主な退団・引退選手
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「ロッテ・ジャイアンツ」の記事における「主な退団・引退選手」の解説
崔東原(チェ・ドンウォン、在籍年度1983-1988) ロッテ草創期のエース。球威とコントロールを併せ持った彼はアマチュア時代から『鋼鉄の豪腕』と呼ばれた。1984年、公式戦で27勝、韓国シリーズで一人で4勝を挙げる大活躍で、チームを優勝に導く。この年、打撃三冠王の李萬洙(イ・マンス)を押し退けてシーズンMVPを受賞。韓国シリーズでの4勝は2017年まで唯一の記録である。しかし戦力を彼に大きく依存したチーム事情のために多投を強いられ続けたこと、さらに毎年のように契約更改で球団と揉めたためシーズンオフのトレーニングに専念できなかった事情が重なった結果、やがて実力を落とすこととなる。1988年シーズンオフ、選手会創設に向けて主導的役割を果たしたが、プロ野球興行を廃業するという球団側の脅しに屈して頓挫。半ば報復的な措置として1989年シーズン前、三星ライオンズにトレードされる。三星ライオンズ移籍後は精彩を欠き、1990年シーズン後に32歳という若さで現役を引退した。ハンファ・イーグルスの二軍監督を経て、韓国野球委員会で個別試合の開始・中止の決定、審判団の監督などを務める試合監督役に就いていたが、癌により2011年に逝去(享年53歳)。彼の死後ロッテは現役時代の背番号11を、2012年シーズンより永久欠番に指定した。 尹學吉(ユン・ハッキル、在籍年度1986-1997) 崔東原に続いて、1980年代後半から1990年代前半に掛けて活躍したロッテのエース。打線の援護にも恵まれず、崩壊した投手陣を一人で支えた活躍は、チームの屋台骨を支え続けた(皇帝にたとえられた)崔東原の後継者という意味で「孤独の皇太子」という別名がつけられた。韓国プロ野球の通算最多完投(100試合)および完投勝利(74完投勝利)の記録を持っているタフネスが目立った。引退後は指導者となり、ロッテのみならず尚武、ヒーローズ、LGツインズの投手コーチを歴任し、2011年シーズンから1軍首席コーチとしてロッテに復帰。2012年より二軍監督となったが同年限りでロッテを退団。 朴東煕(パク・ドンヒ、在籍年度1990-1996) 高麗大学時代から時速150km/hを超える速球で鳴らし、1989年オフ地域優先ドラフトで入団。入団当時、崔東原の後を継ぐ将来のエースとして注目された。デビュー戦で当時の韓国プロ野球最速の時速153km/hの速球を披露し、6者連続三振を奪う。しかしストレート中心の単調な投球術と制球難で伸び悩み、当初の期待には応えられなかった。新人の年は10勝7セーブ、翌年14勝を挙げたが、内容的に物足りなく、闘争心の不足を指摘されたりした。結局2ケタ勝利を挙げたのは2年目が最後で、3年目の1992年は7勝に留まった。しかしその年の韓国シリーズでは優勝に貢献し、シリーズMVPにも選ばれた。持ち味の速球を生かすため1993年からはリリーフに転向し、1994年まで抑えを務めたが、これも制球難がネックとなった。その後は度重なる故障で思ったような活躍はできなくなり、現役時代の終盤は崔東原と同様、三星ライオンズにトレードされた。2002年に現役引退。引退後は野球界から離れ、個人事業を営んでいたが、2007年シーズン開幕直前、交通事故により死去。 朴正泰(パク・チョンテ、在籍年度1991-2004) バットを片手だけで握るバッティングフォームで知られた。1990年代後半、チームのリーダーを務めた。1993年シーズン、スライディング途中負った両足首の複合骨折という大怪我を克服。1999年プレイオフの最終戦で後述の「大邱大乱闘」でプレーが再開された際、敵地観客の罵声が飛び交わる中でナインに向け「今日は何が何でも勝つのみ」と鼓舞激励したと言われる。そして、チームは延長戦の末、1勝3敗の劣勢を覆しプレイオフを制し、韓国シリーズ進出を果たした。2009年11月から2年間ロッテの二軍監督を務め、2011年11月1軍打撃コーチに就任した。 田埈昊(チョン・ジュンホ、在籍年度1991-1995) 朴正泰と入団同期で1992年の優勝の主役の1人。アマチュア時代は無名だったが俊足巧打を生かして1年目からレギュラーの座を奪い取った。 文東煥(ムン・ドンファン)の社会人野球チームの現代フェニックスとの契約の解除の条件に現代ユニコーンズへ無償トレードされ、4度の韓国シリーズ優勝に貢献した。現代解散後2008年から、現代の選手が大半移籍した新球団ヒーローズでプレーし、同年史上初の2000試合出場、史上2人目の2000本安打の記録を達成。2009年自由契約となりそのまま現役引退し、すぐにSKワイバーンズの走塁コーチに就任。2010年シーズン終了時点で、韓国プロ野球史上最多盗塁(550)、最多三塁打(100)の記録保持者。 廉鍾錫(ヨム・ジョンソク、在籍年度1992-2008) 高卒ルーキーだった1992年17勝で新人王を獲得してチームの優勝に貢献したが、以後は故障に悩まされ思うような成績をあげられなかった。100勝を目前にした2008年シーズン終了後、球団の勧告を受けて引退。2009年に日本の千葉ロッテマリーンズでコーチ研修を受け、帰国後は韓国ロッテの二軍コーチに就任。 朱炯光(チュ・ヒョングァン、在籍年度1994-2007) 14年間ロッテ一筋でプレーしたフランチャイズプレーヤー。2008年には千葉ロッテマリーンズのコーチも務めた。 馬海泳(マ・ヘヨン、在籍年度1995-2000、2008) 1999年に首位打者になるなど、1990年代後半にチームの主砲として活躍した。しかしFA制度導入を求める選手協会の急先鋒だったこともあり、球団と対立し2001年開幕前に三星ライオンズへトレードに出される。三星でも主砲として活躍し、2003年オフにFAで起亜タイガースに移籍。しかし2004年以降、成績が急激に下降線をたどり始めた。05年オフにLGツインズにトレードされたが、ここでも活躍できず2007年オフに解雇された。LGを解雇された後、現役引退の危機に直面したが、テストを経て2008年は8年ぶりに古巣へと復帰。しかし年齢による衰えもあり結果を残すことができず、1年で自由契約となった。精彩を欠いた技量は復調の気配を見せず、シーズン開幕直後に二軍落ち。この年オールスター戦に指名打者でファン投票選出され、3打点をあげる活躍を見せたのが唯一の見せ場だった。 文東煥(ムン・ドンファン、在籍年度1997-2003) 社会人の現代フェニックスを経て、1997年に入団。翌年からローテーションの一角を担ったが、以後で故障で出場機会が減少した。鄭守根がFAで移籍してきた時、補償選手として斗山ベアーズにトレードされ、すかさずハンファ・イーグルスに再トレードされた。FA移籍に伴うトレードでFA選手の元所属チームではなく、別チームに再トレードされたのはこれが初めてである。 フェリックス・ホセ(在籍年度1999、2001、2006-2007) 1999年、2001年、2006年から2007年の計4年間在籍した外国人打者。1999年、三星ライオンズとのプレーオフ第7戦の6回表に反撃の口火を切る本塁打を打った際、観客から物を投げつけられバットを投げ返し、後述の「大邱大乱闘」の引き金となった。その他暴言や乱闘などによる退場を何度も繰り返した。また2002年には大リーグのモントリオール・エクスポズとの二重契約問題が発覚し、ロッテからの契約を打ち切られ、韓国野球委員会から永久除名選手の処分を受けた。その後永久除名は解除され、何度かロッテへの復帰の話が持ち上がっては消えていたが、2006年に5年ぶりに復帰した。2007年シーズンはキャンプ中の故障で出遅れ活躍できず、5月に成績不振で退団した。 盧長震(ノ・ジャンジン、在籍年度2004-2006) 剛速球を放る抑え投手であるが、私生活でトラブルが多く見られる。三星ライオンズ在籍時、韓国シリーズ出場をかけたプレーオフ最終戦でロッテのフェリックス・ホセから反撃ののろしとなるアーチを被弾、「大邱大乱闘」(試合の流れを変えられる一打で逆転への不安を感じて暴徒化した観客とロッテの選手が乱闘を起こした事件)を引き起こした原因となる。この乱闘劇は鎮圧のために警官隊が出動し、米国のCNNでも報道された。2004年シーズン途中にロッテへ移籍し、抑えとして活躍したがチームから無断離脱するなど、トラブルメーカーぶりは相変わらずだった。2006年オフFAを行使したが、ロッテを含むどの球団とも契約できず、2007年以降プロ野球選手としてどの球団にも所属していない。 鄭守根(チョン・スグン、在籍年度2004-2008、2009) 2000年シドニーオリンピック韓国代表に選ばれ、3位となり銅メダルを授与された。 現役時代は酒に関するトラブルが多く、2009年の現役引退も度重なる酒での乱行にも関わらず飲食店で飲酒していたことを店員に通報されたことがきっかけだった。 デビッド・コルテス(在籍年度2008) 2008年に抑えを務めた。メキシコの国家代表経験を持っている。 孫敏漢(ソン・ミンハン、在籍年度1997-2011) 高い制球力と機敏な守備技術とを武器とし2001年には最多勝、2005年には最優秀防御率、シーズンMVPを獲得。ロッテは慢性的に低迷する中、孤軍奮闘しチームを支えた。国際大会にも縁があり、シドニー五輪・2006 ワールド・ベースボール・クラシック・2009 ワールド・ベースボール・クラシックに代表選手に選出されるもいずれの大会も際立った活躍はなかった。2009年ごろから怪我に悩まされ、2010年・2011年とも登板機会がなく生え抜きの若い選手に押される形にもなり、オフに自由契約。2013年4月、NCダイノスと契約し4年ぶりの1軍登板を果たした。現在はNCのコーチ。 金周燦(キム・ジュチャン、在籍年度2001-2012) 2001年馬海泳とのトレードで三星より移籍。俊足を生かし外野のレギュラーとなり、2012年には通算300盗塁を達成。同年オフ、FA(フリーエージェント)で起亜へ移籍。 洪性炘(ホン・ソンフン、在籍年度2009-2012) 斗山ベアーズからFA(フリーエージェント)で移籍し、2009年から2012年までクリーンアップを任され活躍した。2013年より2度目のFAで斗山へ復帰。 スコット・リッチモンド(在籍年度2013) キャンプ中に膝を故障し、一度も登板しないまま3月に退団。 趙晟桓(チョ・ソンファン、在籍年度1999-2014) キャプテンとして長くチームに貢献してきた。 朴基赫(パク・キヒョク、在籍年度2000-2010、2013-2014) 守備型のショートとして活躍。2015年にFAでKTウィズに移籍した。 張元準(チャン・ウォンジュン、在籍年度2004-2011、2014) 2004年に入団し、2006年から先発の柱として活躍。2014年オフにFA権を行使して斗山ベアーズに移籍した。 シェーン・ユーマン(在籍年度2012-2014) 主に先発として活躍。2014年にハンファに移籍。 張盛好(チャン・ソンホ、在籍年度2013-2014) 強打のベテランとして入団するも大きく期待を裏切って2年で退団。 黄載鈞(ファン・ジェギュン、在籍年度2010-2016) 元メジャーリーガー。現KTウィズ。 姜珉鎬(カン・ミンホ、在籍年度2004-2017) 国家代表常連のキャッチャー。現三星ライオンズ。 孫勝洛(ソン・スンナク、在籍年度2016-2019) ネクセンから加入した抑え。ロッテでは過去に三人しかいない投手応援歌を持っていた選手の一人だった。 ジョシュ・リンドブロム(在籍年度2015-2016、2017) 現ミルウォーキー・ブリュワーズ。 ジム・アドゥチ(在籍年度2015-2016) 1番打者として活躍するも薬物服用が発覚し解雇される。 ジャスティン・マックスウェル(在籍年度2016) アドゥチの代役として入団するも同年限りで退団。 フェリックス・ドゥブロン(在籍年度2018) 現統一ライオンズ。 アンディ・バーンズ(在籍年度2017-2018) 現ロサンゼルス・ドジャース。 ジェイク・トンプソン(在籍年度2019) 現ユカタン・ライオンズ。 カルロス・アスアヘ(在籍年度2019) バーンズの代役として入団するも活躍できず退団した。 ブルックス・ラリー(在籍年度2015-2019) 現ヒューストン・アストロズ。 裵莊鎬(ペ・ジャンホ、在籍年度2006-2020) サイドスローの中継ぎとして存在感を発揮した。 エイドリアン・サンプソン(在籍年度2020) 現シカゴ・カブス。 李柄奎(在籍年度2018-2021) LGツインズから移籍、対右の代打として活躍した。 宋勝準(在籍年度2007-2021) マイナーリーグを経験してから海外進出特別指名で入団し、15年間所属した。 孫児葉(在籍年度2007-2021) 最多安打4度を記録した好打者。2021年球団史上初の個人通算2000安打達成。 閔炳憲(在籍年度2018-2021) FAで斗山ベアーズから移籍するも、脳動脈瘤の治療専念の為、2021年シーズン途中で引退した。 ディクソン・マチャド(在籍年度2020-2021) 現シカゴ・カブス。 ダン・ストレイリー(在籍年度2020-2021) 2020年にチーム最多勝(15勝)、KBOリーグの最多奪三振(205)を記録。 DJ・ピーターズ(在籍年度2022)
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