プロレスのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 23:07 UTC 版)
「アントニオ猪木」の記事における「プロレスのエピソード」の解説
日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、デビュー前から給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。しばしば公衆の面前で殴られて恥をかかされた経験や日常的に「あご」「こじき野郎」と罵られた事実も後年に伝わっている。それでも力道山が死去する前日に参加していた宴席に呼び出された際、元横綱・前田山(当時既に引退して年寄・高砂となっていた)が猪木の飲みっぷりを見て器の大きさを評したその横で力道山が嬉しそうな顔で頷いた姿を見て「自分への期待が初めて分かった。あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた」と感じたといい、「オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」とまで受け止めるようになった。 自身が力道山から理不尽な扱いを受けていたことから、東京プロレスを旗揚げした時にはレスラーが目下の人間をいじめるようなことは絶対にさせないと誓った。東京プロレス時代、給料の少なさを人のせいにして新間寿をリング上で袋叩きにしてやろうと企てた若手一派を諌めたこともある。 過去にテレビ番組「とんねるずのハンマープライス」内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお「ハンマープライス」で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である(リングネームは「ゾンビー諸富」)。 「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。 猪木は1961年5月から1963年10月まで馬場と16回対戦したが、16戦全敗で一度も勝てなかった。 袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されており、公私は別にしていた。渕正信は、1979年の「夢のオールスター戦」の控室で、両者がゴルフの話題で談笑していたことを証言している。プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。また、猪木が自らのタニマチであった佐川清を馬場に紹介し、佐川宅を二人で訪れて統一コミッション設立に向けた計画を話し合うなど、利害が一致する場合は両者は積極的なビジネス関係を結んでいた。 猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジ、黄色、赤、グリーンのショートタイツを着用していたこともある。新日本プロレス時代にも茶色、1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で、師であった力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあり、この時のロングタイツはドン荒川のものを借りたという。 猪木のもう一つのトレードマークに「赤いタオル」がある。これは現役時代、リングガウンを着る際に赤いタオルを首に巻いていたことによるもの。その名残か、プロレスを引退した後の猪木は首に赤いマフラー(ストール)を巻いて行動することが多く、すっかりおなじみのスタイルになっている。 成田空港で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。 力道山は、角界と関係修復を図る際、『猪木を一度大相撲に入門させ、十両になったらプロレスに復帰させる』という計画を持っていたが、猪木自身はこのことを知らなかった。 ミスター高橋によると、本当に猪木がリング上で失神したのは、1986年10月3日に後楽園ホールで行われたスティーブ・ウィリアムス戦だけであるとのこと。
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