加害者・元死刑囚A
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「練馬一家5人殺害事件」の記事における「加害者・元死刑囚A」の解説
加害者:不動産鑑定士の男A(逮捕当時48歳・東京都杉並区成田東一丁目在住) 加害者Aは1935年(昭和10年)3月9日に秋田県秋田市楢山字明田65番地(住所は当時)にて6人姉弟の長男として生まれ、2001年(平成13年)12月27日に法務省(法務大臣・森山眞弓)の死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑を執行された(66歳没)。本事件当時は妻の実家にて義母・大学卒業直後の長女・大学生の長男と5人で生活していた。 Aの一族は秋田市内で市場・養豚業・精肉業を経営していた資産家一族で、Aの父親は秋田駅前で行商人たちを取り仕切って市場を経営していた地元の顔役だった一方、喧嘩早い性格でもあり、地元の暴力団が真夜中に自宅へ押しかけ家を壊された際には竹槍で抵抗し相手に拳銃を発砲させるほどの暴れん坊だった。 Aは秋田市立中通小学校・秋田市立久保田中学校(1947年3月入学)を経て1950年(昭和25年)4月に秋田県立秋田高等学校夜間部へ入学したが、Aの父親は青年期から出稼ぎで日本各地を渡り歩いていた際に暴力団との関係を持っていたことから凶暴な性格で、喧嘩の際に出刃包丁・日本刀を振り回したり、妻(Aの母親)と夫婦喧嘩になった際には殴る・蹴るなどドメスティック・バイオレンス(DV)を加えるなどしていた。Aはそのような父親に絶対服従させられるような形で生育し、高校時代は父親の命令で好きでもないボクシングを習わされたり、駅前にあった市場の場所代回収に歩かされたりなどしていた。 ボクシング部(バンタム級)入部の経緯は、Aの父親が地元の有力者だった秋田県アマチュア・ボクシング連盟理事長(日本大学出身)に依頼してのことだった。Aは1953年(昭和28年)10月に愛媛県八幡浜市で行われた国民体育大会(国体)に補欠選手として参加したが、手足が短かったため頭脳を使うタイプの選手相手には全く太刀打ちできなかった。 また当時の父親はほとんど家に帰ってこず愛人の家に寝泊まりして家族を差し置いて自分たちだけ贅沢に暮らし、たまに帰宅してきては妻(Aの母親)を殴る蹴るなどしていた。Aはそのような家庭状況で「自分が長男として父親代わりを務めなければならない」と父親の愛人宅から米を盗んで弟たちに食べさせていた一方、父親に命じられて屠畜場で豚の屠畜をさせられていた。高校時代のAは「父親に反抗したことがない気弱な少年」で、周囲からも「普段は口数が少なく目立たない少年」という印象を抱かれていたが、前述のような場所代取り立てが滞ると血相を変え、高校生ながら「命に代えてでも金を払え」などと容赦なく相手を怒鳴りつけて脅迫するなど「父親そっくりな二面性」も持ち合わせていた。 Aはそのような家庭環境の中で家業を手伝いつつ高校を卒業すると、1954年(昭和29年)4月には日本大学法学部法律学科に入学した。しかしこれはA本人には大学進学の意思がなかったにもかかわらず、父親が「長男なので何とか大学に入れたい」と前述のボクシング連盟理事長のコネを用いて裏口入学させたものだった。入学後最初の前期試験で「カンニングペーパーを教室に持ち込み弁当の米粒で答案用紙にそのまま貼り付ける」という不正行為を行い1か月の停学になり、日大の教授からは「お前の学力では授業に出ても仕方がないから下宿して1人で勉強しろ」と言い渡されるような有様で、大学生活は苦痛だった。 1958年(昭和33年)3月に日大法学部を卒業した。卒業すると経済学部3年に編入学したが直後に退学した。Aの妹は「兄は幼いころから父親の期待に押し付けられ押しつぶされるような毎日を送っており、東京での学生生活以外は自由な生活ができなかった。父が健在だったころは『俺はもう秋田には帰らず東京で暮らす』と言っていたが、結局秋田に帰ってきた」と述べている。 なおAは大学時代には法医学に関しても勉強しており、後の事件捜査の際には捜査本部からその知識を死体解体に生かしたと推測された。 Aは在学中に下宿先の娘だった1歳年下の妻と知り合い、大学卒業後の1959年(昭和34年)4月に妻と結婚した。結婚直後は会社員を務めていたが同年に交通死亡事故を起こして辞職し、長女が誕生した。 翌1960年(昭和35年)5月には父親が病気で死去した。同年秋ごろには一家で帰郷し姉婿とともに父親の会社を継いだが、遺産処理をめぐって身内同士で争うようになった。それまで父親の言いなりだったAは父親の死をきっかけに、父親の生まれ変わりのように豹変したともいわれ、同年12月、Aは宴会の席上で以前から不仲かつ地元でも有名な乱暴者だった弟と口論になり、出刃包丁で弟の胸を刺して全治10日間の怪我を負わせた。 さらに1961年(昭和36年)9月10日朝、当時26歳で実家が経営していた会社「A産業」の専務取締役を務めていたAは秋田市広面野添で財産争いを巡るトラブルから実弟(事件当時19歳)を出刃包丁で切り付け、頭部左側4か所に最大11センチメートル(cm)の切り傷を負わせ、出血多量で意識不明の重体になるほどの重傷となった。事件の経緯は以下のようであった。弟が元から気に入っておらず父親の死後に嫌がらせを続けていた長姉の婿に『お前とAで一族の財産を山分けするつもりだろう』と言いがかりをつけていきなり首を絞めるなど暴力を振るったため、自分より体格が良く素行の悪い弟に脅威を感じたAは『まともにけんかしたらこちらがやられてしまう』と考え、『いつまでもこのような状態では危険だ。あいつを少し脅かしてやろう』という思いで出刃包丁を風呂敷に包んで弟が母親と同居していた家を訪れた。母親に『弟を甘やかすからこうなったんだ。素行を改めさせてほしい』と説得していたところに弟が帰宅し、Aは口論の末に出刃包丁で弟を切り付け、左目を刺して失明させた。Aはこの殺人未遂事件を起こした直後の11時ごろに秋田警察署へ自首して殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。 Aは逮捕後は取り調べに対し「カッとなって刺した」と自供したほか、起訴後も弁護人・菅谷瑞人に対し「殺すつもりなら初めから心臓を狙う。喧嘩の手で相手の目を刺すのは殺す意思がない時だ」と主張して殺意を否認した。しかし実際には凶器の包丁を風呂敷に包んで用意した計画的犯行だったため、単なる傷害罪ではなく殺人未遂罪が適用され、被告人Aは1962年(昭和37年)8月7日に殺人未遂・傷害罪で秋田地方裁判所から懲役3年の実刑判決を受けた。この判決を受けAは1963年(昭和38年)5月 - 1965年(昭和40年)5月24日(仮出所)まで2年間にわたり千葉刑務所習志野作業場に服役した。なお服役前の1962年(昭和37年)春には長男が誕生している。 Aはこの殺人未遂事件により親族とは絶縁状態になったが、刑務所を出所した後は再び上京して家族とともに更生することを誓い、一時は銀行員を務めた一方、殺人未遂事件の保釈中から意欲的に再起を図って不動産鑑定士の資格取得を志し、仮出所後に不動産鑑定事務所に勤めつつ苦しい家計を妻に助けられながら勉強を続け、不動産鑑定士資格を取得した。Aは1976年(昭和51年)7月に自宅を事務所とし、妻に事務関係を任せて不動産鑑定事務所を設立した。その堅実な仕事ぶりから信用を得て仕事は順調に発展し、事務所設立数年後には事務所兼自宅を鉄骨2階建てプレハブ住宅に建て替えたほか、1981年(昭和56年)には東京都新宿区四谷四丁目(新宿御苑近く)にマンションを購入して新しい事務所を開き、また東京地方裁判所の鑑定委員に選出されるなど、生活も安定に向かっていた。 しかし1982年(昭和57年)ごろからは重なる労苦に漸く疲労を覚え「不動産鑑定業務は労力の割に多額の収入が望めないばかりか、年を取り病気になれば仕事ができなくなる」などと不安・焦燥を抱くとともに、折りから不調を訴えて入院した妻が病院の中でまで事務を取っている姿を見て「長く苦労をかけた妻にも楽をさせてやりたい。2人の子供の結婚・就学費用も必要になる」と考えた。その中で「父から相続した秋田県内の不動産が売却できて2500万円ほどの資金ができたことから、それを元手に不動産取引を行いまとまった利益を上げよう」と思い立ち、その準備として1982年4月には父が経営していた会社の事業目的に不動産取引業務を加えるとともに商号を「株式会社XX鑑定事務所」に変更して手ごろな物件の物色を開始したが、その最初の取引として選んだものが本事件被害者一家の居住していた土地家屋だった。 『中日新聞』1983年6月29日朝刊は加害者Aの当時の人柄に関して「夫婦仲は今でも妻を愛称で呼ぶほど良好で子煩悩な性格。近隣住民からは『いつも物静かで整った服装で胸を張って歩く羽振りのいい人』という評判だったが、その本性は外面の穏やかさの裏に残忍さを秘めた多重人格者だった」と報道した。龍田はAの人物像を以下のように表現・推測している。 「Aの過去の事情を知らない人たちにとっては『凶暴な側面』の存在など想像すらできなかっただろうが、Aは家を新築するときに塀を作る際に『ここは自分の土地だ』と言い張り強引に土地境界線ぎりぎりまで塀を作らせたほか、事務所を訪れた客が喫煙しようとした際には『ここは禁煙だからやめてほしい!』と血相を変えて怒鳴りつけたこともあった」 「Aの半生に『凶悪犯の萌芽』があったことは事実だ。それが凶暴な父親の影響か否かは定かではないが、犯罪者が犯行に至るまでの経緯は判断能力・性格や幼児期・少年期の環境など様々な要因がいくつも重なり合い影響しあっている」
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