身分制度の廃止とは? わかりやすく解説

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身分制度の廃止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:24 UTC 版)

部落問題」の記事における「身分制度の廃止」の解説

1870年明治3年1月山城国愛宕郡蓮台野年寄右衛門汚名廃止請願書京都府提出する。 一、一昨辰年八月右衛門より供奉願書差上げ奉り候節、由緒有増申上げ奉り通り私共の義、在昔奥羽土民御座候。尤も其辺総て東夷蝦夷)と称せられ、王化復し奉らざる者もこれあり、遂に日本武尊征伐あらせらる其の凱陣の砌、御連れ帰り扈従し奉り候処、伊勢神宮御留置きなされ、夫より当時の帝御鳳闕左右に近づかせられ候事、日本書紀にも御座候。一、応神帝国境を御定め玉ひし時、針間国神崎郡崗辺にて青菜の其川より流れ下るを伊許自別命を以て御求め遊ばされ候処、日本武尊復帰しものに付、帝更に尊の前功を御思慕あらせられ、命を以て佐伯直を賜ひ、其復帰しものの君と遊ばされ候由。姓氏録等に相見へ、其時より佐伯部相成り候様存じ奉り候。 一、仁徳御時憎しみを蒙り五ヶ国へ散乱、其後安康帝皇子帳内私達祖先佐伯部仲子近江国来田綿蚊屋野え供奉、終に忠死仕り候事も御座候。且、仁賢帝の御代国郡に散亡の佐伯部を御捜求あらせられ候事等も書紀相見申し候。 一、猶又、古より今に至り小法師と相唱へ、私村内より平常両人或は三人御用多端に向ひ候時は八人迄相詰め御苑掃除役付けさせらるるの刻、御築地内に部屋置かれ日々同所出勤、御扶持方頂戴、其外年始八朔未明より麻上下にて御紋菊紋)付箱提灯持たせ式礼献上物いたし、下され物御座候。又、御奏者に於いて青緡銭三貫文、又、長橋御局に於いて白木綿一疋是を拝領、且御台所にては御雑煮頂戴七日七草餅、十五日には小豆粥、其外五日六日十四日には穂長頂戴尚又例年季冬には箒料として銀六十七匁七分置かれ、其他、諸家御献上米等これあり候得ば、一々配分も仰付けられ、猶、五節句には御酒肴、御亥の子には御玄猪箱入り牡丹餅花栗、其外とも頂戴仕る。御煤払の節は忝けなくも内殿御前にて御式あらせられ候て、厚おかべ、味噌豆腐土器にて八枚銘々下し賜り候。其砌にも、御酒下され候得共、私共一同の者右同様下され物等相願ひ候儀には御座なく候。猶又、御大礼の節吉凶下され物御座候。 一、年頭の節、小法師より差上げ奉り藁箒の儀は、御殿内において例年正月二日早朝御式あらせられ候御餝付の御一品に相備り候と承り候由。尤も是迄年始八朔には献上物いたし候者は数家御座候得共、昨(明治二年)巳の春より多分御廃止相成り然る処、右小法師より差上げ奉り藁箒の儀は旧例通り献上仕り候御沙汰に付、相替らず献納仕り候然る処、昨巳冬御沙汰これあり候には、例年正月二日差上げ奉る藁箒の内、御上様献上いたし候七つ子唱へ候分、東京御廻はしに相成り候間、十二月十二日迄差上げ奉るべき様仰付け為し下し日限相違なく献納仕り候。猶、其外五つ子唱へ候分は例年通り正月二日早朝献上仕り候儀に御座候。 一、諸国神祭には旧例を以て間々私共のもと二衣を着け罷出で候儀に御座候是等往昔余風残りこれあり候儀かと相見申し候。右の通り御座候処、私共のもの多分殺業を嗜み来り然る処、仏説御国内に蔓延候時より世上専ら殺生悪み、終に足利御執政の比、誰となく穢多の字を付け候様成り行き候由、且、閑田耕筆には穢多唱ふ餌取りし字とに、之れ又、和名抄には屠者恵止利と記し人倫漁猟之部に加へ御座候然而時は穢多と申すは屠者にて、則ち方今漁師にて、他にもこれあり候を穢多申し候へば人外異物如く賤められ、殊に市交も追々衰微仕り候は実に残念の至りと類何れも悲観在り候。前条通り往昔佐伯部と迄仰付けられ自分微功も相立て候を、近年穢多と迄汚名を受け、方今上を犯し下を妨げ凶暴・悪戻もこれなく、却て或は仁義忠孝の心を勉励仕り候ものもこれあり候へ共、市中の交りも絶果て候様成り行き、歎かわ敷く存じ奉り候。然る処、今般復古有難く衆庶御撫育を専一遊ばせられ感戴至極殊に旧弊一洗折柄私共至りて迄、素より神州生民に候処、却て穢多の名これあり候は何共歎かわ敷く存じ奉り候。獣類合わせて皮角の品取扱渡世仕り候者も御座候得共、是又、恐れ乍ら御国用の一端にも相成り申すべき哉。且、田舎向きにては多分農業已に右様の品取扱ひいたし候もの一向御座なく候。何卒往古如く穢多身分省き士民同様に取扱下せられ度く、伏して歎願奉り候。の一御容許成下せられ候はば、一統何れも蘇生致し心地にて御髙恩猶如何許り有難き仕合せ存じ奉るべく候。以上。 同年12月、元右衛門息子茂平鉄道敷設関わり願書出し汚名廃止訴える。 一、鉄道の儀、御所遊ばされ候皆、下賤の身迄も御国益感戴奉り候に附きては、類元来奥羽土民御座候所、妄行の者もこれある故歟、何の頃より遂に穢多汚名請来り、賤者と雖も素より御国民の故か、類者共慙愧致さざる間迚は御座なく候。然し乍ら今日相続仕り候復古御一新逢ひ奉り候儀は、又以て幸甚の至に存じ奉り候。此御時に当り何を歟、微忠をも尽くし一度汚名を雪ぐべしと日夜心魂を動し居り、且又、兼ねて御国恩に報じ奉るべき儀もと打過ぎ居り折柄鉄道の儀を拝承仕り、これに仍て御当地並びに大阪渡辺其外類同志の者申合せ、京より伏見迄の所、路途の失費献金仕り度く、其法、先づ山城大和河内・和泉摂津・紀井・丹波近江播磨にて五百斗りこれある重立ち候もの、一村百人此ものより相応出金仕り、其他小躬のものは運送等の人足差出し、猶其余諸国に至る迄法の如く致させ候はば恙なく成就致すべき哉御許容にも相成り候得ば早々懸り申し度く、就いては汚名の儀廃させられ往古如く奥羽民同様に取扱ひ成下され歎き哉と竊に願望仕り居り候。尤も此儀、御当地は勿論、渡辺村におゐても兼ねて志願の儀に御座候。猶其他類に至る迄會て汚名の儀相歎き居り候に付、元の如く奥羽民同様に下され候はば、献金に付聊かも異存決し御座なく候。然り乍ら何分にも下賤の者迚斯くの如きの事を願上げ奉るの儀、恐入り奉るの儀と差扣居り候。然りと雖も方今言路洞察にも相成り誠に悪を去り善に向ふ人倫の道と多罪を願りみず、類伝来の書相添へ、此段懇願奉り候。万々一採用にも相成り候歟、右雑言の程咎めさせられずんば同志のもの重々有難き仕合わせに存じ奉り候。以上。 1871年明治4年)、明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業平民同様タルヘキ事」との布告解放令)が出され以前身分身分階層廃止されたことが明示された。 しかし、近代市民社会産業革命成し遂げた欧米列強見習部分多く一部知識階級でのみその必要性理解されに過ぎない。 そのため多く々では穢多非人同列扱われるのには反対強く解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆続発した解放令反対して部落民排除する取り決め行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し旧来どおり「穢多」と呼んだりした。 これに対しレベル行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というものも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。 部落民呼称はたびたび換えられた。1905年奈良県教育委員会における文書では「特種部落」が使われ同時期の三重県公用文書にもこの語が使われている。 また全国的に部落改善事業展開されていくに従い、「特種部落」以外に「特殊部落が行用語として広まっていった。この言葉対す部落民からの反発はあったが、部落自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、1903年大日本同胞融和大会においては日本新平民なる一種族あり」との文言見られる次に出てきたのが「細民部落」である。これは1912年開かれた細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなる」ということで、「普通細民部落、特別細民部落との区分け必要になる」と指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、聞いただけでは分からない言葉一時的に使われた。 滋賀県郡役所村長会議催され席上特殊部落改善話題になった際、一村長は、「明治4年解放令など出さずに、穢多を“皆殺し”にしておけば、禍(わざわい)はなかったものを」と放言している。 解放令によって法的な地位においては身分職業制限廃止されたが、精神的社会的・経済差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官など武士階級のものとされ、下層警察官僚だった身分身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し武士直属し権力支配末端層として機能してきた身分身分がなんら権限付与されずに放り出されることによって、それまで支配恨み一身集めたこと、などが原因考えられている。 また現代に続く「部落差別」の問題制度的源流歴史的なのであるが、具体的な差別構造成立明治政府政策民衆根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。 差別具体的な形態は、個人においては交際結婚就職集落においてはインフラ整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代部落差別扱っている。 1896年明治29年歌舞伎座初演『侠客春雨傘』では登場人物侠客釣鐘庄兵衛被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎演じ暁雨庄兵衛諭す科白に「ハテ野暮を言う女だなア。 穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間何の変わりがあるものか。それに差別しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴欧米の平等思想学んだ影響見られ舞台芸術差別問題扱った最初の例である。 佐賀市外に神野御茶屋がある。旧藩主の郊外別園だったが、お茶屋付近若者部落民出入りさせない。 ある年花見に来た部落民は、“身のほど知らず生意気(なまいき)な奴だ”と入園拒まれ血みどろにされた。 部落民心理的発達極めて暗い。ながい間、部落民卑屈にされていた。部落民対す侮辱は まず個人的な反逆となって現れてくる。大兇賊として知られた“五寸釘寅吉”はその代表的なものである。

※この「身分制度の廃止」の解説は、「部落問題」の解説の一部です。
「身分制度の廃止」を含む「部落問題」の記事については、「部落問題」の概要を参照ください。

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