田中角栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 08:27 UTC 版)
生涯
生誕
1918年5月4日新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[6]。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[7]。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い[8][注釈 3]、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田尋常高等小学校[9](現:柏崎市立二田小学校)卒業。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという[10]。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ[11]。
なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒(1936年卒[12])と公称することが多かった[13]。後に中央工学校の五代目校長に就任している[14]。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが[13]、専門学校を含める「専修学校」という学校制度は1976年(昭和51年)に創設されたため[15]、彼が在学当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。
二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた[16]。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[17]。
上京
1934年(昭和9年)3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所の大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[18][19]。だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った[20][19]。
夜間部在学中に、保険業界専門誌『保険評論』を発行する小山哲四郎の書生になったり、輸入専門の貿易商「高砂商会」の配送員といった職にも就いたりした[21][19]。
この頃になって、父親の事業が波に乗ってきたことで、大学に行く金を出してもいいと言ってきた[19]。そのため、一時は海軍兵学校入校を目指し、理数系の旧制専門学校である「研数専門学校」英語系の正則英語学校に掛け持ちしたり、商業系「錦城商業学校」には4年次に編入で入学など複数の学校通った[22]。しかし、母が病で倒れたの報を受けて、海軍よりも稼げる実業系に志望を変えた。当時既に設立していた共栄建築事務所では海軍大尉の5倍を稼いでいた[23][19]。通っていた学籍は放校となっている。
中央工学校卒業後
1936年(昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業し[12]、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[23]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[23]。このころ、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)[24] にも籍を置き、商事実務(コーポレート・ファイナンス)を学ぶ。
1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される[25]。1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[26]。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む[27]。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[28]。1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[29]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。
田中土建工業の設立
1943年(昭和18年)12月に、「共栄建築事務所」を改組して田中土建工業を設立した。
仕事で訪れた理化学研究所のエレベーターで偶然大河内正敏と乗り合わせた。そして。彼は角栄が自分の家で1934年の上京時に門前払いをくったことを知り、柏崎とのつながりに親しみを覚えたことで、理研の仕事が角栄の会社に舞い込むようになった[19]。理研コンツェルンとの関係も復活し[30]、理化学興業(ピストンリング製造、現:リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[30]。
1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(韓国のテジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る[31]。同年8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した[31]。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた[32][33]。田中土建工業は戦災を免れる。
戦後の政界入り
日本進歩党
1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する[34][注釈 4]。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した[36]。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めたら、佐渡まで陸続きになる」という演説をした[36]。
民主党
翌1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する[37]。民主党は日本社会党・国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける[38]。
同士クラブ(民主クラブ)から民主自由党
同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た[38]。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く[38]。
1948年10月、芦田内閣が昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作を行った(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する[注釈 5]。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される[39]。12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された[40]。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。
直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした[41]。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした[41]。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した[42]。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった[43]。
再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ[44]。その主なものとして建築士法[注釈 6] や公営住宅法などがある。公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し[45]、後に日本住宅公団が設立された[45]。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した[46]。二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた[46]。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした[46]。
自由党
民主自由党は1950年3月に自由党となる。
政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同路線を運営する長岡鉄道株式会社の社長に就任した[47]。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる[47]。電化に際しての莫大な費用は国庫から捻出されたが[48]、これは大蔵大臣だった池田勇人が一肌脱ぎ[48]、池田が創設した日本開発銀行が巨額の融資を行った[48][49]。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎や亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった[47]。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している。1972年に退任。また、同じく1953年に『越山会』が誕生した。
田中は1954年には、吉田茂率いる自由党の副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった[50]。1955年3月、衆議院商工委員長に就任する。
自由民主党結党後・幹部や閣僚歴任
1955年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党し、田中も参画する。
- 1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後、初めて30歳代での国務大臣に就任した。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方テレビ局の無線局免許状交付の可否)を郵政省の影響下に置いたことは、その後の田中に飛躍の原動力になった。
- 1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長。
- 1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。雪は春に溶けるからと災害に認められていなかった豪雪のサンパチ豪雪に、田中角栄大蔵大臣が初めて災害救助法を適用させた[51]。第1次佐藤栄作内閣まで留任。
- 1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)
- 5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
- 11月 - 幹事長に復帰。
- 1969年(昭和44年)
一.直紀を父・直人の選挙区だった福島3区から衆議院選挙に立てること。 二.田中家の全財産は将来、直紀に譲ること。 三.以上の約束を披露宴で公表すること。 だった[52]。
- 8月 - 大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)成立を働きかけ、大学紛争を収束に導く[53][54]。
- 1970年(昭和45年)9月 - 産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していたことが発覚。11月4日の参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられた。
- 9月10日、真紀子と直紀の間に初孫田中雄一郎が誕生する。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
総理大臣
- 1972年(昭和47年)
- 9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化[57] が実現し、日華平和条約の終了を確認。この際、田中は周恩来から一枚の色紙を渡され喜んでいる写真が新聞に掲載された。色紙の言葉は「言必信行必果」と書かれてあった。しかし、この言葉は論語から引用したもので、この言葉のあとに「硜硜然小人哉」と続く。この記事を見て安岡正篤は、この言葉の真の意味も知らないで喜んでいる田中を見て、田中の教養のなさと中華人民共和国のしたたかさを周りの人にと指摘したといわれる。諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社刊)では、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。それは士として持つべき資質だ。しかしながら、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されている[58][59][60][61]。同日、中華民国が対日国交断絶を発表[62]。
- 12月 - 第33回総選挙。自由民主党は過半数確保も議席減、日本共産党が躍進[63]。12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。
- 1973年(昭和48年) - 地価や物価の急上昇が社会問題化。
- 5月 - 小選挙区制導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。
- 8月 - 金大中事件発生。東西冷戦下において当時の朴正煕政権を支持するとの立場から、韓国側の一方的な政治決着を受け入れた[64]。
- 9月 - 西ヨーロッパ訪問。
- 10月 - ソビエト連邦訪問[65]。日ソ共同宣言時の鳩山一郎以来であり、ブレジネフソ連共産党書記長との会談において、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。日本政府はこの共同声明を根拠に、首脳会談でブレジネフから「北方領土問題が未解決である」ことの言質を得たと認識しているが、日ソの共同文書には「領土問題が存在している」旨の明記はなされなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。
- 10月16日 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換するとともに中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた[66]。
- 11月 - 内閣改造。愛知揆一蔵相の急死で、福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法など電源三法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ充てる。
- 12月 - 物価・地価上昇など経済失政への批判が高まる中、このころから翌年初に行われた各社世論調査で、内閣支持率が軒並み20%を割るようになる[67]。
- 1974年(昭和49年)
- 1月 - 東南アジア訪問。インドネシアの首都ジャカルタで反日デモ(マラリ事件)に遭遇する[68]。
- 7月 - 第10回参議院選挙。ヘリコプターをチャーターし、栃木県を除く46都道府県に訪れて演説などの選挙活動を行うが、議席は伸び悩み、参議院は伯仲国会になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る[69]。
- 9月 - メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。
- 10月 - 月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し田中金脈問題を追及、首相退陣の引き金となる[49][70][71][72]。
- 11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け[72][73]、第2次内閣改造後に総辞職を表明。フォード米大統領(当時)が来日して会談。現職アメリカ合衆国大統領の訪日は初めて。
- 12月9日 - 田中内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足[74]。通算在職日数は886日。
総理退陣後
- 1976年(昭和51年)
- 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
- 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
- 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
- 1982年(昭和57年)11月 - 第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
- 1987年(昭和62年)
- 1989年(平成元年)10月 - 次期総選挙へ田中角栄が出馬しないことを直紀が発表。
- 1990年(平成2年)
- 1992年(平成4年)
- 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
- 12月 - 経世会が分裂。
- 1993年(平成5年)
- 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の日本新党細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
- 12月16日 - 午後2時4分に慶應義塾大学病院にて痰が喉につかえたことからくる肺炎のため75歳で死去[1]。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には正二位・大勲位菊花大綬章以上に叙されることが慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため、位階勲章は与えられなかった。なお、葬儀は自民党・田中家合同葬で執り行われた[79]。田中の死去に伴い、福田赳夫が最古参の首相経験者となった(最高齢も福田のまま)。
没後
- 1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
- 1998年(平成10年)4月 - 新潟県刈羽郡西山町(現・柏崎市)に「田中角榮記念館」が開館[80]。
- 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。
- 2009年(平成21年)3月 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった[81](1位は31%の昭和天皇であった)。
- 2012年(平成24年)12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙にて角栄の地盤を受け継いだ娘の田中眞紀子が落選する(この日は角栄の命日)。
- 2016年(平成28年)7月10日 - 第24回参議院議員通常選挙にて娘婿の田中直紀が落選し、角栄の当選から70年近く国会に存在していた田中家の議席が消滅した。
注釈
- ^ 戦後すぐの1946年衆院選挙に立候補した際には、自身の名前の読み方を「タナカ カクヱ」としていた。
- ^ 正規の学歴は高等小学校卒。その後、当時は各種学校の扱いであった中央工学校の夜学に通い卒業している。
- ^ 田中がのちに『私の履歴書』に記したところでは、2歳のときにジフテリアに罹患したことが原因と祖母から聞いたという[7]。
- ^ 大麻の献金要請は、進歩党党首をめぐって宇垣一成と町田忠治が対立し、その仲裁として大麻が「先に300万円作った方を党首にする」と提案(大麻は町田を推していた)したことに由来する[35]。
- ^ 戸川猪佐武の『小説吉田学校』では、この過程で田中は山崎首班の動きに対して党総務会で「いくら占領下でも露骨な内政干渉が許されるのか」と吉田らに訴えたとされる。
- ^ 田中はこの法律による一級建築士資格取得者である。建築士登録が「第1号」であるとする逸話については建築士#その他 2を参照。
- ^ これについては確かに田中と小佐野は親しい間柄で仕事上では懇意にしていたものの「刎頚の友」とまで言える間柄ではなかったと秘書であった早坂茂三や佐藤昭子の著書には著されている。早坂によれば、田中が上京後に働いていた井上工業からの知り合いだった入内島金一が唯一の「刎頚の友」であったという。立花隆によれば、1973年(昭和48年)の国会答弁で田中が入内島金一について「この世の中にある三人の一人であるというぐらいに刎頸の友である」[116]と発言したことから、マスコミ関係者の間で残る2人についての詮索が行われ、その結果、小佐野賢治と中西正光が候補者として挙がり、入内島と中西はマスコミへの露出が少なかったことから、小佐野が「刎頸の友」として有名になったものという[117]。
- ^ 小説吉田学校にはゴルフをしながらのやりとりとして書かれている
- ^ 「飲水思源」という中国のことわざから持ち出された解釈と思われる。
- ^ 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)によれば自自公連立政権樹立前の1998年8月中旬、竹下登元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けたとある。
- ^ 実刑確定になれば、公職選挙法第11条・第99条及び国会法第109条により国会議員を失職し、刑期満了まで国会議員となることができない。
- ^ 1974年生まれであることは週刊文春2004年3月25日号で1974年秋に臨月を迎えているという記述から判明している。
- ^ ゲイタイム産駒の東京優駿勝利馬は1962年〈第29回〉フエアーウイン、1963年〈第30回〉メイズイの2頭である。
出典
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