東京・関東地方
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東宝演芸場(東京・千代田区日比谷) - 東宝経営。顔付けは独自。 新宿松竹文化演芸場 - (東京・新宿区新宿)松竹第一興行経営。色物主体。現在はシネコンの新宿ピカデリーが立地。 浅草松竹演芸場 - (東京・台東区浅草)松竹経営。色物主体だが、落語家が出演していた時期もある。 東急文化寄席(東京・渋谷区渋谷) - 現在の渋谷ヒカリエの場所に立地していた東急文化会館の地下1階にあった映画館・東急レックスが、曜日限定で夜間のみ演芸興行を行っていた。テレビ番組『大正テレビ寄席』の収録も行われていた。 楽天地演芸場(東京・墨田区錦糸町) - 東京楽天地経営。色物主体。 本牧亭(東京・台東区池之端) - 講談定席。1952年(昭和27年)開業。2011年(平成23年)に閉場し、講談定席機能は木馬亭が引き継ぐ。 人形町末廣(東京・中央区日本橋人形町) - 1970年(昭和45年)に閉鎖。現在は読売新聞関連企業のビルが立地。演芸番組『金曜夜席』→『笑点』のセットはこの寄席がモデルとなっている。 喜扇亭(東京・中央区日本橋人形町) - 浪曲席。戦後は浪曲に加えて漫才等の色物席として存続するが1952年(昭和27年)頃に閉場。跡地は人形町今半。 神田立花演芸場(東京・千代田区神田須田町) - 旧称立花亭。万惣神田本店の隣に立地していた。第四次落語研究会会場。戦前から経営状態がおもわしくなく、所有者が二転三転し一時期は元NHKアナウンサー松内則三も名義人であった。東宝名人会を開催していた東宝と契約していた時期もあり、寄席文字の橘右近が楽屋主任を務めた。全席畳敷きだったが末期に椅子席に改装した。1954年(昭和29年)11月に廃業。 十番倶楽部(東京・港区麻布十番) - 関東大震災後から新網町の酒店2階で営業してきたが戦災で焼失し、1952年(昭和27年)出資者を募って場所を網代町に移して再開した。1955年(昭和30年)に映画館に転業。跡地(麻布十番会館)では現在でも「十番寄席」(地域寄席)が催されている。 浅草末廣亭(東京・台東区田島町) - 1953年(昭和28年)6月下席から開場した。新宿末廣亭による経営で初公演は2代目桂小文治のトリ。国際通り沿いで美人座というストリップ劇場の2階に立地しており、正面右側のテケツ(切符売り場)で料金を支払って階段で2階へ上がる。定員は詰めて200人程度。全席畳敷きで左右の客席は桟敷席であった。客の入りが悪い上に、席亭いわく建物の持ち主が「サギ師みたいなやつ 」だったため1955年(昭和30年)3月下席限りで撤退した。現在は三平ストア・浅草店が立地。 まつみ亭(東京・荒川区三河島) - 京成電鉄新三河島駅前(現在の荒川区荒川)。1952年(昭和27年)開場。駅前のマーケットの2階に寄席を設けた。前座が階段の窓から駅のプラットホームを見て、芸人の楽屋入りを確認していた。 ゆたか亭(東京・豊島区高田) - 通称「早稲田のゆたか」。都電早稲田停留場下車、神田川に掛かる豊橋(ゆたかばし)を渡って右手にあった。戦前から講談・色物席として営業し、東宝名人会を開催していた東宝と契約して戦後は落語も公演した。当時の席亭の本業は染色工場で現在も盛業中であり、東京の芸界では手拭いを注文する際に店名を「ゆたか」と通称している。 桜亭(東京・台東区上野) - 上野駅に隣接する上野地下鉄ストア内に 1952年(昭和27年)8月開場。浪曲定席。客席200人。昼夜5日替わり。長く続かず閉鎖。 栗友亭(東京・荒川区南千住)- 雑貨店の栗本商店2階を演芸場に改装した。駅前通り(通称コツ通り)に面していた。1955年(昭和30年)1月1日開場、8月13日から浪曲席。公演内容は年代毎に落語や色物→浪曲→漫才主体と変遷した。1957年(昭和32年)4月漫才研究会と提携して同月19日に前夜祭を敢行、翌20日から漫才定席となる。1959年(昭和34年)閉場。建物および栗本商店は長い間現存していたが、2020年(令和2年)4~5月頃に解体が確認された。浪曲席時代は、毎日一定時間舞台を浪曲ファンに開放。折りからの浪曲天狗道場ブームに乗った形となった。春日三球・照代の春日三球は1957年(昭和32年)に栗友亭から売り出した漫才コンビ『クリトモ一休・三休』のクリトモ三休として芸界デビューした。 新富演芸場 (東京都中央区新富町二丁目) 現在の中央区新富一丁目、新富橋の通り北側に立地。関東大震災後に建築業者の株式会社竹田組社長(当時)竹田源次郎により創業。色物席だが落語の興行も実施し、戦争が激しくなってからは落語の興行はほとんどなかった。戦後は新富町の三業地の見番に場所を移して定席興行をおこなったが1949年(昭和24年)頃に閉業した。 千住会館 (東京都足立区千住三丁目)明治期に「大川亭」として開業。大衆演劇や演芸の興行を打ち、大正期に千住会館と改称した。寄席演芸の世界で言うところのいわゆる「端席」だが、戦局の悪化で都心の寄席や演芸場が閉鎖あるいは戦災焼失すると中央の芸人が出演するようになり、5代目蝶花楼馬楽(のちの8代目林家正蔵)や初代古今亭志ん朝(のちの10代目金原亭馬生)などが出演した。都心の演芸場や劇場が再開すると客足が鈍り、1949年(昭和24年)に閉業した。跡地はパチンコ店を経て映画館になり、1981年(昭和56年)に火災で焼失した。 目黒名人会(東京・目黒権之助坂) - 1960年代後半頃に開業したが経営不振で廃業予定だった。1971年(昭和46年)12月に7代目立川談志が元の経営者から引き継いで寄席の復活という選挙公約を実現し、出演者の顔付けの見直しや自身の独演会開催・若手による中入り前の中喜利の実施・トリの出演時間に1時間を割くなど、総合的にプロデュースしたが経営状態は好転せず数年で閉場した。7代目立川談志が木村松太郎をカムバックさせた場所として記録されている。跡地はライブハウス目黒鹿鳴館。 若竹(東京・江東区東陽) - 5代目三遊亭圓楽が私財を投じて設立。1985年に開場し、1989年に閉鎖された。建物自体は現存。圓楽司会時代には『笑点』の収録が行われたこともあり、閉鎖後も借金・倒産ネタが頻繁に使われていた。 よしもと浅草花月(東京・台東区浅草) 吉本興業が2006年11月より常盤堂雷おこし本舗の雷5656会館5階「ときわホール」を賃借して演芸興行を行っていた。2015年7月公演終了。 そらまち亭(東京・墨田区)2012年5月、 東京スカイツリー・東京ソラマチ内にオープンした落語を聴いて食事ができる和風シアターレストラン形式の寄席。落語のプロデュースはねぎし三平堂、施設運営は東武食品サービス。2020年8月に閉店。 市川鈴本(千葉・市川市) - 上野鈴本演芸場の支店。1952年(昭和27年)開業。1954年(昭和29年) - 1955年(昭和30年)頃に大衆演劇の劇場に転業した。市川市在住の正岡容らが活動した。市川市市川1-22。現在の松代そばやの近くに立地。 川崎演芸場(神奈川・川崎市京急川崎駅前) - 1952年(昭和27年)6月開場。経営母体であるダンスホールの川崎フロリダが入っていた川崎ビル(5階建て)3階に立地していた。面積70坪、全席畳敷き定員271名。1階のパチンコ店の店内を横切って奥のテケツ(切符売り場)で料金を支払いエレベータで3階まで上がる。開場1年半程で4階に開設されたローラースケート場の騒音が激しく客離れを招き、閉鎖後も客足が戻らなかった。1962年(昭和37年)3月25日が最終公演。2代目桂小文治が開場時のこけら落とし公演のトリ・最終公演のトリ共に務め、最後の演目は「たちきり」。閉場後はジャズ喫茶に改装された。 相鉄演芸場(神奈川・横浜駅西口) - 当時の相模鉄道社長と5代目古今亭志ん生が懇意であった縁で1957年(昭和32年)9月21日、相鉄文化会館の地下に開業。併設の映画館(後の相鉄ムービル)とともに、相鉄不動産・相鉄興業(現 相鉄ローゼン)が経営。交通の便も良く集客も好調だったが、寄席としての興行は1962年(昭和37年)で終了した。 寄席 井心(せいしん)亭(東京・三鷹)- (公財) 三鷹市スポーツと文化財団の数寄屋造りの建物「井心亭」で、1995年4月に柳家花緑・立川志らく・柳家喬太郎・林家たい平など当時の若手落語家の交互出演で毎月1回の落語会をスタート。原則レギュラーを変えずに通算三百夜を迎える2020年6月の会で終了予定だったが、コロナ禍による緊急事態宣言やまん延防止等重点措置によりたびたび開催が延期され、2年後の2022年7月6日に最終回が予定されている。 新宿角座(東京・新宿) - 松竹芸能経営。元THEATER/TOPSを改装、2011年オープン。2021年3月で休館、5月に本多劇場グループに譲渡、閉館。8月に「本多劇場グループ 新宿シアタートップス」として再開場した。 活(かつ)ハウス(東京・日暮里)-未来来(みらくる) 活砲偽(かっぽうぎ)など の名前で天狗連としても活動する坂井由香が経営する食堂兼興行スペースを2019年千葉から日暮里に移転してオープン。アマチュアや若手落語家の勉強会などの会場になった。2022年7月落語興行営業を終了、食堂営業は継続予定。
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