オルガニスト、教育者として
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「ジョン・ゴス (作曲家)」の記事における「オルガニスト、教育者として」の解説
1821年に婚約者と結婚したゴスは、南ロンドンのストックウェル・チャペル(Stockwell)のオルガニストとして任用される。ここで4年間務めた彼は、競争を勝ち抜いて1824年12月にこれよりずっと地位の高いチェルシーのセント・ルーク教会の職を射止めた。この教会での年収は100ポンドで、これは2009年の貨幣価値に換算すると8万ポンドを超える額であった。 ゴスはこの時期に少数の管弦楽曲を書いている。1824年頃作曲のヘ短調と変ホ長調の2つの序曲は、1827年に初演、出版されてかなりの成功を収めた。ジョン・ベイニム(英語版)のメロドラマ「The Serjeant's Wife」への付随音楽は、1827年7月24日にロイヤル・オペラ・ハウスで上演された。オブザーバー紙による作曲者に対する唯一の論評は「ゴス氏による音楽は、毒にも薬にもならないものだった。」であった。これ以降、ゴスは管弦楽曲を作曲するのを避けるようになり、1833年にロイヤル・フィルハーモニック協会からオーケストラ作品の依頼が舞い込んだ際もこれを断ってしまった。作曲家としては、ゴスは声楽曲で知られるようになっていく。彼の歌曲やグリー(英語版)への作品もよく演奏され、音楽雑誌では高い評価を得ていた。 1827年、ゴスはチェルシーのオルガン奏者を続けながら王立音楽アカデミーの和声の教授に就任し、1874年までこのポストにとどまった。この47年間の教員生活の中で面倒見た学生にはアーサー・サリヴァン、フレデリック・コーウェン、フレデリック・ブリッジらがいる。彼の伝記作家であるジュディス・ブレッツァード(Judith Blezzard)は、ゴスの人物像について以下のように記している。「有能かつ労を惜しまない教員で、かつ趣味が良く技巧が達者なオルガン奏者として、まだ比較的未熟だったこの楽器から素晴らしい効果を生み出した。」 1833年、ゴスはオリジナルの宗教的声楽曲の最優秀作品を争うグレシャム・メダル賞(Gresham)に、自作のアンセム「Have mercy upon me, O God」で応募した。彼の作品は、サミュエル・セバスチャン・ウェスレーの「The Wilderness」を破って賞を獲得した。ゴスはこのアンセムをかつての師であるトーマス・アトウッドに捧げ、曲は1834年6月にマンションハウスに演奏された。1833年のゴスの他の主要作品は、教本「和声と通奏低音の基礎 An Introduction to Harmony and Thorough-Bass」である。この教本は広く使用されるようになり、第14版まで版を重ねた。
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