プロレスに関するエピソード
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「藤波辰爾」の記事における「プロレスに関するエピソード」の解説
本人曰く、自分は喧嘩をしたこともないほど暴力的ではない性格であり、家族や周りも暴力的ではなかったとのこと。それだけに戦う仕事であるプロレスに惹かれた理由が自分でも全く分からないと自伝で述べたことがある。 「プロレスは、相手との信頼関係があるからこそ、やれるんです。」という藤波の言葉が表すように、相手選手の長所を引き出すことに長け、名勝負製造機とも言われた。その技量はフレアー、マードック、ベイダー、長州、天龍、前田、蝶野、武藤といった多くの選手たちから絶賛されている。また、ストロング・スタイルの正統派レスラーと見なされているが、流血や乱入といった荒れた試合も自然にこなせる力量も兼ね備えていた。 新日本の設立直後に、当時は日本プロレスの事務所の斜め向かいにあった新日本の事務所に、「猪木、藤波、山本はどこだ」と言わんばかりにグレート小鹿と林牛之助が、日本プロレスのスポンサーから預かっていた日本刀をコートに隠して殴り込みにやって来た。藤波は奥の部屋に隠れていため、山本小鉄は営業を行っていたためそれぞれ難を逃れたが、その際「山本がその場にいたら大変な事になっていた。プロレスのイメージが地に堕ちる寸前だった」と述べている。 カール・ゴッチに指導を受けていた頃、ゴッチの自宅にはマットが無く庭の芝生の上で練習をしていた。ゴッチが課すスープレックスの練習はロビンソンと名前がついたサンドバッグを抱えてとにかく反り投げる動作を繰り返すというもので、固い芝生で後頭部を強打し続けた藤波は連日脳震盪を起こし「このままでは俺は技を憶える前に頭がおかしくなる」と内心心配になってしまったという。ちなみに、ロビンソンという名称はゴッチがビル・ロビンソンを嫌いだったからだという。 アメリカ修行中はカール・ゴッチの弟子ということで、シューター、壊し屋ではないか、と警戒された。マディソン・スクエア・ガーデンの試合でドラゴン・スープレックスを決めて控室に戻ると、中にいたレスラーから冷たい視線を浴びたという。また、当時はドラゴン・フジナミを名乗っていた事と、細身で引き締まった肉体から「君はブルース・リーの親戚か何かか?」と転戦先でプロモーターや記者達に必ずといっていいほど質問されたそうである。 藤波が新日本の若手でWWWFのジュニア時代の若手の伸び盛りである1979年頃、ホープである藤波を盛り上げようとするイベントが蔵前国技館であり、テレビ朝日で中継した。そのイベントでは番組公募の子供達がリング上でサンドバッグに体当たりするという催しがあったが、そのサンドバッグを押さえる役だったのが長州力であった。また同イベントは歌謡ショーもあり、藤波の大ファンだと本人のデビュー当時から公言していた、当時アイドルだった井上望(現在エド山口夫人)がこのショーのゲストの一人で、この藤波の応援イベントの出演に感激しきりで泣いてしまう一面もあった。 相手の必殺技を盗む「華麗なる盗人」と言われ、「名勝負数え歌」と言われた長州力戦でみせる長州力の得意技“サソリ固め”を逆に仕掛ける姿は、当時の実況担当古舘伊知郎をして“掟破りの逆サソリ”と言わしめた。 古館伊知郎がディファジオ・メモリアルと呼んでいた、2個の大きな赤いルビーがバックル部分に取り付けられた初代WWFジュニアヘビー級ベルトはチャボ・ゲレロ戦での10回防衛の功績から永久保持が認められた。二代目ベルトに変更された際にWWFから藤波に寄贈され、2011年現在も藤波家の応接間に飾られてある。 両足を揃えたまま完全な仰向け状態にジャンプして放つ昔ながらのドロップキックスタイルは、失敗するとバックドロップを受けたように背中から後頭部にかけてをキャンバスに強打(一人バックドロップ)するため、「ジバック(自爆)ドロップキック」と言われ、ファンに失敗を期待させた。また、対藤原喜明戦限定のブレーンバスターをしかける→脇固めに返される、逆エビ固めをしかける→レッグシザースで返される、対マードック戦限定のリング内に入ろうとするマードックを半ケツ状態にする、というお約束ムーブも持っていた。 1985年5月17日の熊本大会で、スーパー・ストロング・マシンに「お前、平田だろ!?」とマイクアピールをした。他のレスラーのオリジナルの技を真似してはいけないのと同様に「覆面レスラーの正体を明かすのはタブー」というのが当時のプロレス界の暗黙のマナー、エチケットであり、しかもその試合は「ワールドプロレスリング」で生中継されていた。長州に対しての逆サソリ同様、藤波はここでも「掟破り」をしたわけであり、言われた平田は「思わず後ろ受け身を取りそうになった」というほどの衝撃だったという。ちなみにこの発言は藤波のおとぼけであるという説と、平田にマスクを脱がせたかった会社が藤波に代弁させたという説がある(2009年9月19日放送の「タモリ倶楽部」や2012年12月12日の「たまむすび」では「マイクを向けられた時に話すことが無いのでつい言ってしまった」と発言している)。なお、この発言のずっと後に平田はマスクを脱いで正体をさらしたが、その後も素顔で試合に出場する一方で「魔界1号」「ブラック・ストロング・マシン」と名前を変えながら覆面レスラーとしても出場することもあり、その時には観客から「お前は平田だろ〜」という声を浴びている。また2ちゃんねるのプロレス板における名無しネーム“お前名無しだろ”は、この発言が由来となっている。 1985年11月1日に、入場テーマ曲であったエディ・グラントの「Boys In The Street」のカバー曲である「マッチョ・ドラゴン」というレコードを発売している。しかし歌唱力に関してはお世辞にも良いとはいえず、コサキンソングとしても取り上げられた。関根勤も「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」で(ユリオカ超特Qが行った「マッチョ・ドラゴン」PVのモノマネを見て)「小学生が歌ってるみたいなんだよね」とコメントしている。その後は藤波本人がCD化を断ったこともあり、永らくその存在が封印されていたが(入場テーマも当初は歌入り版を使用していたが、後にインストゥルメンタル版に変更した)、2005年のG1でケンドー・カシンが入場曲に歌入りバージョンを使用し再び脚光を浴びた。B面曲はテレビ朝日の子供向け番組『パックンたまご』挿入歌の「ドラゴン体操」であった。なお、作詞は森雪之丞である。2010年6月に「めちゃ×2イケてるッ!」の「歌がへたな王座決定戦スペシャル」に出演し、井上陽水の『夢の中へ』を歌唱した。歌詞にある「うふふ」の部分を歌った際、会場が大爆笑となり、審査員を務めた小林幸子に「歌の上手い歌い手は多くいても、あの味は誰にも出せませんよ」と評された。 なお、この「マッチョ・ドラゴン」発売について、当時タッグパートナーであり、先に「らしくもないぜ」というレコードを発売していた木村健悟より「(歌唱力でも売上枚数でも)片手、片足、さらに口を半分閉じるハンディがあったとしても藤波選手には絶対負けない」と酷評されたが、この発言を聞いた猪木が「うまさと人気はまた別だから」と予言した通り、歌唱力はともかく売上は大差で藤波の勝ちだった。 頻繁に引退宣言をしては撤回することが多い。本来、引退へはカウントダウンだがカウントアップしており、この点において師匠アントニオ猪木の回数を上回っている。 藤波が長年ライバル視していたジャンボ鶴田は、引退会見で藤波とのシングル対決がついに幻になった事に対して「藤波君はいつもマスコミを使って対戦を主張してくる。僕はそれが大嫌いだった。馬場さんも彼とのシングル対決は承諾してくれていたんだし、直接僕か会社(全日)に電話なりしてくれればよかったのに」と発言しており、また鶴田は最初からヘビー級で藤波はジュニアヘビー級出身ということもあり「元々体格が違うから」とも発言し、鶴田自身は藤波とは積極的に対戦したかったわけではないようだ。だが後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまった」と、FAXで謝罪した。 また、その鶴田と共に上田馬之助から「ガツーンと来るものがない、デビュー当時からの『爽やかお兄チャン』のイメージを、いまだに捨て切れてない」と批判された事もあった。ただ、藤波24歳、鶴田26歳の時に別冊ゴングで行われた対談では「プロレスラーは怖いオジサン達の集まり、というイメージを僕らで変えていこう」という考えで意気投合している。 社長時代、2001年の東京ドーム大会の橋本真也vs長州力戦において、橋本・長州とも互いにフォールしようとせず打撃技のみのKO勝ちを狙おうとしたため、試合中TV解説席から藤波がリング上のタイガー服部レフェリーに両手を×の字にクロスして試合中止を決めた。この一件は試合を中継していたテレビ朝日の放送席にて同席していた解説者の山崎一夫が、橋本と長州の凄惨な戦いぶりに「二人とも潰れちゃいますよ! 藤波さん、止めなくていいんですか! 藤波さん!」と何度も呼びかけて、おもむろにストップさせたものであった。そしてリング上でマイクを持ち、観客に向かって「我々は殺し合いをしているんじゃない!分かってください!」と叫んだ。この行動は後に「ドラゴン・ストップ」と呼ばれるようになった。このドラゴン・ストップについて藤波は、2017年にスポーツ報知のインタビューで「すっきりした攻防じゃなく、続けていたら看板選手が潰れてしまう、後味の悪い結果になっていただろう。だから自分が悪役になってでも止めたのだ」として、「あの時の判断は今でも間違っていない」と語っている。 ビッグバン・ベイダー戦でバックドロップによって腰を痛めて長期欠場と言われていたが、実は長年の腰痛の原因は椎間板ヘルニアであり、それでベイダーにバックドロップを仕掛けたのが決定打になったというのが真相らしい。 温厚な性格で、1982年2月14日のメキシコにおけるブッチャーとの試合で、ブッチャーに凶器攻撃をされ血だらけになりながらも、試合後ブッチャーに襲いかかった観客を見て、ブッチャーの救出をしたことがある。 飛龍革命の中で猪木に張り手を食らった後に猪木に張り手を打ち返した際、何かを叫んでいたのだが、後にビビる大木がVTRを見せながらなんと叫んでいたのかと尋ねたが、藤波は「俺もわかんないんだよね」と言ったため、真相は解明されずにある。 川田利明、小橋健太、獣神サンダー・ライガーと、彼に憧れてレスラーに成った人物も多い。 1986年(昭和61年)9月12日、その日試合のあった山形県体育館から隣の山形県武道館を訪れた。そのとき合気道家の白田林二郎が高校生の部に稽古をつけていたのをしばらく見学していたが、何を思ったかその場で入門を願い出た。白田は「プロレスとは違うから」と入門は断ったものの藤波に小手返し投げ、二教など指導した。藤波はその技の数々に驚嘆したという。その模様が東京スポーツ(9月14日付)に取り上げられ、上半身裸の藤波が白田に二教で抑えられている写真が掲載された。 新間寿ら一部関係者からカンピオンというニックネームで呼ばれている。カンピオンとはChampionのスペイン語読みである。 座右の銘はアメリカ修行時代にランニングコースで知り合った日系老人から教わった「Never Give Up」。ちなみに、当時のニックネームのドラゴンもその老人から考えてもらったという。
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プロレスに関するエピソード
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「辻よしなり」の記事における「プロレスに関するエピソード」の解説
古舘伊知郎降板後のメイン実況としてワールドプロレスリングを担当するが、当初は何かと古舘との比較をされ、視聴者のウケも悪く非常に悩んだと言う。しかし徐々に彼の実況スタイルも視聴者に受け入れられるようになり、1970年代の舟橋慶一、1980年代の古舘伊知郎と並ぶ、1990年代を代表する実況アナとなった。 特に強く感情を込めて実況をするのが特徴であり、ワールドプロレスリングにて実況担当であった先輩アナウンサー古舘の実況スタイルを模倣していると言われている。 長州力を尊敬し、「古舘さんにアントニオ猪木がいたように、私には長州力がいたんです」と自ら語り、彼についての著書がある。2019年6月26日に後楽園ホールで行なわれた「POWER HALL2019」メインイベントの長州力引退試合において、放送を行なったFIGHTING TV サムライの実況を行なった。 ワールドプロレスリングの実況を行っていた間、辻と新日本プロレスは切り離せない関係とも言え、数々の名文句を残した。マサ斎藤を「獄門鬼」「戦うネロンガ」、橋本を「破壊天子」「爆殺シューター」、蝶野を「熱血バタフライ宣言」「極悪バタフライ」、武藤敬司を「プロレスファンタジー」「セクシャルターザン」「Sir.promenade」「ときめきのバージンレッド」、野上彰を「ムササビ殺法」、越中詩郎を「戦う白袴」「ド演歌ファイター」「ダイヤモンドより堅い尻」、大谷晋二郎の得意技「スワンダイブ」、小島聡の「日本一のラリアッター」「コジマカッター」(後に「コジコジカッター」で現在も定着)、高岩竜一の得意技「餅つき式パワーボム(エンドレスパワーボム)」、佐々木健介の「マッスルエリート」「マッスルボルケーノ」、といった命名は辻のオリジナルによるものである。
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