島津惟新斎とは? わかりやすく解説

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島津義弘

(島津惟新斎 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 13:35 UTC 版)

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国武将大名戦国大名島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公いしんこうとの敬称でも呼ばれた。


注釈

  1. ^ 兵庫頭唐名が武庫令であるため。
  2. ^ 維新とするのは誤字。「惟新」(いしん)が正しい。
  3. ^ 「島津」のことを発音から、明では「石蔓子」と表記しており(明史等)、「鬼石曼子」すなわち「鬼島津」である[5]
  4. ^ 朝鮮では「沈安頓」・「沈安頓吾」(朝鮮王朝実録等)などの表記で記録を残している場合もあり。ただし、現存する朝鮮側資料に「鬼」を冠した記載は見つかっていない[6]。「鬼石曼子」の表現について朝鮮通信使の一人だった元重挙は『和国誌』で日本側の記録を訳しながら「何を意味するのか分からないが日本の鬼の名のようだ」と記している。
  5. ^ 義弘が夜襲を献策した理由は、寄せ集めの西軍では正面からの野戦で徳川軍と戦うことが危ぶまれ、家康の部隊は9月14日(10月20日)に到着したばかりで一部は追いついておらず(「十四日、内府(家康)、赤坂へ着陣……鉄砲衆・使番衆は赤坂へ夜中に着」(『慶長記』))、さらにこの時点で徳川秀忠率いる別働隊も到着していなかったため、この夜の内が好機であったとするもの。宇喜多秀家も夜襲策に賛成であったという。しかし百戦錬磨の義弘が危険を伴い下手をすれば追撃のおそれもある夜襲を献策するとは考えにくく、これに関しては後世の創作ではないかとする説もある(夜襲説の出典は『落穂集』だが、『朝野旧聞裒藁』の編者はこの部分を載せながらも、創作の可能性が高いとしている)。
  6. ^ 直政はこのとき受けた傷がもとで後年病に倒れ、死去したとされている。また忠吉が負傷したのは開戦当初とする説もある。
  7. ^ 関ヶ原の合戦後しばらく義弘は桜島に謹慎(島津家はこれを遠島と説明)しており、実際に家康と交渉していたのは義久と忠恒だったという同時代の史料もある。その後、江戸幕府は義弘と直接交流したことは一度もなかった。義弘が死んだときには幕府より香典が贈られた。
  8. ^ ただし、西本誠司は「島津義弘の本宗家家督相続について」の脚注で元和2年(1616年)に建立された加治木町(現・姶良市)の精矛神社(かつての義弘居館)内の経塚の碑文(現在破損)に「島津十七代藤原義弘」と署名していたと伝えられる件を指摘し、慶長16年(1611年)に兄・義久が没すると義弘自らが「島津家第17代」と名乗るようになり、家中もこれに異議を挟めなかった可能性を示している。

出典

  1. ^ a b 桐野作人「島津義弘の長女 御屋地の生涯(上)」『さつま人国誌 戦国・近世編 2』南日本新聞社、2013年。 
  2. ^ a b c d e 裂帛 島津戦記
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、22,23,29,39頁。 
  4. ^ a b c 桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里』〈学研新書〉2010年5月。 
  5. ^ 裂帛 島津戦記, p. 21,87.
  6. ^ 元重挙『和国誌』ソミョン出版、2006。
  7. ^ 白峰旬「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」『史学論叢』46号、2016年3月、18-72頁。 
  8. ^ 布谷陽子「関ヶ原合戦と二大老・四奉行」『史叢』77号、2007年9月、166-183頁。 
  9. ^ 桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』学研パブリッシング、2010年、107-112頁。 
  10. ^ a b c 島津修久『島津義弘の軍功記』(増補改訂版)島津顕彰会、2000年8月。 
  11. ^ 島津義弘公除幕式”. 道の駅えびの ブログ (2018年3月4日). 2018年4月24日閲覧。
  12. ^ 姶良町歴史民俗資料館 編『開館20周年記念特別展図録 戦国武将 島津義弘』2006年10月。 
  13. ^ 島津製作所の公式サイトの沿革より。
  14. ^ 須磨章『猫は犬より働いた』柏書房、2004年、145-149頁。 
  15. ^ 宮本義己『戦国武将の健康法』新人物往来社、1982年、63-64頁。 
  16. ^ 西本誠司「島津義弘の本宗家家督相続について」『鹿児島県中世史研究会報』43号、1986年。 新名 2014に所収。
  17. ^ 山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」『青山学院大学文学部紀要』28号、1986年。 新名 2014に所収。
  18. ^ 福島金治「戦国期島津氏の起請文」『九州史学』88・89・90号、1987年。 
  19. ^ 松尾千歳 著「島津義久の富隈城入城とその時代―義久家督をめぐる諸問題―」、志学館大学生涯学習センター・隼人町教育委員会 編『隼人学』南方新社、2004年。 
  20. ^ 尚古集成館、島津家系図”. 尚古集成館HP.2016-04-23閲覧。
  21. ^ えびの市郷土史編さん委員会 編『えびの市史』 上、1994年。 





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