身分制度の廃止
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1870年(明治3年)1月、山城国愛宕郡蓮台野村年寄元右衛門が汚名廃止の請願書を京都府に提出する。 一、一昨辰年八月元右衛門より供奉の願書差上げ奉り候節、由緒有増申上げ奉り候通り、私共類村の義、在昔は奥羽の土民に御座候。尤も其辺総て東夷(蝦夷)と称せられ、王化に復し奉らざる者もこれあり、遂に日本武尊御征伐あらせらる其の御凱陣の砌、御連れ帰り、扈従し奉り候処、伊勢神宮に御留置きなされ、夫より当時の帝御鳳闕左右に近づかせられ候事、日本書紀にも御座候。一、応神帝国境を御定め玉ひし時、針間国神崎郡瓦村崗辺にて青菜の其川より流れ下るを伊許自別命を以て御求め遊ばされ候処、日本武尊に復帰しものに付、帝更に尊の前功を御思慕あらせられ、命を以て姓佐伯直を賜ひ、其復帰しものの君と遊ばされ候由。姓氏録等に相見へ、其時より佐伯部と相成り候様存じ奉り候。 一、仁徳帝御時御憎しみを蒙り五ヶ国へ散乱、其後安康帝皇子の帳内、私達祖先佐伯部仲子、近江国来田綿蚊屋野え供奉、終に忠死仕り候事も御座候。且、仁賢帝の御代、国郡に散亡の佐伯部を御捜求あらせられ候事等も書紀に相見へ申し候。 一、猶又、古より今に至り小法師と相唱へ、私村内より平常両人或は三人、御用多端に向ひ候時は八人迄相詰め、御苑の掃除役仰付けさせらるるの刻、御築地内に部屋下置かれ日々同所へ出勤、御扶持方頂戴、其外年始・八朔は未明より麻上下にて御紋(菊紋)付箱提灯を持たせ、式礼、献上物いたし、下され物も御座候。又、御奏者所に於いて青緡銭三貫文、又、長橋御局に於いて白木綿一疋是を拝領、且御台所にては御雑煮頂戴、七日七草餅、十五日には小豆粥、其外五日、六日、十四日には穂長汁頂戴。尚又、例年季冬には箒料として銀六十七匁七分下置かれ、其他、諸家様御献上米等これあり候得ば、一々御配分も仰付けられ、猶、五節句には御酒肴、御亥の子には御玄猪箱入りの牡丹餅、花栗、其外とも頂戴仕る。御煤払の節は忝けなくも内殿の御前にて御式あらせられ候て、厚おかべ、味噌懸豆腐、土器にて八枚銘々へ下し賜り候。其砌にも、御酒も下され候得共、私共一同の者右同様下され物等相願ひ候儀には御座なく候。猶又、御大礼の節吉凶共下され物御座候。 一、年頭の節、小法師より差上げ奉り候藁箒の儀は、御殿内において例年正月二日早朝御式あらせられ候御餝付の御一品に相備り候と承り候由。尤も是迄年始・八朔には献上物いたし候者は数家御座候得共、昨(明治二年)巳の春より多分御廃止に相成り、然る処、右小法師より差上げ奉り候藁箒の儀は旧例の通り献上仕り候様御沙汰に付、相替らず献納仕り候。然る処、昨巳冬御沙汰これあり候には、例年正月二日差上げ奉る藁箒の内、御上様へ献上いたし候七つ子と唱へ候分、東京に御廻はしに相成り候間、十二月十二日迄差上げ奉るべき様仰付け為し下し、日限相違なく献納仕り候。猶、其外五つ子と唱へ候分は例年の通り正月二日早朝献上仕り候儀に御座候。 一、諸国神祭には旧例を以て間々私共類村のもと二衣を着け罷出で候儀に御座候。是等往昔の余風残りこれあり候儀かと相見へ申し候。右の通りに御座候処、私共類村のもの多分殺業を嗜み来り、然る処、仏説御国内に蔓延候時より世上専ら殺生を悪み、終に足利御執政の比、誰となく穢多の字を付け候様成り行き候由、且、閑田耕筆には穢多と唱ふは餌取りし字とに、之れ又、和名抄には屠者恵止利と記し、人倫漁猟之部に加へ御座候。然而時は穢多と申すは屠者にて、則ち方今の漁師にて、他にもこれあり候を穢多と申し候へば人外異物の如く賤められ、殊に市交も追々衰微仕り候は実に残念の至りと類村共何れも悲観罷在り候。前条の通り、往昔は佐伯部と迄仰付けられ、自分微功も相立て候を、近年は穢多と迄汚名を受け、方今上を犯し下を妨げ、凶暴・悪戻もこれなく、却て或は仁義・忠孝の心を勉励仕り候ものもこれあり候へ共、市中の交りも絶果て候様成り行き、歎かわ敷く存じ奉り候。然る処、今般御復古、有難くも衆庶の御撫育を専一に遊ばせられ感戴至極、殊に旧弊御一洗の折柄、私共類村に至りて迄、素より神州の生民に候処、却て穢多の名これあり候は何共歎かわ敷く存じ奉り候。獣類に合わせて皮角の品取扱ひ渡世仕り候者も御座候得共、是又、恐れ乍ら御国用の一端にも相成り申すべき哉。且、田舎向きにては多分農業而已にて右様の品取扱ひいたし候もの一向御座なく候。何卒往古の如く穢多の身分を省き、士民同様に御取扱ひ下せられ度く、伏して歎願奉り候。万の一御容許成下せられ候はば、一統何れも蘇生致し候心地にて御髙恩猶如何許り歟有難き仕合せに存じ奉るべく候。以上。 同年12月、元右衛門の息子・茂平も鉄道敷設に関わり願書を出し、汚名廃止を訴える。 一、鉄道の儀、御所開遊ばされ候皆、下賤の身迄も御国益感戴奉り候に附きては、類村共元来奥羽の土民に御座候所、妄行の者もこれある故歟、何の頃より遂に穢多の汚名を請来り、賤者と雖も、素より御国民の故か、類村の者共慙愧致さざる間迚は御座なく候。然し乍ら今日迄相続仕り候て復古御一新に逢ひ奉り候儀は、又以て幸甚の至に存じ奉り候。此御時に当り、何を歟、微忠をも尽くし、一度汚名を雪ぐべしと日夜心魂を動し居り、且又、兼ねて御国恩に報じ奉るべき儀もと打過ぎ居り候折柄、鉄道の儀を拝承仕り、これに仍て御当地並びに大阪渡辺其外類村同志の者申合せ、京より伏見迄の所、路途の失費献金仕り度く、其法、先づ山城・大和・河内・和泉・摂津・紀井・丹波・近江・播磨にて五百か村斗りこれある重立ち候もの、一村弐百人此ものより相応の出金仕り、其他小躬のものは運送等の人足に差出し、猶其余諸国類村に至る迄法の如く致させ候はば恙なく成就致すべき哉。御許容にも相成り候得ば早々取懸り申し度く、就いては類村汚名の儀廃させられ、往古の如く奥羽の民同様に御取扱ひ成下され間歎き哉と竊に願望仕り居り候。尤も此儀、御当地は勿論、渡辺村におゐても兼ねて志願の儀に御座候。猶其他類村に至る迄會て汚名の儀相歎き居り候に付、元の如く奥羽の民同様に成下され候はば、献金に付聊かも異存決して御座なく候。然り乍ら何分にも下賤の者迚斯くの如きの事を願上げ奉るの儀、恐入り奉るの儀と差扣居り候。然りと雖も方今言路御洞察にも相成り、誠に悪を去り善に向ふは人倫の道と多罪を願りみず、類村伝来の書相添へ、此段懇願奉り候。万々一御採用にも相成り候歟、右雑言の程咎めさせられずんば同志のもの重々有難き仕合わせに存じ奉り候。以上。 1871年(明治4年)、明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。 しかし、近代市民社会の産業革命を成し遂げた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。 そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。 解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。 これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というものも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。 部落民の呼称はたびたび換えられた。1905年、奈良県教育委員会における文書では「特種部落」が使われ、同時期の三重県の公用文書にもこの語が使われている。 また全国的に部落改善事業が展開されていくに従い、「特種部落」以外に「特殊部落」が行政用語として広まっていった。この言葉に対する部落民からの反発はあったが、部落の自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民を総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、1903年の大日本同胞融和大会においては「日本に新平民なる一種族あり」との文言も見られる。 次に出てきたのが「細民部落」である。これは1912年に開かれた「細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなる」ということで、「普通細民部落、特別細民部落との区分けが必要になる」と指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、聞いただけでは分からない言葉も一時的には使われた。 滋賀県の郡役所で村長会議が催された席上、特殊部落改善が話題になった際、一村長は、「明治4年に解放令など出さずに、穢多を“皆殺し”にしておけば、禍(わざわい)はなかったものを」と放言している。 解放令によって法的な地位においては、身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚だった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。 また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。 差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。 1896年(明治29年)歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う女だなア。 穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。 佐賀市外に神野の御茶屋がある。旧藩主の郊外別園だったが、お茶屋付近の若者は部落民に出入りさせない。 ある年花見に来た部落民は、“身のほど知らずの生意気(なまいき)な奴だ”と入園を拒まれ、血みどろにされた。 部落民の心理的発達は極めて暗い。ながい間、部落民は卑屈にされていた。部落民に対する侮辱は まず個人的な反逆となって現れてくる。大兇賊として知られた“五寸釘寅吉”はその代表的なものである。
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