初演・出版
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「ピアノ五重奏曲第1番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
1906年3月23日、ブリュッセルのセルクル・アルティスティク(Cercle artistique)にて初演。パリ初演は1906年4月30日、サル・プレイエルにて。いずれもフォーレのピアノとイザイ四重奏団(ウジェーヌ・イザイ、エドゥアルド・デル、レオン・ヴァン・ホウト、ヨゼフ・ヤコブ)の演奏による。 ブリュッセルでの初演当日、フォーレは妻に宛てた手紙に次のように記している。 「イザイが、この五重奏曲の作風は私の二つの四重奏曲のものより優れており、格調が高く、それにどのような作品にも見いだし得ない純粋な絶対音楽の響きが備わっていると指摘してくれました。私は、彼がこんな印象を持ってくれたことを、とても嬉しく思っています。目下のところ私は、音楽という媒体を通じて、すべてを指向しようとするものだと考えているので、なおさら嬉しく思えるのです。ロジェ=デュカスは、この作品が格調の高さと純粋さだけで後世に残るということに対しては、恐らく不満を感じることでしょう。でもそんなことは私にとっては全くどうでもよいことなのです。なぜなら、私は自らの音楽表現が万人に理解してもらえるなどとは、心底期待していないのですから。」 — ピアノ五重奏曲第1番の初演当日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙 曲は試演時の約束どおり、イザイに献呈された。 1907年、ニューヨークのシャーマー社から出版。なお、フォーレは1906年にアメル社からウージェル社に出版契約を移しており、シャーマー社からの出版は試験的なものだった。この後1913年までの間、フォーレの作品はウージェル社から世に送り出されることになる。
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初演・出版
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「前奏曲 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
フォーレの前奏曲集 作品103 一覧番号調性テンポ作曲時期出版年第1番変ニ長調 Andante molto moderato 1909年末 - 1910年1月 1910年 第2番嬰ハ短調 Allegro 1909年末 - 1910年1月 第3番ト短調 Andante 1909年末 - 1910年1月 第4番ヘ長調 Allegretto moderato 1910年7月20日完成 1911年 第5番ニ短調 Allegro 1910年7月20日完成 第6番変ホ短調 Andante 1910年7月27日 - 8月 第7番イ長調 Andante moderato 1910年9月5日 第8番ハ短調 Allegro 1910年秋 第9番ホ短調 Adagio 1910年秋 9つの前奏曲のうち、第1番から第3番までは1910年にウージェル(ユジェル)社より出版され、1910年5月17日、独立音楽協会の演奏会でマルグリット・ロンの独奏によって初演された。第4番から第9番までは1911年に出版され、これら9曲を1巻の『前奏曲集』としてまとめたものが1923年に同じくウージェル社から出版された。前奏曲第4番から第9番までの初演については不詳。エリザベト・ド・ラルマン嬢に献呈されている。
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初演・出版
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「交響曲第6番 (ベートーヴェン)」の記事における「初演・出版」の解説
1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場において、ベートーヴェン自身の指揮によって初演。第5交響曲やピアノ協奏曲第4番、合唱幻想曲などとともに演奏された。このとき、本作は「第5番」とされ、現在でいう第5番が「第6番」となっていたが、1809年に出版されたパート譜では現在の番号となっている。 ロプコヴィッツ侯爵、ラズモフスキー(en:Andrey Razumovsky)伯爵に献呈された。1809年5月に管弦楽パート譜、1826年5月に総譜が、ともにライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版された。
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初演・出版
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「弦楽四重奏曲 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
フォーレの遺言どおり、弦楽四重奏曲の演奏と出版は彼の友人たちによって確かめられた。 1925年6月12日、パリ音楽院ホールで開催された国民音楽協会の演奏会において、ジャック・ティボーとロベール・クレットリーのヴァイオリン、モーリス・ヴィユーのヴィオラ、アンドレ・エッキングのチェロによって初演された。 作品は、1925年にデュラン社から出版され、フォーレが演奏・出版の判断を託した友人たちのひとり、批評家のカミーユ・ベレーグに献呈された。また、1925年にアルフレッド・コルトー編曲による四手ピアノ版(うちアンダンテはフォーレ自身の編曲)が出版されている。 なお、フランスのフォーレ研究家ジャン=ミシェル・ネクトゥーは、きわめて注目されたこの初演において、フォーレの死後それほど時間が経っていなかったために、聴衆はこの作品を客観的に理解することができず、フォーレが本来意図した内容とはかけ離れた、あたかも墓の下から聞こえてくるような音楽として受け止めたと述べている。これにより、この作品が演奏される際には敬意と慎みがより重視され、結果として、とりわけ終楽章においてはフォーレが「軽快で楽しく」と明示しているにもかかわらず、より緩慢なテンポが用いられるようになったとする。 フォーレの次男フィリップは、この終曲に関して次のように述べている。 「象徴的な偶然により、ガブリエル・フォーレはその作品と80年に及ぶ生涯を、彼には良すぎることも悪すぎることもなかったこの世に寛大にほほえみかけるような平穏な雰囲気の中で閉じている。」 — 弦楽四重奏曲の第3楽章についてのフィリップ・フォーレ=フレミエの言葉
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初演・出版
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「ピアノ四重奏曲第1番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
1880年2月14日、サル・プレイエルで開かれた国民音楽協会の演奏会で、オヴィッド・ミュザンのヴァイオリン、ルイ・ファン=ヴェフェルジュムのヴィオラ、エルマンノ・マリオッティのチェロ、フォーレ自身のピアノによって初演された。この演奏会では、ヴァイオリンとピアノのための『子守歌』作品16も初演されている。 作品は、ベルギーのヴァイオリニスト、ユベール・レオナールに献呈された。レオナールがヴァイオリンソナタ第1番の作曲に協力・助言を与えてくれたことへの感謝のしるしとされる。 このころのフォーレの作品は、国民音楽協会の限られた人々の間でしか評価されていなかった。後にフォーレと親交のあったピアニストのロベール・ロルタは、フォーレ自身が語ったピアノ四重奏曲第1番の初演時のエピソードについて、次のように紹介している。 「(……)フォーレは多少とも無頓着で無造作に、自分の作品がその頃の売れっ子の演奏家たちによって演奏されることを話してくれました。彼はまたどのようにして演奏会の前日に彼らをリハーサルに集めたかということ、勇気を奮い起こして各楽章の説明をしたということ、そしていくらかのニュアンスをつけて弾いてほしいと頼んだということも話してくれました。そうすると、チェロ奏者が彼の言葉を遮って、『ねえ、キミ、われわれは忙しいんだよ。音は間違いなく弾いているけれど、ニュアンスにまで気を配っている暇はないんだよ』と言ったそうです。」 — 1929年8月21日付「コンフェランシア」紙へのロベール・ロルタの寄稿 また、書き直された終楽章に基づく決定稿は、初演から4年後の1884年4月5日、同じく国民音楽協会の演奏会で、ルキアン・ルフォール(ヴァイオリン)、ベルニ(ヴィオラ)、ジュール・ロエブ(チェロ)、フォーレ(ピアノ)によって演奏された。 この曲の出版に当たっては、ヴァイオリンソナタ第1番と同様の困難が待ち受けていた。フォーレの歌曲を出版していたシューダンス社の編集者はフォーレに対して侮辱的な態度で拒み、デュラン社にも楽譜を持ち込んだが断わられた。契約に応じたのはアメル社だったが、ヴァイオリンソナタ第1番のときのブライトコップ・ウント・ヘルテル社と同様に、フォーレはこの作品に関する権利をすべて放棄しなければならなかった。とはいえ、アメル社はこのときピアノ四重奏曲第1番に加えてヴァイオリンとピアノのための『子守歌』(作品16)、シューダンス社が出版していた作品18の3つの歌曲(「ネル」、「旅人」、「秋」)の版権も買い取り、1879年11月16日の契約以降、1905年までフォーレのほぼ全作品を出版してゆくことになる。
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初演・出版
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「ヴァイオリンソナタ第1番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
1877年1月27日、サル・プレイエルで開かれた国民音楽協会の演奏会でマリー・タヨーのヴァイオリン、フォーレ自身のピアノによって初演。曲はポール・ヴィアルド(en:Paul Viardot, 1857年 – 1941年)に献呈された。ポール・ヴィアルドは、歌手ポーリーヌ・ヴィアルドの息子で、フォーレの親友の一人だった。同1877年、ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版。 初演では、スケルツォ楽章が聴衆のアンコールに応えて2回演奏された。このときの模様をフォーレはマリー・クレール夫人に宛てて次のように述べている。 「今夜のこの『ソナタ』は私の期待をはるかに越える成功を収めました。(……)サン=サーンスは私に、子供が成長して自分の手元を離れてゆく時に覚える母親の悲しみを今晩味わったと言いました。(……)軍服姿のヴィアルド家の人々が全員聴きに来ていました。私としては、少しどぎまぎしました。最後に、昨日よりも今晩の方が上手にピアノが弾けたことをつけ加えておきます。タヨーの演奏も見事でした。」 — 1877年、マリー・クレールに宛てたフォーレの手紙 サン=サーンスは、1877年4月7日付の「ジュルナル・ド・ミュジック」紙にこの作品を絶賛する記事を寄せ、その終わりを「フォーレ氏は、一躍巨匠の域にまで達した。」と結んでいる。 後述するように、このソナタが持つ新しさのために、危険を冒して出版しようという出版社はフランスにはなかった。それまでフォーレの歌曲を出版していたシューダンス社は、50数ページに及ぶ室内楽曲であることを理由に出版を拒否した。困難に直面したフォーレだったが、友人カミーユ・クレールの尽力により、サン=サーンス、レオナール、ラロ、サラサーテの推薦を得てドイツで有名なブライトコプフ・ウント・ヘルテル社との出版契約を取り付けることに成功した。しかし、「フォーレ氏の名前はドイツでは知られておらず、氏の作品より劣るような曲でもこのジャンルのものはたくさん市場に出回っているのが現状」という理由から、1876年11月の契約では、フォーレは同作品に関するすべての権利を放棄することに同意させられた。 こうした厳しい条件の下で1877年に刊行されたヴァイオリンソナタ第1番は、やがて多くのヴァイオリニストたちのレパートリーに加えられるようになっていった。フォーレ自身もウジェーヌ・イザイ、ジャック・ティボー、ジョルジュ・エネスコら当時のヴィルトゥオーソとこの作品で共演している。フランスのフォーレ研究家ジャン=ミシェル・ネクトゥーは、「この曲がもたらした大いなる成功は、デリケートな室内楽のジャンルでは空前のものだった」と述べている。
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「チェロソナタ第1番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
初演時のチェリスト、アンドレ・エッキング(1866年 - 1925年) 初演時のピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877年 - 1962年) フォーレのチェロソナタ第1番は、1918年1月19日、国民音楽協会の演奏会でアンドレ・エッキングのチェロ、アルフレッド・コルトーのピアノによって初演された。同1918年、デュラン社より出版された。 曲はチェリスト、指揮者のルイ・アッセルマン(fr:Louis Hasselmans, 1878年 - 1957年。表記はアッセルマンスとも)に献呈された。ルイは、パリ音楽院のフォーレの同僚でハープ科教授だったアルフォンス・アッセルマン(1845年 - 1912年)の息子であり、1913年にフォーレのオペラ『ペネロープ』(en:Pénélope)をパリで初演していた。
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「ピアノ五重奏曲第2番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
1921年5月21日、パリ音楽院の旧講堂で開催された国民音楽協会の演奏会において、ロベール・ロルタのピアノ、アンドレ・トゥレとヴィクトール・ジャンティのヴァイオリン、モーリス・ヴィユーのヴィオラ、ジェラール・エッキングのチェロにより初演された。 この初演は紛れもない成功を収め、聴衆を熱狂させた。フォーレの次男フィリップは、初演の模様を以下のように伝えている。 「最初の数小節から聴衆はただもう愕然とあれよあれよというだけだった……。曲が進むにつれて、興奮はいよいよ高まったが、それには、まだこれだけのものを書けるこの老人を、不当に無視してきたのではなかろうかという悔恨の気持ちが混じっていた。最後の和音が鳴り終わるころには、聴衆は総立ちになっていた。彼らは、自作の1音符も聞き取れなかったフォーレが身をひそめている広い桟敷席に向かって手を伸ばし、そして叫んだ。彼は頭を振りながら桟敷席の前の方に出てきた。それは孤独な人間の姿だった。彼は、ベルリオーズ、リスト、ショパンそしてワーグナーが燃焼する時間を体験した講堂を見渡した。聴衆はみな音楽に酔っていた。彼は弱々しく、重い外套の下で、やせて心もとなく見えた……。」 — フィリップ・フォーレ=フルミエ この初演で聴衆から湧き起こった感激と感謝の念と、フォーレがもっともその反応を気にしていたパリの音楽家や知人たちから発せられた称賛の言葉は、フォーレに深い感動をもたらした。とはいえ、ネクトゥーによれば、このような輝かしい演奏会の夜にも、フォーレは帰宅後家族に次のように漏らしたという。 「もちろんこのような演奏会はとても嬉しいことだ。だが、今後作品の質を落としてはならず、いっそういいものを作らなければいけないと思うと、肩の荷が重くなる……。」 — 初演当日のフォーレの言葉 楽譜は1921年にデュラン社から出版され、作曲家ポール・デュカスに献呈された。パリのヴィーニュ通りに住んでいたデュカスは、フォーレにとっては隣人のような関係であった。デュカスの誠実さと強い自制心に対してフォーレは深い尊敬の念を抱き、やがて厚い友情を感じるようになっていたという。 また、フォーレはこの曲の自筆譜を画家ジョン・シンガー・サージェントに贈っている。サージェントはフォーレの有名な肖像画を描いているだけでなく、彼の経済的な窮状を支援するための集いにも協力を惜しまなかった。後にサージェントは、フォーレの自筆譜をハーバード大学の図書館に寄贈した。
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「チェロソナタ第2番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
初演時のチェリスト、ジェラール・エッキング(1879年 - 1942年) 初演時のピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877年 - 1962年) 1922年5月13日、国民音楽協会の演奏会でジェラール・エッキングのチェロ、アルフレッド・コルトーのピアノによって初演され、同年、デュラン社より出版された。また、この演奏会では、チェロソナタ第2番につづいて1921年秋に作曲された歌曲集『幻想の水平線』もシャルル・パンゼラの独唱によって初演されている。 フォーレは初演の前日に76歳の誕生日を迎えていた。この演奏会でフォーレのチェロソナタは驚異と称賛の的となり、翌日、フォーレの旧友で作曲家のヴァンサン・ダンディは次のようにしたためている。 「私は一晩たった今も、かくも美しい君の『チェロソナタ』に魅了され続けています(……)。あのアンダンテは表現力に富み、真の傑作といえるでしょう。それに、非常に軽やかで魅力的な終楽章も。私はすっかり気に入りました(……)。君は本当にいつまでも若々しいですね。とにかく、私は旧友として、君の素晴らしい成功と、この成功をもたらした立派な作品にエールを送りたいと思います。君に心から親愛の情を捧げます。友人として、また同僚として……。」 — 1922年、フォーレに宛てたヴァンサン・ダンディの手紙 曲は、アメリカの作曲家・ヴァイオリニストであるチャールズ・マーティン・レフラー(1861年 - 1935年)に献呈された。レフラーはフォーレの友人であり、画家ジョン・シンガー・サージェント、批評家エドワード・バーリンゲイム・ヒル、ファニー・メイソンとともに4人でフォーレを経済的に支援する集いを開いていた。フォーレはこれに感謝の気持ちを示すため、チェロソナタ第2番と歌曲『九月の森で』をレフラーに、ピアノ五重奏曲第2番をサージェントに、それぞれ自筆譜を送っている。
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初演・出版
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「ピアノ三重奏曲 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
1923年5月12日、国民音楽協会の演奏会において、ロベール・クレットリーのヴァイオリン、ジャック・パッテのチェロ、タチアナ・ド=サンセヴィッチのピアノによって初演された。この日はフォーレ78歳の誕生日であり、初演者はいずれもパリ音楽院を卒業した若い演奏家たちだった。フォーレは、自分の音楽が若い世代の音楽家たちに理解されることを喜びとしており、この人選はフォーレの希望に添ったものだった。またこの演奏会では、シュザンヌ・バルグリの独唱、ジャン・ロジェ=デュカスのピアノ伴奏によってフォーレの歌曲集『優しい歌』も演奏された。しかし、この日フォーレは体調不良のため外出できず、欠席した。 公開初演前の1923年4月には、フォーレの友人たちのためにパリのマイヨ家のサロンでこの曲が試演されていた。次男フィリップによれば、アヌシー=ル=ヴューでもてなしてくれたマイヨ夫妻への感謝から、フォーレはマイヨ夫人に微笑みながら「これはあなた方のお宅だから作ることができた作品なのです」と語ったという。 6月29日にはエコールノルマル音楽院において、ジャック・ティボーのヴァイオリン、パブロ・カザルスのチェロ、アルフレッド・コルトーのピアノ(カザルス三重奏団)によって再演された。フォーレは、エコールノルマルでの6月21日のリハーサル演奏に接することができた。ネクトゥーによれば、2度目の演奏はより輝かしいものだった。このときフォーレの友人たちは、「もし彼が100歳まで生きたら、どのような音楽を書くのだろうか」と言い合った。 楽譜は1923年にデュラン社から出版された。作品はモーリス・ルーヴィエ夫人に献呈されている。なお、この曲の自筆譜は発見されていない。
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「ヴァイオリンソナタ第2番 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
初演時のヴァイオリニスト、リュシアン・カペー(1873年 - 1928年) 初演時のピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877年 - 1962年) 1917年11月10日、国民音楽協会の演奏会でリュシアン・カペーのヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノによって初演され、同年デュラン社から出版。 曲は、ベルギー王妃エリザベート・ド・バヴィエールに献呈された。エリザベート妃はフォーレと親交のあったヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1918年)と共通の知人であるだけでなく、自身でヴァイオリンを弾き、内輪の演奏会ではフォーレのピアノ五重奏曲第1番の第2ヴァイオリンを受け持ったこともあるなど、熱心なフォーレのファンだった。フォーレは、後に作曲したピアノ三重奏曲もエリザベート妃に献呈している。 なお、イザイは、フォーレのヴァイオリンソナタ第1番をたびたび演奏していたが、第2番は一度も演奏していない。これについて、フォーレの次男フィリップは次のように述べている。 「この作品は1917年に世に出されたものの、イザイがそれを彼独自のスタイルで演奏するまでに至らなかったのは、きわめて残念なことである。彼はその時すでに高齢に達しており、何よりもまずこの作品を理解することができなかったのだ。とはいえ、この作品は彼のために作られたものなのである。もっとも、彼がそれに気づいたときにはもう遅すぎたのだが……。」 — フィリップ・フォーレ=フルミエ
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初演・出版
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「主題と変奏 (フォーレ)」の記事における「初演・出版」の解説
1896年12月10日、ロンドンのセント・ジェームズホールで開かれた「フォーレ・フェスティバル」においてレオン・ドゥラフォスの独奏によって初演。演奏会にはフォーレ自身も参加しており、ピアノ四重奏曲第2番のピアノを担当したほか、ドゥラフォスが2台のピアノ用に編曲したフォーレのヴァルス・カプリス第2番と第4番ではフォーレとドゥラフォスが共演した。初演者のドゥラフォスは、舟歌第5番の初演者でもある。 『主題と変奏』は、フォーレの友人で弟子のテレーズ・ロジェに献呈された。フォーレはロジェに宛てた手紙で、ロンドン初演の様子を「聴衆は、初演作品に対してもそれほど退屈している様子ではなかった」と伝えている。 楽譜は1897年、ロンドンのメツラー社とパリのアメル社から出版された。この作品のフォーレの自筆譜は見つかっていない。
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