日本国外での美容術の習得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:45 UTC 版)
「芝山みよか」の記事における「日本国外での美容術の習得」の解説
先述のように肌の衰えた女性たちに対する想いから、1951年 (昭和26年)、GHQとの8か月に渡る交渉の末、フランスのパリへ渡航した。フランスでは、化粧品会社創業者であるヘレナ・ルビンスタインに弟子入りを志願し、一度は断られたものの「世界最高水準の美容技術を学びたい」との懇願の末に、特別措置で指導を許された。パリでは、午前中はルビンスタインの店、午後はエステティック専門学校で、美顔の技術や全身美容を学習した。さらにパリでパブロ・ピカソと会い、ピカソに日本の画家が描いた蘭をモチーフにした風呂敷を見せたところ、「風呂敷は素晴らしいが、なぜ自分の国の花を描かないのか」とのピカソの言葉に衝撃を受け、「日本らしい美しさは何か」を考え始め、西洋の真似を人に与えるだけでなく己(日本)を加えることを学んだ。 帰国後の同1951年秋には、美容雑誌と新聞9社の共同主催という異例の肩入れにより、神田で帰国発表会を打ち上げた。もっとも当時は、全身美容を含むエステに対して理解を得られることは、まだ困難だったという。 翌1952年(昭和27年)にもアメリカとパリへ渡って、美容医学と全身美容を学んだ。同1952年に松坂屋銀座店に本格的エステティックサロン「サロン・ド・ボーテ」を開設し、話題となった。これが「全身美容」の名称が一般化するきっかけにもなった。その後も、日本国外で学んだ技術をもとに、総合的なエステティック技術を提供する店舗を展開させていった。 1961年(昭和36年)には、美顔術と美容術の視察のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア各国を回る旅に出た。パリではフェルナンド・オーブリーとジャン・デストレに師事し、美容術を学んだ。
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