して富士などの日本的な風景を描き、それを各地の社寺に奉納することによって、洋風画の普及に貢献した。現存の代表作の『相州鎌倉七里浜図』」は元々、江戸の芝・愛宕山に奉納したもの。社寺の壁などに掲げられる絵馬は傷みやすいものだが、この図は早い時期に社殿から取り外して保存されていたため、保存状態がよい。蝋油を使った蝋画の工夫などもしている。

日本最初の銅版画エッチング)家でもあり、天明3年(1783年)の『三囲景図(みめぐりけいず)』にて、その制作に成功した。

蘭学・随筆

1792年に司馬江漢が発行した『地球全図』

天文・地理学、動植物など西洋博物学、自然科学に興味を持ち、日本に紹介した。『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』などといった啓蒙書も残した。

人付き合い

晩年人付き合いが煩わしくなり、文化10年(1813年)、自分の死亡通知を知人達に送り逼塞していた。どうしても外出せねばならなくなり、案の定知人と遭遇するや返事もせず逃走するもごまかしきれず、「死人は声を出さぬ」と答えた(『石亭画談』)。また、文化5年(1808年)以降は9歳加算した年を記し、世を欺いた。これは「九」という数字は、周易においては陽の極地を表し、『荘子』寓言編に「九年にして大妙なり」という言葉があることから、江漢は「九」に大悟の心境を込めて加算したと考えられる。

江漢は交友が広かった半面、自らを誇る言動が多く、他の蘭学者から町人出身の出自と絡めて「銅(あかがね)屋の手代こうまんうそ八」と批判されることもあった。上記の晩年は、こうした人間関係も影響していたとみられる[1]


  1. ^ a b c d e f g h 憧れの長崎-西遊の系譜(1)奇才江漢「世界」に踏み出す『日本経済新聞』朝刊2020年12月6日14-15面
  2. ^ 反射式のぞき眼鏡 - 文化遺産オンライン(更新日不明)2018年6月24日閲覧
  3. ^ a b 岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』(原書房 2011年)152ページ
  4. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)【極める 日本の美と心】「江戸の洋風画 司馬江漢」の番組内の説明より。
  5. ^ 以上までの春重落款作品は、浅野秀剛 「〔研究ノート〕司馬江漢による春重署名の肉筆画」(『季刊 美のたより』No.191、大和文華館、2015年7月3日)を元に記述。
  6. ^ 京都国立博物館編集・発行『貝塚廣海家コレクション受贈記念特別企画 豪商の蔵―美しい暮らしの遺産―』(2018年2月3日)所載の図7。
  7. ^ 公益財団法人 氏家浮世絵コレクション編集・発行『氏家浮世絵コレクション』(2014年10月18日)pp.68-69,112。
  8. ^ 佐賀県美術館編集・発行『企画展 近世の肖像画』(1991年10月9日)p.104。
  9. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)【極める 日本の美と心】「江戸の洋風画 司馬江漢」番組内の説明より。


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