シーハリアーとは? わかりやすく解説

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【シーハリアー】(しーはりあー)

Hawker Siddeley Sea Harrier.
ハリアー発展させた、STOVL艦上戦闘攻撃機

STOVL機軽空母での運用にも適すると考えられたため、インビンシブル級STOVL空母合わせて開発された。
野戦攻撃機であったハリアー対し本機艦隊防空航空優勢確保対艦攻撃偵察など多岐にわたる任務想定されたため、大幅な設計変更を必要とした。
対空対艦用の「ブルーフォックス」レーダー長距離航法ドップラーレーダー装備HUD兵器照準コンピューター追加などがなされた
空中戦備えてキャノピー涙滴型変更された。
またエンジンも、塩害対策施されペガサス Mk104に改良された。

フォークランド紛争においては撃墜22機、被撃墜ゼロという圧倒的な戦績残した
しかし、対空砲火で2機が失われ、他に運用事故で2機が失われている。

当初の運用であった英国海軍からは既に退役しており、現在はインド海軍のみが使用している(空母ヴィラート艦載機として)。

日本での導入計画

前述通り本機運用したのは英国海軍インド海軍のみであるが、これ以外にわが国海上自衛隊)でも導入検討されことがある

1981年当時防衛庁今後数年間にわたる業務計画として「中期業務見積り56中業・1983年1985年)」を策定した
この中で海上自衛隊満載排水量2万トンクラスの洋上防空軽空母導入することが検討されており、この艦に搭載する高速哨戒機」として、本機40程度導入する予定だった。

しかし、この時には軽空母建造見送られたため、本機導入も幻に終わっている。

スペックデータ

乗員1名/2名(複座型
全長14.50m/12.73m(機首折り畳み時、FRS.1)
14.17m/13.16m(機首折り畳み時、FA.2)
全高3.71m
全幅7.70m/9.04m(フェリー翼端装備時)
主翼面積18.7㎡/20.1㎡(フェリー時)
空虚重量5,897kg
運用重量6,374kg
最大離陸重量11,884kg
最大兵装搭載量3,269kg
エンジンロールス・ロイス ペガサスMk.104ターボファン推力95.64kN)×1基
速度
超過禁止/最大/巡航
716kt/639kt/459kt
海面上昇15,240km/min
実用上昇限度15,545km
荷重制限+7.8G/-4.2G
戦闘行動半径400nm(制空ミッションAIM-9×4)/250nm(Hi-Lo-Hi・対地攻撃ミッション)(FRS.1)
100nm(90分のCAPAIM-120×4)/116nm(Hi-Hi-Hi超音速迎撃ミッション)/
200nm(Hi-Lo-Hi・対艦攻撃ミッション)(FA.2)
兵装2連装ADEN 30mm機関砲パック×1基
AIM-120AMRAAM
AIM-9サイドワインダー
シーイーグル
AGM-84ハープーン
通常爆弾
増槽

派生型


BAe シーハリアー

(シーハリアー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 18:56 UTC 版)

BAe シーハリアー

シーハリアーFRS.1

BAe シーハリアー: British Aerospace Sea Harrier)は、ホーカー・シドレー(現BAEシステムズ)社が開発した垂直/短距離離着陸機。同社のハリアーGR.3攻撃機を元にした艦上戦闘機として開発され、イギリス海軍インド海軍で運用されたが、イギリス海軍では2006年、インド海軍でも2016年までに運用を終了した[1]

来歴

ケストレルとハリアーの開発

世界初の実用垂直離着陸機ハリアー

ホーカー・エアクラフト社とブリストル・エンジン社では、1950年代後半より垂直離着陸機の開発に着手しており、1960年10月21日には、プロトタイプとしてのホーカー・シドレー P.1127が初飛行した。1963年2月には「アーク・ロイヤル」で発着艦試験を行い、排気の熱による飛行甲板への悪影響がないことが確認された[2]。また1966年には「ブルワーク」で本格的な試験展開が行われ、艦上運用に耐えうることが確認されたものの、この時点では、従来どおりのCATOBAR方式の艦上機に対する優位点がないとして、イギリス海軍の姿勢は消極的であった[3]

一方、P.1127は順次に改正されてケストレルFGA.1に発展し、引き続き各種試験に供されていた。これをもとにエンジンをブリストル・シドレー BS.100に変更して超音速化したP.1154も計画されており、海軍もこちらには期待していたものの、予算上の理由から後にキャンセルされた。空軍ではこれに伴って、より漸進的に、ケストレルを実用機に発展させたハリアーGR.1を採択し、1966年8月31日に初飛行させた[2]

TDCの建造とシーハリアーの発注

同年発表の1966年度国防白書CVA-01級航空母艦の計画中止が決定されたことで、海軍は、将来的に正規空母を手放さざるを得ない事態に直面した。これを補うため、当初艦隊空母を補完するヘリ空母として開発されていた護衛巡洋艦の機能充実が図られることになり、設計案のなかには、軽空母(CVL)に近いサイズまで大型化したものも出現していた。このことから、1969年、デビッド・オーエン海軍担当政務次官は、ハリアーの艦上運用を提言した。この提言は、この時点では採択されなかったものの、これに応じて、ホーカー・シドレー社では艦上型ハリアーの設計を準備した[3]

そして1970年から1971年にかけての検討を経て、護衛巡洋艦から発展した全通甲板巡洋艦(Through Deck Cruiser, TDC、後のインヴィンシブル級航空母艦)の排水量が18,750トンにまで大型化したことで、ハリアーの搭載計画が本格的に推進されることになった。1973年に1番艦「インヴィンシブル」が発注された時点で、海軍本部では既に艦隊航空隊(FAA)向けハリアーの要求事項を作成していたものの、同年の第四次中東戦争に伴う石油価格高騰の煽りを受けて、実際の発注は先送りされた[3]。その後、1975年、先行量産型3機と量産型第1バッチ31機が発注された。これによって製作されたのがシーハリアーFRS.1である[2]

FRS.1

シーハリアー FRS.1

設計

シーハリアーFRS.1は、空軍向けのハリアーGR.3をもとにした艦上戦闘機版であり、下記のような変更が加えられた。

機首の再設計
機首にはブルーフォックス・レーダーが搭載されており、その機器スペースの捻出と視界向上のため、コックピットの位置は25センチメートル高められた。なおインヴィンシブル級のエレベータに載せられるように、レドームは左舷側に折り畳めるようになっている[2]
兵装の変更
基本的にはGR.3と同様だが、サイドワインダー空対空ミサイルを標準的に搭載できるようにしたほか、シーイーグルマーテルハープーンのような大型の空対艦ミサイル2発を搭載できる強度を確保した[2][4]
塩害防止
艦上運用に対応して防錆処理が施されているほか[3]、エンジンも同様に加工されたペガサスMk.104に変更された[2]

運用史

シーハリアーFRS.1のためのアビオニクスの開発が遅れたことから、これを搭載する先行量産型よりも、これを搭載しない量産型のほうが製作が先行し、量産型1号機(XZ450)の初飛行は1978年8月20日、先行量産型初号機(XZ438)の初飛行は同年12月30日となった。1979年9月19日には、初のシーハリアー飛行隊として、ヨービルトンにおいて集中試験飛行隊として第700A飛行隊が編成された。そして10月24日からは、空母「ハーミーズ」艦上に5機のシーハリアーが派遣されて、洋上運用試験が開始された[2]

1980年4月1日、第700A飛行隊を司令部(訓練)飛行隊として第899飛行隊に改編するとともに、初の実戦飛行隊として第800飛行隊が編成された。また1981年2月26日に第801飛行隊が編成された[2]

パイロットの転換訓練には、当初は空軍から借用した複座型のハリアー T.4/4Aが使用されていたが、1982年には海軍向けにハリアー T.4N 3機が発注され、1985年以降、ヨービルトンに配備された。これらは、エンジンはペガサスMk.103でレーダーも装備しない、純粋なトレーナーモデルである[2]。このため、レーダー操作訓練には、ホーカー ハンターの機首を改造してブルーフォックス・レーダーを搭載したハンターT.8M 3機が使用された[4]

フォークランド紛争

1982年4月にフォークランド紛争が勃発した時点で海軍が保有していたシーハリアーは31機だけで、しかも2機が未引き渡しであった。艦隊の派遣にあたって、20機を機動部隊に配属して、8機を予備、4機を訓練・機材試験用に保持することとなり、第899飛行隊の保有機は第800・801飛行隊に分割されて配属され、下記のように配分された[5]

「ハーミーズ」のほうが大型であることから多くの機体を搭載しており、後に空軍のハリアーが派遣された際も同艦に搭載された[5]。一方、「インヴィンシブル」は小型で搭載機数が少ない一方でレーダーが近代的であったことから防空艦に指定され、同艦の第801飛行隊は艦隊防空のための戦闘空中哨戒を担当した[6]

また4月8日には増援部隊として第809飛行隊が編成されたものの[2]、予備機の実戦用整備やパイロットの確保に苦労し、外国軍に派遣していたパイロットを呼び戻すとともに空軍からの交換でどうにか頭数を揃えたものの、機体は8機でやっとだった。第809飛行隊は、空軍の第1飛行隊とともに空中給油を受けつつアセンション島に展開し、そこからは「アトランティック・コンベアー」によって輸送され、5月18日には機動部隊と合流し、第800・801飛行隊に4機ずつ配分された[5]

アルゼンチン空軍ミラージュIIIダガーといったマッハ2級のジェット戦闘機を保有しており、この2機種をあわせただけでもシーハリアーの約2倍の数があったうえに、より低速の攻撃機もあわせれば更に差が開くことから、当初はイギリス側の不利が予測されていた。ただし実際には、フォークランド諸島の貧弱な航空設備のために近代的なジェット機の配備は困難で、しかもミラージュやダガーには空中給油の能力がないために、戦場での滞空時間が限られた。またハリアー・シーハリアーともに稼働率は高く、少ない機体でも最大限に活用できた[5]

5月1日にはミラージュIIIと第801飛行隊のシーハリアー2機ずつによる空中戦が発生したものの、全方位交戦能力を備えたAIM-9L空対空ミサイルの性能面の優位もあって、シーハリアー側の損害はなく、ミラージュは1機が撃墜、もう1機も損傷して不時着を試みたところを味方の対空砲に撃墜された。更にイギリス空軍のブラック・バック作戦を受けて、これ以降、ミラージュIIIはアルゼンチン本土防空のため引き下げられたことから、アルゼンチン機は護衛戦闘機なしで英艦隊・上陸部隊への爆撃に投入されることになり、シーハリアーに襲撃された場合は反撃せずに逃げの一手となったため、以後の航空戦は一方的な様相となった[5]

しかしイギリス艦隊も、「シェフィールド」の喪失以降はアルゼンチン本土から距離をとったために、フォークランド諸島上空での滞空時間は約30分まで低下していた[7]。このためもあり、シーハリアーのCAPの間隙を縫って襲来するアルゼンチン機によって多くの駆逐艦などが被害を受けており、空母戦闘群の指揮官ウッドワード提督は、航空優勢の確立には失敗したと回想している[8]。その後、東フォークランド島のポートサンカルロスにアルミ板敷きの前進作戦基地(FOB)が設営され、ある程度改善した[5]

最終的に、空対空戦闘では23機を撃墜、被撃墜は0機とアルゼンチン空軍を圧倒した。しかし、空対地攻撃では地対空ミサイル対空砲火で1機ずつ撃墜され、戦闘外の事故でも4機を失っている[5]

FA.2

シーハリアー FA.2

フォークランド紛争の戦訓を踏まえて、その翌年の1983年より、シーハリアーへのMLU(運用中期近代化)計画が着手された。1985年1月、イギリス国防省はBAe社に対し、シーハリアーFRS.1 2機をFRS.2(後にF/A.2)仕様に改修する指示を行なった。改修1号機(ZA195)は1988年9月19日に初飛行した[2][9]

設計

FRS.1からF/A.2の最大の変更点がアビオニクスの強化で、火器管制レーダーブルーヴィクセン・レーダーに更新された。これはパルスドップラー処理を導入しており、クラッター抑制性能は飛躍的に向上し、ルックダウン・シュートダウン能力も付与された[2][9]

またレーダー警報受信機(RWR)もARI.18223からマルコーニ・スカイガーディアンに更新された。コクピットにはHOTAS概念が導入されて、多機能ディスプレイ(MFD)2面を備えるデジタルタイプとなり、機内のバスもデジタル式のMIL-STD-1553となった[2]

レーダーの更新に伴ってレドームが大型化されたほか、各種機器の収容スペースを確保するため、後部胴体を35センチ延長してアビオニクスベイが設けられた。また空力的には、主翼のドッグトゥースを廃してキンクを設け、高迎角時の特性を改善した。エンジンもペガサスMk.106に更新されている。これは第二世代ハリアー(ハリアー II)のペガサスMk.105の派生型であるが、出力は9,750 kgfで、従来機と変わりはない[2]。このため、特に中東など気温が高い状態ではエンジンの出力が足りず、着艦のために燃料や兵装を投棄せざるをえないケースが発生した。このことから、2000年には出力強化型のペガサス11-61エンジン(出力10,795 kgf)の搭載が検討されたものの、コスト面から断念された[1]

アビオニクスの強化に伴って、視程外射程AMRAAM空対空ミサイルの運用に対応した。30mmアデン砲パックにかえてAMRAAMのランチャーを装備可能となったほか、主翼外側パイロンは、サイドワインダーとAMRAAMの共通レールランチャーとなり、ALARM対レーダーミサイルも搭載可能となった[2]

運用史

1988年12月7日には、33機のFRS.1をF/A.2に改修する契約が締結され、94年までに全機の改修が完了した。またその後、18機のF/A.2の新規生産が承認され、こちらは98年までに引渡しを完了した。これに伴い、複座型のハリアーT.4 7機が、レーダーを除くアビオニクスをF/A.2仕様に変更したT.8に改修されており、改修初号機は1995年5月1日に初飛行した[2]

デリバリット・フォース作戦アライド・フォース作戦などでNATO軍に加わって実戦参加している。この際には、ブルーヴィクセン・レーダーの高性能を活かして、E-3早期警戒管制機(AWACS)を補完する簡易的な空中早期警戒機(AEW)としても用いられた[10]

統合運用の進展に伴い、2000年にはハリアー統合部隊 (Joint Force Harrierが設置されて、空軍のハリアーGR.7と海軍のシーハリアーFA.2の飛行隊の指揮系統は一元化されることになった。既に空軍のハリアーGR.7も艦上運用に十分な経験を積んでいたことから、空対空任務に適したシーハリアーFA.2と空対地任務に適したハリアーGR.7と、それぞれの利点を活かした運用が可能となった。その後、シーハリアーFA.2のエンジン更新断念を受けて、2002年には、当初2012年に予定されていた同機の退役を2006年に前倒しして、その予算でハリアーGR.7をGR.9に更新するとともに、現在シーハリアーを運用している飛行隊についてもハリアーGR.7/9に機種転換していくことが決定された。2004年3月に第800飛行隊が、2005年3月に第899飛行隊が、そして2006年3月31日に第801飛行隊が機種転換を完了して、シーハリアーFA.2の運用は終了した。退役した機体をインドに売却することも計画されたが、これも実現しなかった。唯一、アメリカで個人 (Art Nallsが保有している機体が現存している[1]

FRS.51

アメリカ海軍F/A-18Fと共に飛行するシーハリアー FRS.51

ホーカー・シドレー社は、デモンストレーション用に複座型のハリアーT.52を1機保有していたが、これは1972年、ジョン・ファーレーの操縦によってインドを訪問していた。その経験を踏まえて、インド海軍はシーハリアーFRS.1の完成直後に導入を決定、1979年に最初の6機を発注した。これがFRS.51である[2]

FRS.51は、設計面ではFRS.1と全く同一である。ただしインド軍の要求にあわせて、空対空ミサイルはサイドワインダーの代わりにマトラ・マジックに変更された[2]。初号機(IN601)は1982年8月6日に初飛行し、翌年より、空母「ヴィクラント」の艦上機であったホーカー シーホークの後継機として配備を開始した。1990年までにFRS.51 23機と、複座型T.60 4機が購入されたほか、2002年・2003年には、イギリス空軍より複座型T.4 2機を追加購入した。なおこれらの母艦として、1987年には「ヴィクラント」の後継として「ヴィラート」が導入されている[2]

その後、2000年代からの近代化改修により、レーダーをイスラエル製のEL/M-2032に換装、これによりラファエル社のダービー空対空ミサイルが携行可能となり、インド軍は「インド洋で最良の空母対応型防空戦闘機」と称した。しかしやはり老朽化が進み、母艦となる「ヴィラート」の退役にあわせて、2016年に運用を終了した[1]

採用国と配備部隊

イギリス

インド

その他の国での導入計画

海上自衛隊

海上自衛隊では、59中業 (1986年) または61中期防(1986年-1990年)に盛り込まれる予定だった満載排水量20,000t程度の航空機搭載護衛艦(DDV)に搭載する要撃機として導入が検討されたが、シーハリアーの能力不足が問題となり導入は見送られた。代わりに海上自衛隊ではAV-8B ハリアー IIの導入が検討されたが、日本の軽空母保有に対して国内外から強い反発が予想されることから政治的配慮が働き、防衛庁内局を中心に強い反対意見が出たため、計画は頓挫した(元統合幕僚会議議長佐久間一の後年の証言による[11])。

中華人民共和国

1978年イギリス産業界への支援と香港の将来も含めた対中関係の状況改善を目的に売却を計画していたが、1970年代当時の中国の財政状況では高価だったため、導入を見送った[12]

諸元・性能

インヴィンシブル」のスキージャンプから発艦するシーハリアー FRS.1
FRS.1 FA.2
乗員 1名
全長[注 1] 14.50 m 14.17 m
全高 3.71 m
翼幅 7.70 m
翼面積 18.67 m2
翼比
(翼付け根-翼端)
10-5%
後退角 34°
下反角 12°
ホイールベース 3.45 m
アウトリガー
ホイールトラック
6.76 m
空虚重量 6,100 kg 6,370 kg
最大離陸重量 (STO時) 11,880 kg
動力 ペガサスMk.104
ターボファンエンジン×1基
ペガサスMk.106
ターボファンエンジン×1基
推力 9,750 kgf
最大速度
(高高度)
マッハ1.25[9][注 2]
最大速度
(海面上)
1,185 km/h
実用上昇限度 15,540 m n/a
MTOW時STO滑走距離 320 m 305 m
フェリーレンジ 4,000 km
最大兵装搭載量 STO時: 3,630 kg
VTO時: 2,270 kg

登場作品

脚注

注釈

  1. ^ 計測ブーム、ピトー管を含む[2]
  2. ^ マッハ0.98とする説もある[2]

出典

  1. ^ a b c d Calvert 2019.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 松崎 2005.
  3. ^ a b c d Polmar 2006, ch.19 New Directions.
  4. ^ a b Taylor 1983, pp. 253–256.
  5. ^ a b c d e f g 田村 2005.
  6. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2014, pp. 154–168.
  7. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2014, pp. 193–205.
  8. ^ 防衛研究所戦史研究センター 2014, pp. 168–174.
  9. ^ a b c Lambert 1991, pp. 311–312.
  10. ^ FlightGlobal: “Light fighter, big punch” (英語) (1996年7月10日). 2016年1月10日閲覧。
  11. ^ 近代日本史料研究会 2007, p. 155.
  12. ^ “英、冷戦時代に中国への兵器販売を検討”. AFP通信. (2008年12月31日). https://www.afpbb.com/articles/-/2553226?pid=3642114 

参考文献

関連項目


ホーカー・シドレー ハリアー

(シーハリアー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 14:26 UTC 版)

ホーカー・シドレー ハリアー (英語: Hawker Siddeley Harrier) は、イギリスホーカー・シドレー(HSA; 後のブリティッシュ・エアロスペース)社が開発した垂直/短距離離着陸機(V/STOL機)。

世界初の実用VTOL機であり、まず攻撃機としてイギリス空軍、ついでアメリカ海兵隊に配備されて、イギリス空軍ではハリアーGR.1/3、アメリカ海兵隊ではAV-8A/Cと称された。また艦隊航空隊向けの艦上戦闘機としてシーハリアーも派生したほか、ハリアーも強襲揚陸艦軽空母での艦上運用が行われた。後にはマクドネル・ダグラスが主体となって全面的に設計を改訂したAV-8B ハリアー IIに発展した。

ハリアーの名は小型猛禽類であるチュウヒのこと。前身である実験機、ケストレルの名前は同じく小型猛禽類であるチョウゲンボウのことである。これらのは、向かい風の中でホバリング(空中停止)をすることがあるため、VTOL機の名称として採用された。

開発までの経緯

P.1127試験機
ケストレル(XV-6A)
P.1127からケストレル、ハリアーへの変遷

ペガサス・エンジンの開発

垂直離着陸可能な重航空機としては、まず第二次世界大戦中にヘリコプターが実用化されたものの、回転翼機では前進時に効率が悪く、固定翼機としての垂直離着陸機(VTOL機)が求められることになった。フランスの航空技術者であるミシェル・ウィボーフランス語版は、エンジンの推力を偏向する手法(ベクタード・スラスト)に着目しており、1956年には、ブリストル社のオライオン ターボプロップエンジンのシャフトによって4個の遠心式ブロアーを駆動し、その排気ノズルを回転させて垂直離着陸を行うジロプテール (Gyroptere) という対地攻撃機を提案した。この案そのものはフランス当局・メーカーともに採用されなかったが、オライオンの製造元であるブリストル社のスタンリー・フッカー技師がこれに注目し、遠心式ブロアーのかわりに軸流ファンと2個の可変ノズルを設けたBE 48エンジン、ついでコアをオーフュースに変更して前部ファンをオリンパスから導入したBE 53エンジンを設計した[1]

この時期、ホーカー社のシドニー・カム技師長はV/STOL技術の研究を進めており、このBE 53に着目して、まず1957年にこれを搭載したP.1127/1を設計した。しかしBE 53は完全に排気を下向きにすることはできず、VTOL用エンジンとしては不完全であったことから、ブリストル社の設計陣に要請して改良に着手した。ブリストル社では、1959年9月にはVTOLに対応したBE 53/2(ペガサス1; 出力4,080 kgf)、1960年2月には推力増強型のペガサス2(出力4,990 kgf)の試運転に漕ぎつけた。このようにエンジンの設計が進展するのにあわせて、1958年にはホーカー社も試作機の製作準備に入ったが、この時点では諸般情勢からイギリス空軍の発注は期待できず、まずは北大西洋条約機構 (NATO) のG.91後継機計画 (NBMR-3) での採用を目標としたプライベート・ベンチャーとして開始されることになった[1]

試作機の製作と3ヶ国共同評価

ホーカー社では、P.1127試作機の製作に先駆けて、まず模型などによる実験研究を重ねていった。VTOL機について豊富な経験をもつアメリカ航空宇宙局 (NASA) もこれに協力し、ラングレー研究所で風洞実験を行ったほか、VTOL機への慣熟訓練用としてX-14を提供した。実際の製作は1959年末より開始され、またイギリス政府もこれに後付けで実験要求仕様E.R.204D、続いて作戦要求仕様O.R.345を提示し、空軍の攻撃機として採用される道が開かれた。そして1960年6月には試作機の製作契約が締結され、やっと公費による開発に移行した[1]

P.1127の1号機は1960年8月にロールアウトし、10月21日にはケーブルで繋がれた状態でのホバリングを、そして11月19日にはこれを外した状態でのホバリングを成功させ、更に1961年12月には緩降下で音速を突破した。またこれらと並行して、順次に設計を改正しつつ試作機の製作も継続され、1962年4月5日にはペガサス2後期型(5,670 kgf)を搭載した機体が初飛行、1963年2月にはペガサス5(6,800 kgf)を搭載するとともに主翼の設計も改正した機体が完成した[1]

当時、NATO諸国では、他にも西ドイツEWR VJ 101VFW VAK 191Bフランスミラージュ III VなどVTOL機の開発が進められていたものの、いずれも何らかの問題を抱えており、P.1127が最も実用化に近い状況だった。このことから、1962年1月、英・米・西独の3ヶ国で共同評価飛行隊 (TES) を組織してP.1127の評価を行うことになり、1963年2月には、TES向けのP.1127 9機がケストレルF.(GA).1の制式名で発注された。TESは1964年10月15日に発足し、1965年4月1日より評価試験を開始して、11月30日までに938回の試験飛行を行って、解散した。アメリカ軍は6機のケストレルを持ち帰り、XV-6Aとして、自国で更に評価試験を行った[1]

P.1154の開発中止とケストレルの実用機化

当時、ブリストル社では、ペガサスを元にプレナムチャンバー・バーニング (PCB) に対応して推力を大幅に増大させたBS.100の開発を進めており、ホーカー・シドレー社でも、1963年より、これを搭載して最大速力をマッハ2まで引き上げたP.1154を設計していた[2]。同機には、イギリス海・空軍だけでなく、NATO諸国も期待を寄せていたが、1964年の総選挙を受けて労働党ハロルド・ウィルソン政権が成立すると、大幅な軍事費削減に伴い、P.1154の開発は中止されてしまった[1]

これを受けて、ケストレルを元にした実用機の開発が志向されることになり、1965年2月19日、イギリス空軍向け攻撃機の先行量産型としてP.1127 RAF 6機が発注された。これは後にハリアーGR.1と命名されて、初号機は1966年8月31日に初飛行、残り5機も1967年7月までに全機が進空して、実用化試験に投入された[1]

ハリアーGR.1

設計

機体構造

ハリアーGR.1

上記の経緯より、基本的にはハリアーGR.1はケストレルの実用機と位置づけられ、外見的にも大差はない。しかし実際には、構造設計図の85パーセントが新たに描き起こされており、下記のように多くの変更点がある[1]

吸気口の再設計
開発最初期よりVTOL・超低速時の吸気が課題となっていたことから、インテイクリップ直後に片側8個のサクション・リリーフドアを設けて吸気量を確保した[1]
降着装置の強化
ケストレルでは重量5,900 kgで2.44 m/秒の降下率に耐える設計だったのに対し、ハリアーGR.1では重量7,260 kgで3.66 m/秒の降下率に耐える強度となった[1]
兵装搭載量の増加
胴体下面両側にADEN 30 mm機関砲を搭載できるようになったほか、主翼と胴体下面には合計5ヶ所のハードポイントが設けられた[1]
アビオニクスの強化
イギリスの軍用機として初めてヘッドアップディスプレイ (HUD) を搭載したほか、自動安定装置も追加され、ホバー・低速時のワークロードが大幅に低減された[1]
長距離フェリー対策
着脱式の空中給油プローブおよび延長翼端の装備に対応した[1]

エンジン

ペガサスのメカニズム
 
エンジンノズル(写真はシーハリアー)

ペガサスエンジンの基本構造はケストレル以前と同様で、転環式の推力偏向ノズル4個(ファン出口に2個、排気出口に2個)を備える、2軸式でミキシングのないターボファンエンジンである。通常と異なり、ファン(LP系)とHP系のローター(HP圧縮機など)の回転方向を逆向きにすることで、それぞれのローターのカウンタートルク(タービンの回転とは逆方向に機体が回ろうとする力)を相殺減少し、VTOL時やホバリング時の姿勢安定を高めている[2]

これらの推力偏向ノズルは胴体側面に配置され、その向きを0度(後方)- 98.5度(真下よりやや前)まで変えることによって、垂直離着陸が可能となる。回転速度は毎秒100度に達し、450ノットで飛行中であっても推力偏向が可能である。一方、ホバリングや極低速時などではラダーエルロンなどの通常の姿勢制御機構の働きが弱くなる[注 1]ため、機首下部・左右主翼の端部・機体後部にバルブ付の補助ノズルを取付け、エンジンから抽出した圧縮空気をそれらに送り込み、機体のピッチング・ローリング・ヨーイング運動を行うRCS(リアクション・コントロール・システム)により機体の姿勢制御ができるようになっている[2]

ハリアーGR.1において、ケストレルからの最大の変更点が、エンジンをペガサス6(8,600 kgf)に換装した点である[1]。英軍呼称はペガサスMk.101とされており、ペガサス5を元にHPタービン動翼第2段を空冷とし、推力偏向ノズルのベースを2枚方式としているほか、大きな特徴が、燃料器を水噴射に対応させた点である。これは燃料器内およびタービンの冷却空気に冷却水(脱イオン水)を噴射することで、ガス温度は高く保ったままでタービン部品の温度を下げることができ、推力増強が可能になるものである[2]。水を最大量である495ポンド (225 kg)搭載すると約90秒噴射できるが、実運用では他の装備との兼ね合いから、より少ない量となることが多い[3][注 2]

多くの機体は、1971年から1973年にかけて、エンジンをペガサス10(Mk.102; 推力9,300 kgf)、更にペガサス11(Mk.103; 推力9,750 kgf)に換装してハリアーGR.1Aとなった。その後、更にハリアーGR.3仕様に改装されている[1]

運用史

1966年には量産型ハリアーGR.1 60機が発注され、1号機は1967年12月28日に初飛行し、1971年までに全機が進空した。またその後、減耗補充機1機、第2バッチ17機の計78機が生産されて、1972年初頭までに全機がデリバリーされた[1]

1969年1月1日には、ウィッタリング基地でハリアー転換訓練チーム (HCT) が編成され、パイロット養成訓練が開始された。実戦部隊としては、1969年4月1日にはウィッタリングの第1飛行隊英語版がハンターからハリアーGR.1に転換し、史上初のVTOL戦闘機飛行隊となって、同年末までに定数20機が配備された。その後、1970年5月28日に第4英語版、10月1日に第20英語版、1972年1月1日に第3飛行隊英語版の3個飛行隊が編成されて、これらはいずれも西ドイツのヴィルデンラース空軍基地英語版ドイツ語版に配備された[1]

ドイツ駐留イギリス空軍英語版では、ハリアーGR.1の配備とともに、分散配置の試みが活発化した。当時の西ドイツは冷戦の最前線であったが、西ドイツが属するNATO地上戦力では劣勢とみられ、開戦第一撃における航空戦力の損耗を抑える必要があると考えられたためである。VTOL機は滑走路が不要であるため分散配置の自由度が高く、ハリアーの強みと言える運用法であった[1]。ただし垂直離着陸時には地面に向けて極めて強い噴流を起こすため、仮設飛行場の設営に使用する穴開き鉄板などを吹き飛ばしてしまうことから、ハリアーの発着前には鉄板の隙間や穴を丁寧に塞ぐ必要があった[3][注 3]

第1飛行隊は、ハリアーGR.1への機種転換直後の1969年5月、『デイリー・メール』紙主催の大西洋横断エアレース (Daily Mail Trans-Atlantic Air Raceに参加して[1]ロンドンからニューヨークへの往路の部で優勝し、6000ポンドの賞金を獲得している[4]

ハリアーT.2/4

ホーカー社はP.1127試作時より複座型練習機の必要性を提言していたが、空軍の開発承認は1966年となり、1969年のパイロット養成訓練開始には間に合わなかった。このため、ヘリコプター(ウェストランド ホワールウィンド)による訓練飛行5回を養成コースに組み込む苦肉の策が採られた[1]

最初の複座型として開発されたのがハリアーT.2で、エンジンやアビオニクスはハリアーGR.1と同じだが、コクピットの部分で1.19 m延長され、これを補って重心位置を調整するため、尾部も2.07 m延長された。後席(教官席)は28 cm高い位置に設けられ、このキャノピーの大型化に伴う方向安定性の低下に対処するため、垂直尾翼を大型化するとともに大型のベントラルフィンも増設された[1]

T.2はまず1966年の発注に基づいて試作機2機が製作されたのち、1967年に量産型の第1バッチ12機が発注されて、1970年よりハリアー作戦転換訓練隊(1970年にHCTより改編)への配備が開始された。このうち最後の2機はペガサスMk.102を装備しており、T.2Aとなった。また1973年以降、ペガサスMk.103装備のハリアーT.4 14機、海軍向けのT.4N 3機が製作された。T.4の一部はGR.3と同様のレーザーノーズとなっており、これを取り外した機体はT.4Aと称される。またT.2/2Aも順次にT.4仕様に改装された[1]

ハリアーGR.3

ハリアー GR.3

1974年には、ハリアーGR.1を発展させたハリアーGR.3が12機発注された。これは機首を延長してフェランティ社のレーザー測距目標指示装置(LRMTS)を搭載するとともに、ARI.18223レーダー警報受信機(RWR)も搭載し、発電能力を12キロボルトアンペアに強化したものであった。1978年にも更に24機が発注され、また既存のハリアーGR.1も順次に同規格に改修された[1]

これらのハリアーGR.3は、1982年のフォークランド紛争で実戦投入された。当初派遣された第317任務部隊が擁する固定翼機は海軍のシーハリアーFRS.1艦上戦闘機20機のみであり、損耗に対する余裕がほとんどなかったために、空軍のハリアーGR.3が増援されることになったものであり、第1飛行隊のうち10機に対して下記のような改造が行われた[5]

航空母艦での運用への対応
塩害防止塗装や艦上での係留リングを追加した。また揺れ動く艦上でも慣性航法装置をセットできるように修正しようとしたもののこれは上手く働かず、ハリアーの航法は目測となった。
空戦用装備の追加
サイドワインダー空対空ミサイルの搭載・発射に対応するとともに、ガンポッドのうち1基を改造してブルーエリック電子妨害装置を搭載、また4機にはALE-40フレア・ディスペンサーを搭載。

第1飛行隊のハリアー9機は空中給油を受けながらアセンション島まで進出した。うち3機は同地の防衛のために拘置されたが、残り6機は、5月6日には「アトランティック・コンベアー」の仮設甲板に移動してフォークランド諸島に向けて出発し、5月18日には任務部隊と合流、空母「ハーミーズ」艦上に展開した。これによってハリアーGR.3が近接航空支援航空阻止を担当して、シーハリアーFRS.1は戦闘空中哨戒に注力できるようになった[5]

このような分担であったため、ハリアーGR.3は対空砲火での損耗が多く、5月21日・27日・30日に計3機を失って戦力が半減したが、6月1日・8日にアセンション島から空中給油を受けつつ2機ずつが飛来して戦力を補充した。またスタンリー外郭防衛線への攻撃の際にはレーザー誘導爆弾による攻撃が試みられたが、新装備であったために当初は命中率が低く、習熟して命中率が上がるまえに守備隊が降伏したために真価を発揮することはなかった[5]

その後、1987年より、大幅に設計を更新した第二世代ハリアーであるGR.5の引き渡しが開始されたことから、本機はこちらに代替されて、退役していった[6]

AV-8A/C

編隊を組み飛行するAV-8A
 
ヘリコプター揚陸艦から発艦するAV-8C

アメリカ海兵隊は、ケストレルの3ヶ国共同評価試験には参加していなかったものの、その後アメリカに持ち帰った機体を用いた評価試験には参加し、同機に注目していた。当時、海兵隊はベトナム戦争を戦っていたが、南ベトナム内で海兵隊が戦った戦闘の大部分が30分以内に勝敗が決しており、コールされてから10分以内に戦場上空に到達できるCAS機[注 4]は、海兵隊にとって理想的と考えられていた。ハリアーは、ヘリコプターの着陸ゾーン程度の場所があれば作戦可能で、150メートル程度の滑走路でも作ればペイロードを相当に増やせるうえに、ヘリコプター揚陸艦からの運用も可能であった[1]

まず1968年7月の英航空機製造協会 (SBAC) エアショーをアポ無し訪問した2人の海兵隊テストパイロットが試乗の約束を取り付けて、2週間経たないうちに操縦を開始し、数ヶ月後には能力に関するレポートを携えて帰国した。1969年初頭には正式なテストチームがイギリスを訪問して評価試験を実施、その報告を受けた国防総省は海兵隊のハリアー採用を承認し、9月30日には予算が議会を通過して、12月23日にはAV-8Aとして最初のバッチ12機が発注された。初号機は1970年11月に初飛行を行い、翌年4月に最初の飛行隊VMA-513を編成した[1]1972年1月から1974年6月にかけて、イオー・ジマ級強襲揚陸艦の「グアム」艦上に展開し、制海艦コンセプトのための評価試験を行った。そして1974年9月より、同艦にて作戦展開が開始された[7][注 5]

AV-8Aは社内呼称としてはハリアーMk.50とされており、基本的にはハリアーGR.1Aと同様の仕様である。エンジンは当初はペガサスMk.102(F402-RR-400)であったが、第2バッチ以降はMk.103(F402-RR-401/402)に換装された。また60号機以降は、航法システムを短距離作戦を重視した簡易型に変更した。射出座席も、当初はマーチンベイカー・タイプ9 Mk.1であったが、90号機以降は米国製のステンセルSIIIS-3となった。搭載兵装もアメリカ軍の制式装備に変更され、サイドワインダーの運用にも対応したが、30mmアデン砲は海兵隊のお眼鏡に適ったため、残された[1]。ただし当初、30mm砲弾を艦上に搭載することは許されず、陸上でしか補給できなかった[3]

海兵隊は、6回にわけて、102機のAV-8Aと、8機の複座型TAV-8Aを導入した。このTAV-8Aは社内呼称としてはハリアーT.Mk.54とされ、T.Mk.4に準じる機体にAV-8A後期型と同様のアビオニクスを組み合わせたものであった。この時マクドネル・ダグラス社はハリアーのライセンス生産権を獲得し国内製造を計画したが、採用数が110機と少なかったため実現しなかった。しかし、この契約が、後にマクドネル・ダグラス社の主導によって、ハリアーを全面的に改設計した発展型であるハリアー IIの開発へと繋がる素地になる[1]

このハリアーIIに繋がるAV-8A後継機の開発計画は1970年代には本格化するが、その戦力化までの中継ぎ措置として、1978年よりAV-8Aの近代化改修が開始された。これがAV-8Cで、飛行時間の延長やAN/ALR-45F RWRの搭載、AN/ALE-39チャフ/フレア・ディスペンサーの搭載、機上酸素発生装置 (OBOGS)、秘話装置付き通信装備の追加などが行われた。量産改修は60機が計画されたが、実際に改修されたのは47機で、1979年から1984年にかけて改修された。その後、ハリアーIIの配備に伴って1986年よりAV-8A/Cともに退役が開始され、AV-8Cは1987年2月、TAV-8Aも同年11月に運用を終了した[1]

AV-8S

スペイン海軍のAV-8S マタドール

1973年には、スペイン海軍がハリアーの採用を決定したが、当時イギリススペインのフランコ政権に対し武器禁輸政策を取っていたため、イギリスから直接購入するのではなく、米海兵隊向けのAV-8Aを購入するかたちとなり、単座型6機と複座型2機が発注された。これらは社内呼称としてはハリアーMk.55/T.Mk.58とされており、一旦アメリカへ引き渡されて訓練に使用された後、スペイン海軍に移管された。アメリカ側ではAV-8S/TAV-8Sと呼称されており、またスペイン軍機としての制式呼称はVA.1 (AV-8S) およびVAE.1 (TAV-8S)、ニックネームはマタドールとされた。またその後、1977年にはAV-8S 5機が追加発注された[1]

これらのハリアーは軽空母デダロ」「プリンシペ・デ・アストゥリアス」の艦上機として運用された。その後、1987年より、次世代のEAV-8B マタドールIIが就役を開始したことから、1996年10月、余剰になったAV-8S 7機とTAV-8S 2機がタイ海軍に売却された[1]。これらは軽空母「チャクリ・ナルエベト」の艦上機として運用されたが、老朽化や財政難に伴って、2006年に運用を終了した[9]

シーハリアー

シーハリアー FRS.1

1966年度国防白書ではCVA-01級航空母艦の計画中止も決定されており、イギリス海軍は将来的に正規空母を手放さざるを得ない事態に直面して、1969年頃から、新しい対潜巡洋艦でのハリアーの運用についての検討に着手した。1970年から1971年にかけての検討を経て、全通甲板巡洋艦(Through Deck Cruiser, TDC; 後のインヴィンシブル級)の排水量が1万8750トンにまで大型化したことで、ハリアーの搭載計画が本格的に推進されることになった。1973年に1番艦「インヴィンシブル」が発注された時点で、海軍本部では既に艦隊航空隊 (FAA) 向けハリアーの要求事項を作成していたものの、同年の第四次中東戦争に伴う石油価格高騰の煽りを受けて、実際の発注は1975年となった[10]

まずハリアーGR.3をもとに、視界を改善するとともにブルーフォックス・レーダーを搭載、また兵装を変更するなど、艦上戦闘機として再設計したシーハリアーFRS.1が開発された。これはハリアーGR.3とともにフォークランド紛争で実戦投入されたが、空対空戦闘では被撃墜ゼロという偉業を達成し、また可動率も高く、高い評価を受けた。しかしレーダーのクラッター抑制能力の不足と視程外射程ミサイル運用能力の欠如が課題として指摘されたことから、レーダーをブルーヴィクセンに換装するなどした発展型のシーハリアーFA.2が開発され、既存のFRS.1から改装されたほか、新規製造も行われた。しかし、これらも、機体構造としては第一世代ハリアーの系譜に属しており、新型エンジンへの換装などのアップデートにはかなりの困難が伴うことから、2006年までにシーハリアーFA.2の運用は終了した[11]

なおインド海軍も、空母「ヴィクラント」搭載のホーカー シーホーク艦上戦闘機の後継機としてシーハリアーFRS.51を導入し、1983年より受領を開始した。これはFRS.1とほぼ同規格だったが、空対空ミサイルはアメリカ製のサイドワインダーではなくフランス製のマジックに変更されていた。また2006年からはレーダーをイスラエル製のEL/M-2032に換装し、ラファエル社のダービー空対空ミサイルの運用にも対応しており、インド軍は「インド洋で最良の空母対応型防空戦闘機」と称した。しかしやはり老朽化が進み、母艦となる「ヴィラート」の退役にあわせて、2016年に運用を終了した[11]

バリエーション一覧

複座練習機型のTAV-8A ハリアー
ハリアー GR.1
初期生産型。エンジンペガサス Mk.1011966年初飛行。78機生産(先行量産型を除く)。
ハリアー GR.1A
エンジンをペガサス Mk.102に換装したGR.1。
ハリアー T.2
イギリス空軍向けの複座練習機型。12機生産。
ハリアー T.2A
GR.1Aと同様にエンジンを換装したT.2。
ハリアー GR.3
レーザーセンサーの追加により機首が伸び、ペガサス Mk.103へのエンジン換装が行われた。40機が新造され、GR.1/1Aもこの仕様に改修された。
ハリアー T.4
GR.3と同様にエンジンを換装したT.2/2A。14機を新造。一部はGR.3と同様の機首となり、後にそれを取り外した機体はT.4Aと呼ばれる。
ハリアー T.4N
イギリス海軍向けのT.4。シーハリアー FRS.1のパイロット訓練用。3機生産。なお、空軍からの貸与機はT.4(N)/4A(N)と呼ばれる。
ハリアー T.8
シーハリアー FA.2のパイロット訓練用にアップグレードされたT.4N。
ハリアー T.52
ホーカー・シドレー社のデモンストレーション用社有機。1機生産。
AV-8A ハリアー
アメリカ海兵隊向けのGR.1A。社内名ハリアーGR.50。エンジンは当初ペガサス Mk.102だったが、第2パッチ以降はペガサス Mk.103を搭載した。102機生産。
TAV-8A ハリアー
アメリカ海兵隊向けのT.4。社内名ハリアーT.54。8機生産。
AV-8C ハリアー
ハリアー IIが完成するまでの繋ぎのため、AV-8Aをアップグレードしたモデル。
AV-8S マタドール
AV-8Aのスペイン海軍向け。社内名ハリアーGR.55。11機生産。
TAV-8S マタドール
スペイン海軍向けのTAV-8B。社内名ハリアーT.58。2機生産。
ハリアー T.60
インド海軍向けのT.4N。シーハリアー FRS.51のパイロット訓練用。4機生産。

ハリアー発展系統図

試作・計画
 
 
 
P.1127
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ケストレス / XV-6A
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(P.1154)
 
 
 
 
 
 
第1世代
 
 
 
 
 
ハリアーGR.1
 
AV-8A 00AV-8S00
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハリアーGR.3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
AV-8C
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シーハリアーFRS.1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シーハリアーFA.2
 
 
 
 
 
 
 
第2世代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
YAV-8B
 
 
 
 
 
 
 
 
ハリアーGR.5
 
AV-8B
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハリアーGR.7
 
AV-8B(NA)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハリアーGR.9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
AV-8B+

要目(ハリアー GR.3)

出典: Taylor, John W. (1974). Jane's All the World's Aircraft 1974-75. Key Book Service. pp. 212-214. ISBN 978-0354005029 

諸元

性能

  • 最大速度: マッハ1.3 (降下時) / 640ノット (低高度・EAS)
  • フェリー飛行時航続距離: 3,760 km
  • 実用上昇限度: 15,240 m (50,000 ft)
  • 上昇率: 6,860 m/秒
  • Gリミット:+8G、-3G

武装

使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

採用を検討した国

オーストラリア
ブラジル
スイス
日本
1970年8月、ポーツマスを訪れた練習艦かとり」の上空でGR.1がデモフライトを行った経緯がある。ヘリコプター甲板への着艦も検討されたものの甲板強度が不明で中止され、かわりにトニー・ホークスの操縦でホバリングし、オリエンタル式の御辞儀を披露してみせた[12]

登場作品

脚注

注釈

  1. ^ 強い横風に対する機首方位維持には有効であるため、ヨーイングを制御する目的でラダー、エルロンの操作を要する
  2. ^ こうした制約のため、ホバリング継続は約60秒程度に制限されている。ただし、この時間制限は非常にシビアな使用環境(極端な高温多湿など)を想定したものであり、現実的な環境ではもう少し使用時間は延び、実際、エアショーなどでは5分程度のホバリングが演技されている。
  3. ^ アメリカ海兵隊のAV-8Aのフライトマニュアルには、高度30ft以下でのホバリング中、舗装をしていない部分から舗装部分に水平移動した時に重さ11トンの舗装マットを4フィート(約1.2 m)吹き上げたという警告が記載されていた[3]
  4. ^ close air support近接航空支援
  5. ^ 1976年から1977年にかけての「フランクリン・D・ルーズベルト」の最後の航海では、海兵隊のAV-8A飛行隊の空母上への展開も試みられた。しかし分秒単位で綿密に進行する艦上の発着艦作業のなかで、垂直着陸という異質な動きをするハリアーを組み込むことは、作業の流れを乱すことが判明し、以後、空母航空団にハリアーが加わることはなかった[8]

出典

参考文献

  • 石川潤一「「ミッドウェー」級の搭載機 (特集 米空母「ミッドウェー」級)」『世界の艦船』第776号、海人社、92-95頁、2013年4月。 NAID 40019596488 
  • 大塚好古「空母「チャクリ・ナルエベト」(タイ) (特集 アジアの空母レース)」『世界の艦船』第919号、海人社、93頁、2020年3月。 NAID 40022144381 
  • 田村俊夫「ハリアー空戦記」『ハリアー / シーハリアー』文林堂〈世界の傑作機 No.111〉、2005年、84-89頁。 ISBN 978-4893191274 
  • 松崎豊一「第一世代ハリアー、その開発と各型」『ハリアー / シーハリアー』文林堂〈世界の傑作機 No.111〉、2005年、18-33頁。 ISBN 978-4893191274 
  • 松崎豊一「Harrier & Sea Harrier in Action」『ハリアー / シーハリアー』文林堂〈世界の傑作機 No.111〉、2005年、72-83頁。 ISBN 978-4893191274 
  • 山内秀樹「AV-8A OPERATION - フライトマニュアルから読み解くハリアーの発進から帰還まで」『ハリアー / シーハリアー』文林堂〈世界の傑作機 No.111〉、2005年、54-71頁。 ISBN 978-4893191274 
  • Calvert, Denis J. (2019). “シーハリアーの開発と運用”. BAe シーハリアー. 世界の傑作機 No.191. 文林堂. pp. 34-53. ISBN 978-4893192929 
  • Polmar, Norman (2006). Aircraft Carriers: 2. Potomac Books Inc.. ISBN 978-1574886634 
  • Lambert, Mark (1991). Jane's All the World's Aircraft 1991-92. Jane's Information Group. ISBN 978-0710609656 

関連項目

外部リンク


シーハリアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 14:12 UTC 版)

ホーカー・シドレー ハリアー」の記事における「シーハリアー」の解説

詳細は「BAe シーハリアー」を参照 1966年度国防白書ではCVA-01級航空母艦計画中止決定されており、イギリス海軍将来的正規空母を手放さざるを得ない事態直面して1969年頃から、新し対潜巡洋艦でのハリアー運用について検討着手した1970年から1971年にかけての検討経て全通甲板巡洋艦(Through Deck Cruiser, TDC; 後のインヴィンシブル級)の排水量18,750トンにまで大型化したことで、ハリアー搭載計画本格的に推進されることになった1973年に1番艦「インヴィンシブル」が発注され時点で、海軍本部では既に艦隊航空隊FAA)向けハリアー要求事項作成していたものの、同年第四次中東戦争に伴う石油価格高騰煽り受けて実際発注1975年となった。 まずハリアーGR.3をもとに、視界改善するとともにブルーフォックス・レーダー搭載、また兵装変更するなど、艦上戦闘機として再設計したシーハリアーFRS.1が開発された。これはハリアーGR.3とともにフォークランド紛争実戦投入されたが、空対空戦闘では被撃墜ゼロという偉業達成し、また可動率高く高い評価受けた。しかしレーダークラッター抑制能力の不足と視界外射程ミサイル運用能力欠如課題として指摘されたことから、レーダーをブルーヴィクセンに換装するなどした発展型のシーハリアーFA.2が開発され既存のFRS.1から改装されたほか、新規製造行われた。しかし、これらも、機体構造としては第一世代ハリアー系譜属しており、新型エンジンへの換装などのアップデートにはかなりの困難が伴うことから、2006年までにシーハリアーFA.2の運用終了した。 なおインド海軍も、空母ヴィクラント搭載ホーカー シーホーク艦上戦闘機後継機としてシーハリアーFRS.51導入し1983年より受領開始した。これはFRS.1とほぼ同規格だったが、空対空ミサイルアメリカ製サイドワインダーではなくフランス製のマジック変更されていた。また2006年からはレーダーイスラエル製のEL/M-2032換装し、ラファエル社のダービー空対空ミサイル運用にも対応しており、インド軍は「インド洋最良空母対応型防空戦闘機」と称した。しかしやはり老朽化進み母艦となる「ヴィラート」の退役あわせて2016年運用終了した

※この「シーハリアー」の解説は、「ホーカー・シドレー ハリアー」の解説の一部です。
「シーハリアー」を含む「ホーカー・シドレー ハリアー」の記事については、「ホーカー・シドレー ハリアー」の概要を参照ください。

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