日本国外での活動
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ヤオハンは商売を順調に伸ばし、昭和40年代にかけて静岡県内各地から、日本国外にも進出し、本格的なショッピングセンターを設立するにいたった。日本スーパーマーケットの国外進出は、業界初とされる。
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日本国外での活動
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1956年(昭和31年)、ローマ大学からの招待状が届いた。ローマ大学は、世界中の優れた数学者たちが集う、数学者たちの憧れの地であった。芳枝は、生まれて初めて目にする本格的な数学の世界に、多大な影響を受けた。ここで、「Pezzo-Segreの代数的多様体の平行移動について」の研究を行った。研究内容はもちろんのこと、大学での授業風景は、教える教授の側、教わる学生の側、双方とも熱意に満ちていた。ローマという歴史ある街の中で、さらに新しい歴史を推し進めようとする人々の姿に、芳枝は心を打たれた。 半年後、芳枝はローマからスイス連邦国立理工科大学に移動した。芳枝はここで、数学の巨匠といわれるハインツ・ホップ(英語版)に師事し、ホップとの共同研究を開始し、当時の微分幾何学では画期的な研究「部分多様体論」を手がけた。これは世界的に見てもまだ広い範囲での研究がなされていない、新しい分野での研究であった。想像力と熱意にあふれた芳枝、世界の巨匠であるホップの2人は、起床から深夜に床につくまで、激しい討論をひたすら繰り返した。2人の間では毎週1回、厳しい討論がなされた。1年後に、ついに研究の到達点に辿り着いた。 その時の喜び、感激は言葉では言い表せません。それまでの先生と血のにじむような討論の毎日、純粋に学問一筋に研究のみに没頭した生活の充実感、それらは苦しいが素晴らしいものでした。 — 桂田芳枝、STVラジオ編 2004, p. 166より引用 私の胸は喜びで一ぱいになった。私はそれから一目散に寮に帰り、夕食後この喜びにじっとしていられずZurichの夜の街を駆け回った。あの日の喜びは一生の幸福な思い出である。 — 桂田芳枝「Heintz Hopf先生の思い出」、桂田 1972, p. 45より引用 「大域の微分幾何学研究」を「リーマン空間の研究」に結び付けた「リーマン空間の閉局面の合同定理」は、エディンバラで同年開かれた国際数学者会議で発表することとなった。また、1958年4月からはE.Davies教授の招待で英国サウサンプトン大学へ行くことになっていた。しかし、芳枝は病気になり、やむなく帰国、この会議には出席できなかったが、この研究は称賛を浴び、国際的にも高い評価を受けた。世界中の数学者から彼女の元に手紙が届いた。後に「この研究によって数学の本当のおもしろさがわかった」と語っている。芳枝はこれにより、数学者として歴史に残る業績を生み出すことができたのである。 再びヨーロッパへ研究に出たのは3年後、1961年(昭和36年)11月、ローマ大学国立高等数学研究所のベニアミーノ・セグレ(ドイツ語版)教授に招かれた。翌1962年6月からは再びスイス理工科大学にアカデミック・ゲストとして招かれ、ホップ教授と引き続き研究を重ねた。この時には週2回の頻度で討議をしている。8月にはスウェーデンのストックホルムで開かれた国際数学者会議でホップ・芳枝の共同研究「リーマン空間の中の閉超局面のある性質」を発表した。1966年(昭和41年)9月にも、中国の数学者である教授の招きでカリフォルニア大学バークレー校で研究し、翌年7月より9月は、再度スイスのホップ教授の元で研究している。このヨーロッパ各国での経験について芳枝は、「力が厳しく評価されます。雑務もないし、研究に没頭できたヨーロッパ時代が私の人生で一番充実した時期だった」と語った。 芳枝は帰国後、ローマ大学で感銘を受けた授業内容をもとに、学生たちへの指導を続けた。1967年(昭和42年)、北大教授の河口商次の後任として、北海道大学理学部数学教室幾何学講座の教授に就任した。旧帝国大学で初の女性教授の誕生である。。理学部長福富教授は「北大では初めての女性教授ですが、学問の上でも人間的にもすばらしい人です。教授会の推薦も満場一致でした」と祝福している。多くの新聞がこれを、「女性の社会進出」として報道した。このことは日本全国の大学でも、女性の教授が誕生する機会となった。芳枝は、1970年7月から12月にも、スイス理工科大学を訪れ、研究を継続している。
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日本国外での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 19:56 UTC 版)
1970年代には、日本国外での活動が続いた。1973年(昭和48年)、木内はフランス国立民俗文化博物館とフランス国営放送主催による「日本の美術展」に招待されて出品した。これを機に、スペイン、ギリシャと、日本国外に出展する機会が続いた。国外への出典と共に、木内は界の染織の現状を知ることで、多くの刺激を受けた。 1976年(昭和51年)には、スペインのバルセロナの国立民族博物館主催の「日本美術工芸展」に招待出品した。会場では、スペイン画壇を代表する画家であるジュアン=ジュゼップ・タラッツ(スペイン語版)を紹介された。タラッツは、流氷を題材とした木内の作品を見て、スペインでは見ることがない流氷をタラッツなりに解釈したか、「海を感じます。波が寄せてきますね」と述べた。 1977年(昭和52年)には、ギリシャ文化科学庁が首都アテネで開催した「日本伝統・現代工芸展」に出展し、「YUKARAORI」の名が一躍世界に広まった。ここでの木内の出展作品は、自身の最も好きな花であるハマナスを題材としたものだが、うまく織れないために約10年にわたって投げ出していた作品であり、完成には出発ぎりぎりまで要したが、自信喪失から物笑いの種にならないかと不安にかられていた。しかし会場では正面に飾られた上に、長蛇の行列ができ、来場者から「80万円で譲ってほしい」という申し出もあって、木内の方が面食らうほどであった。この作品はアテネ郊外のケルキラ島にある東洋美術館に、永久保存されることになった。 1978年(昭和53年)、国際的な権威を持つ織物コンクールであるハンガリーのビエンナーレにおいて、金賞を受賞した。日本人では版画家の池田満寿夫に次いで、2人目の受賞であった。ビエンナーレは絵画、彫刻、織物など7部門に60人が出品し、金賞は全部門を通してのグランプリであった。地元の美術評論家は「故郷北海道をモチーフに織り続けている木内綾は、日本のバルトークである」と、最大の賛辞を贈った。この年は木内の作品にとっても木内自身にとっても、記念すべき年となった。この受賞作品はギリシャでのハマナスを題材とした作品に手を加えたものであり、ギリシャでは高い評価を受けてもまだ自信がなく、「評価が高かったのはなぜか」との思いのほうが強かったため、ハンガリーではどんな評価を受けるか試すつもりでの出展であった。 砂丘で浜風にさらされ、ふるえながら朝咲いて、夕方にはハラリと散る一日花。でも美しい実を残して翌年に備えます。明日があるさといい加減に暮らし、グチばかり言っている自分と千里の隔たりがある立派さですから、気おくれして長い間、織れなかったんですよ。(中略)自然に似せようとするのは傲慢なんですけど、力の限りを尽くしますから、どうぞ織ることをお許しくださいとお願いしながら、機に向かいます。 — 木内綾、「生きる 木内綾さん(『優佳良織』織元)力の限り『心』織り込む」、渡辺 1993, p. 5より引用
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日本国外での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 20:58 UTC 版)
「国境なき子どもたち」の記事における「日本国外での活動」の解説
カンボジア 2000年に自立支援施設「若者の家」を設立し、青少年を対象に、衣食住の提供、就学支援、職業訓練を始めた。 国境なき子どもたちと、ヘンケルジャパン株式会社は共同で、ホームレスや交通事故にあった子どもたちに美容師になるための訓練所を2008年来設置している。 フィリピン 2001年にマニラ首都圏のスラム地域で貧困家庭出身の子どもたちを対象に、心のケアを含む教育支援・生活支援を始めた。 KnK Philippinesとして、ストリートチルドレンなど劣悪な環境にある児童への支援活動を行っている。 パキスタン 2010年にパキスタン地震 (2005年)で甚大な被害を受けたマンセラ郡の学校再建プロジェクトに参加して、教育環境改善のための取り組みを始めた。 ヨルダン 在ヨルダン日本国大使館は、国境なき子どもたちが実施する「アンマンにおける青少年の健全育成及び教育支援事業」に対して2010年に資金援助を行った。 バングラデシュ 2007年にサイクロン・シドルの被災児童に対して心理ケア事業を始めた。 2011年に首都ダッカでストリートチルドレンのための「ほほえみドロップインセンター」を開設した。 パレスチナ 2011年にエルサレム近郊のアルザリア村でユースセンター「希望の家」を設立し、青少年を対象に、職業訓練、非公式教育を始めた。 2017年より ジェリコ市の公立学校と地域の子ども支援センターにおいて、演劇や音楽、美術の課外教育活動を始めた。 ミャンマー 2008年にサイクロン・ナルギスで被災した青少年への教育・生活支援を始めた。 シリア シリア内戦の難民を収容するため設けられた隣国ヨルダンのザアタリ難民キャンプの中に青少年向けの中学校が開設され、2012年にその中学校のための教育支援活動を始めた。
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日本国外での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 00:46 UTC 版)
幼少期をトルコで過ごした濱ハニには、Boyz II Menなど日本国外ミュージシャンの友人も多い。さらに、六本木という土地柄、来日する外人との親交も多く、定期的にニューヨークにて「Club AL in NY」と称した前衛的なパーティーを開催。
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