日本進步黨とは? わかりやすく解説

にほん‐しんぽとう〔‐シンポタウ〕【日本進歩党】

読み方:にほんしんぽとう

昭和20年1945)旧立憲民政党員を中心に結成され保守政党昭和22年1947)、民主党となる。


日本進歩党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 16:31 UTC 版)

日本政党
日本進歩党
初代総裁・町田忠治
成立年月日 1945年11月16日
前身政党 大日本政治会[1][2][3]
解散年月日 1947年3月31日
解散理由 保守新党結成のため[4]
後継政党 民主党[4]
政治的思想 保守主義[4][5][6][7]
民主主義[6]
反共主義[4]
国体護持[4]
統制経済[8]
政治的立場 右派[9]
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日本進歩党(にほんしんぽとう)は、終戦直後に結成された保守政党1945年11月16日1947年3月31日)。

党史

1945年11月16日に旧大日本政治会を母体として結党[1][2][3]。その多くが旧立憲民政党から大政翼賛会に移った議員であり、民政党最後の総裁であった町田忠治総裁として、幹事長鶴見祐輔総務委員斎藤隆夫ら10名、政務調査会長太田正孝を任じた。ただ、結党当初高齢の町田(当時82歳。日本憲政史上国会議員を擁する新党の党首として最高齢記録)に代わって陸軍大将の宇垣一成を総裁に擁立する構想があり[10]、「国体護持」や統制経済の維持を掲げるなど[8]帝国憲法体制擁護の主張が強いものとなった。

結党の宣言には「共産主義の排撃」「責任観念と表裏一体の自由」「剛健な社会の建設」が掲げられていた[11]

翌年1月の公職追放令によって町田以下、274人中260人が公職追放され[12]、残ったのは斎藤隆夫総務委員・犬養健逢沢寛一松定吉保利茂(なお犬養・保利は後に追放された)らわずか14人の議員だけであった。

しかし、同年4月の総選挙では追放された候補者の代わりに新人を多数擁立する[13]。結果94人を当選させるも、日本自由党に次ぐ第2党に転落した[14]。斎藤らは民政党やその前身であった旧立憲民政党の内閣で外務大臣を務めた事もある幣原喜重郎首相を総裁に擁立することで幣原内閣の延命を図ったが、猛反発を受けて失敗した。次いで成立した第1次吉田内閣では日本自由党と連立政権を構成し、与党に留まった[15]

町田を公職追放で失った進歩党は幣原を迎えて、自由党より左に位置する政党として生まれ変わりを画策した[16]。 幣原は進歩党とさらに無所属、諸派を抱き込み社会党との連携を構想して自身の政権維持を画策していたが、逆に自由、社会、協同、共産の四党に共同戦線を張られて、政権維持をあきらめて退陣した[17][18]

1947年、若手中心に選挙への危機感を募らせていた進歩党は大日本政治会の流れをくむ最右派のイメージ払しょくのために一歩左寄りの体裁を整え民主党へと衣替えした[19]

1947年、吉田茂総裁に不満を抱く芦田均ら日本自由党内の反主流派と合同して民主党として再出発を図る事となった。

民主党は自由党、国協党、無所属からの参加もあって自由党をしのぐ代議士145名を擁し、3月31日に発足した。

綱領

出典: [20]

  • 一、国体を擁護し、民主主義に徹底し、議会中心の責任政治を確立す
  • 一、個人の自由を尊重し、共同自治を基調として、人格を完成し、世界平和の建設と人類福祉の向上に精進す
  • 一、自主皆働に徹し、産業均整の下、生産の旺盛と分配の公正を図り、新たなる経済体制を確立して、全国民の生存を確保す

役職

歴代執行部役員表

総裁 幹事長 総務会長 政務調査会長
鶴見祐輔 川崎克 太田正孝
町田忠治
犬養健 斎藤隆夫 木村小左衛門
一松定吉
田中萬逸
幣原喜重郎
犬養健
成島勇
石黒武重 苫米地義三

歴代総裁一覧

総裁 在任期間
1 町田忠治 1945年(昭和20年)11月18日 - 1946年(昭和21年)4月23日
2 幣原喜重郎 1946年(昭和21年)4月23日 - 1947年(昭和22年)3月31日

党勢の推移

衆議院

選挙 当選/候補者 定数 備考
(結党時) 273/- 466 公職追放-259
第22回総選挙 94/376 468 追加公認+16
  • 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
  • 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)を含む。
  • この節の出典:石川 & 山口 2004

党員

  • 江口繁 - 福岡弁護士会会長、帝国弁護士会理事、皇教塾頭、大日本弁護士会理事、大憲塾頭、九州椎茸輸出共同組合理事長[21]

脚注

  1. ^ a b 澤 1995, p. 97
  2. ^ a b 粟屋 1988, p. 407
  3. ^ a b 神田 1989, pp. 98–99
  4. ^ a b c d e 吉田健二. “日本進歩党”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年7月3日閲覧。
  5. ^ デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年8月30日閲覧。
  6. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年8月30日閲覧。
  7. ^ 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年8月30日閲覧。
  8. ^ a b 澤 1995, p. 111
  9. ^ 吉田健二. “日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”. kotobank.jp. 2020年11月19日閲覧。
  10. ^ 澤 1995, p. 112
  11. ^ 冨森叡児 2006, p. 7.
  12. ^ 澤 1994, p. 4
  13. ^ 澤 1994, p. 5
  14. ^ 澤 1994, p. 6
  15. ^ 澤 1994, p. 17
  16. ^ 冨森叡児 2006, p. 24.
  17. ^ 冨森叡児 2006, p. 24-25.
  18. ^ 幣原喜重郎内閣(しではらきじゅうろうないかく)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年11月4日閲覧。 “公職追放で四閣僚が辞職するなどの打撃を受けながらも、1946年4月10日の総選挙後も幣原内閣は居座りを図った。自由、社会、協同、共産4党は幣原内閣打倒四党共同委員会をつくり、それに対抗した。4月22日ついに総辞職、その後継をめぐって1か月の政治空白期を生じた。”
  19. ^ 冨森叡児 2006, p. 26.
  20. ^ 冨森叡児 2006, p. 6-7.
  21. ^ 衆議院 1962, pp. 78

関連項目

参考文献

0




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