貿易史
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近世・近代
ヨーロッパが大航海時代の航路開拓によってアフリカ、アメリカ、アジアへの貿易に進出する。輸出作物のためのプランテーションや、多国間による三角貿易も発達した。世界各地にヨーロッパの植民地が建設されて、原料の輸入や製品の輸出先として利用された。産業革命後はアメリカや日本も進出をはかり、世界規模での貿易圏の対立を招いた[209]。
ヨーロッパ
重商主義
貿易が国家の繁栄に重要であるという認識は、イタリア諸都市の伝統として古くからあり、イエズス会司祭ジョヴァンニ・ボッテーロによる『国家理性論』、フィレンツェ共和国の外交官ニッコロ・マキャヴェッリによる『リウィウス論』や『君主論』にも見られる。こうした思想はヨーロッパ各国の君主、政治家、商人によって16世紀以降に顕著となり、重商主義と呼ばれた。貿易での優位は国内の利益や雇用につながると考えられ、そのための政策として、貿易ルートの開拓、海軍力、工業化の促進などが推進された。中でも領土や人口においては小国であるオランダ共和国が、貿易と金融でおさめた成功は各国で注目された。イングランドの外交官ウィリアム・テンプルは、商人の国は農民の国よりも豊かであると論じ、非国教徒も受け入れるオランダの国制を成功の原因の一つとした。東インド会社の役員もつとめたトーマス・マンは『重商主義論』で貿易が国家の利益につながるとして、商人を称賛した。大陸ヨーロッパ諸国ではフランスのブルボン朝のコルベールが産業育成と輸出奨励策をとり、輸入代替政策をはかったが、これは密輸の増加も招いた[210]。ロシア帝国はピョートル1世の時代から重商主義政策をとり、北方のアルハンゲリスクにかわる貿易拠点としてサンクトペテルブルクが建設され、バルト海と内陸の流通が促進される。エリザヴェータの時代には大臣のピョートル・シュヴァーロフが国内関税を廃止して商業を奨励し、富裕貴族を企業活動へ引き込んだ[211]。重商主義は、のちのアメリカ合衆国におけるアメリカ・システムなどの経済政策にも影響を与えた[212]。
北西ヨーロッパ都市
ネーデルラント地方には各地から商人が集まり、ハンザ都市やスペインの他にイタリアの都市とも結びつきを強めた。ブリュージュは14世紀からジェノヴァやヴェネツィアと取り引きが盛んになる。イタリアの商船はミョウバン、染料、ワインを下ろしてイギリスの羊毛や毛織物を地中海へ運び、メディチ家もブリュージュに拠点を置いた。ポルトガルが西アフリカで入手した象牙、金、砂糖もブリュージュへ運ばれた。ヨーロッパで砂糖の消費が増え、大西洋で行われる砂糖貿易のひな型が15世紀にはできあがっていた。ブリュージュはハプスブルク家との対立で衰退して、かわってアントウェルペンがケルンの商人を介してイギリス産の毛織物を扱って急成長する。やがてポルトガルはアフリカを周回してインド洋の香辛料を直接運べるようになり、アントウェルペンは地中海を介さずに香辛料を扱ってさらに発展した。アントウェルペンはポルトガルの商館をはじめ外国人を積極的に招き、16世紀に最盛期を迎える[213]。
16世紀後半にはスペイン・ハプスブルク朝がプロテスタント弾圧を強め、アントウェルペンが陥落する。現地の商人たちは、アムステルダム、ロンドン、ハンブルクへ移住した。そのため3つの都市は貿易や金融で類似点を持ち、ときには補完関係やリスク分散を行いつつ繁栄した。アムステルダムは、スペインやポルトガルの異端審問を逃れて移住したユダヤ人の資金も流入して、金融技術の発達にともなってヨーロッパの金融センターとなる[214]。法学者グロティウスが公海と自由貿易を論じた『自由海論』も、この時代に書かれている[注釈 16][215]。
ハンブルクは大陸ヨーロッパにおいてアムステルダムに次ぐ港湾都市となり、16世紀から18世紀にかけて中立都市として栄え、他の都市が交戦中でも各国と貿易を行っていた。西ヨーロッパで開催されていた大規模な国際定期市は次第に内陸へと移り、ライプツィヒやフランクフルトのように見本市として存続する場合もあった[216]。ロシアではマカリエフの定期市やニジニ・ノヴゴロドの定期市で、毛皮、茶、絹といったヨーロッパとアジアの物産が集められた[217]。
貿易会社
共同資本で貿易を行う貿易会社が増え、その中には特別許可状を受けて貿易を行う勅許会社が現れた。1555年のモスクワ会社がイギリス初の勅許会社となり、モスクワ大公国との貿易を独占した。東インド会社は各国で設立されて、イギリスでは1600年にイギリス東インド会社が設立された。オランダでは、ジャワ島のバンテン王国との往復や、新航海会社のモルッカ諸島到着に影響されて会社が林立し、それらを統合してオランダ東インド会社の設立となる。オランダ東インド会社の資本金は、イギリス東インド会社の約10倍の開きがあった[注釈 17]。当時の会社は航海ごとに組織される当座企業であり、イギリス東インド会社も初期は当座企業としての面があったため、オランダ東インド会社が世界初の株式会社と言われている[218][219]。
オランダ東インド会社は、北アメリカ、ジャワ島、インド西岸、台湾、日本などに進出する。ポルトガルの貿易とは異なり布教は目的としておらず、ポルトガルに代わって長崎貿易を行うようになり、貴金属を得て莫大な利益を上げた。一方、イギリス東インド会社はインド、マラッカ、中国へと進出する。毛織物の輸出も計画していたが、アジアではヨーロッパの商品は人気がなく、東南アジアの香辛料、インドの綿織物、中国の茶などによって輸入超過が続く。こうした状況を変えるために、インドの植民地化やアヘン貿易が行われた[218]。アフリカやアメリカ進出のための勅許会社としては、イギリスでは王立アフリカ会社、南海会社、イギリス南アフリカ会社などがあった。アフリカでの勅許会社は40社以上にのぼったが、多くは巨額の赤字を出して撤退して、国家による植民地支配が始まった[220]。また、イギリスの南海会社やフランスのミシシッピ会社は投機の流行と混乱の引き金にもなり、南海泡沫事件はバブル経済の語源となった。
大規模な勅許会社は植民地政府のような役割を果たし、中でもインドにおけるイギリス東インド会社と、ジャワ島におけるオランダ東インド会社は顕著だった。プラッシーの戦い以降のイギリス東インド会社は、ムガル帝国のインドでディーワーニーと呼ばれる徴税権を得て地税収入を入手できるようになる。18世紀から19世紀にかけてインドで財を成した者はネイボッブと呼ばれた[注釈 18][221]。
貿易と国際秩序
ヨーロッパは、大規模な国際戦争である30年戦争をへて、1648年からヴェストファーレン条約のもとで勢力均衡がはかられる。この条約によって各国には領土権や法的主権、内政不可侵が定められた。勢力均衡の時代には、スコットランドの思想家デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミスらが協調や商業による国家の結びつきを重視しており、これはマキャヴェッリやトマス・ホッブズの政治思想とは異なるものだった。ヒュームは1758年に『貿易の嫉妬について』を書き、貿易による相互利益にもとづく国家の関係を論じた。スミスやリチャード・コブデンは、国際関係において戦争ではなく貿易を優先することを提唱した。スミスは1776年の『国富論』で、隣国の経済的な繁栄は敵対状態ならば危険でも、平和で貿易が行える状態においては自国の繁栄につながると論じた[222]。コブデンは、自由貿易によって軍備の縮小と平和がもたらされると論じた[223]。
大西洋
大西洋貿易がスペインやポルトガルを中心としてメソアメリカや南アメリカで進み、ヨーロッパ各国がカリブ海や北アメリカへの植民を始める。北アメリカの植民地とイギリスの対立は、アメリカ合衆国の独立にもつながった。
作物や家畜と貿易
アメリカからの作物はトウモロコシ、ジャガイモ、キャッサバ、サツマイモ、トマト、カボチャ、落花生、トウガラシ、カカオ、タバコ、ゴムなどが運ばれた。ヨーロッパからの作物ではサトウキビ、コーヒー、バナナ、麦、タマネギ、コショウ、ブドウ。家畜では牛、馬、羊、山羊、豚、ロバが運ばれた。
中でもサトウキビは大きな影響を与えることになる。サトウキビは東南アジアから西方へもたらされ、イタリア商人やイスラーム商人が地中海のキプロス、クレタ、シチリアなどで栽培した。しかし熱帯性であるため地中海では育ちが悪く砂糖は貴重で、15世紀にポルトガルが大西洋で砂糖を産して優位に立つ[注釈 19]。スペインはカナリア諸島でサトウキビ農園を建設して、1493年のコロンブスの第二次航海ではカナリア諸島からのサトウキビが運ばれ、サント・ドミンゴでアメリカのサトウキビ栽培が始まった。トウモロコシは南ヨーロッパのイベリア半島、イタリア、バルカン半島で栽培され、アフリカやアジアへ伝わる。ジャガイモは北ヨーロッパのフランス、ドイツ、ポーランド、アイルランド、ロシアへ広まり、特にアイルランドでは主食となった[1]。
奴隷貿易
大西洋は、奴隷貿易が歴史上で最も盛んに行われた。大西洋の奴隷貿易が増加するきっかけは、サトウキビの栽培と関連がある。アメリカ大陸でサトウキビのプランテーションが始まると、大量の労働力が必要とされ、1501年には大西洋を横断する奴隷貿易が始まる。ポルトガルはすでに1486年にリスボン奴隷局を設立して、奴隷商人に貿易許可証を発行していた。スペインは貿易の請負契約であるアシエントを商人や外国と結び、奴隷商人は1545年から1789年にかけてアシエントの契約料と税金を納めて奴隷貿易を行った。1642年以前はスペインとポルトガルが主導して、次にオランダ、フランス、イギリス、デンマーク植民地帝国、スウェーデン、ハンザ都市もこれに続いた[224]。
海流と風向きによって2つのルートがあった。赤道北部のルートはヨーロッパを拠点として、コンゴ川の北部と北アメリカ、カリブ地方、リオ・デ・ラ・プラタを結び、イギリスが主導した。南大西洋のルートはブラジルを拠点として、西アフリカや中部アフリカとブラジルを結び、ポルトガルが主導した。運ばれる人間の数は、人間の価格の上昇につれて増加した[225]。16世紀中期のポルトガルのリスボンでは人口10万人のうち10パーセントが奴隷であり、スペインのセビリヤでは人口8万5000人のうち8パーセントが奴隷だった[226]。運ばれたアフリカ人の総数は推定1250万人とされており、生きてたどり着けなかった者を含めると、さらに多数となる。運んだ数ではポルトガルが最多であり、17世紀にはスペイン領アメリカのペルー副王領とポルトガル領ブラジルに奴隷の多くが運ばれ、18世紀からはイギリス領カリブ、ブラジル、フランス領カリブの順となる。西アフリカからアメリカ大陸までの航海には40日間から70日間かかり、航海中の死亡率は8パーセントから25パーセントに及び、死亡率が最も高かったのは、距離が長い北アメリカへの航路だった。奴隷となったアフリカ人には戦争捕虜や犯罪者、奴隷狩りの犠牲者が多く、17世紀以降は奴隷獲得のための戦争を行うアフリカの国家もあった。18世紀以降は女性の割合が増えて男性2人につき女性1人となり、最後の60年間は子供の割合が2倍になった[227]。
奴隷制と三角貿易
16世紀からは三角貿易と呼ばれる手法が活発となった。ヨーロッパの産物を積んだ船がアフリカで奴隷を取り引きして、奴隷を積んでアメリカ大陸へ運ぶ。そしてアメリカ大陸のプランテーションで作った砂糖、コーヒー、綿花、タバコを積んでヨーロッパへ帰るというサイクルである。一巡するには1年半から2年間かかり、三角貿易を行った各国は莫大な利益を得た[227][228]。
スペイン領では17世紀から18世紀にかけてメソアメリカのカカオが重要となり、19世紀にはカリブ地方の砂糖貿易がブラジルを上回るようになり、キューバからの砂糖が急増する。ポルトガル領では18世紀末からの砂糖とコーヒーの需要増加により、ブラジルの奴隷貿易は19世紀半ばまで最盛期を維持した[注釈 20][229]。
北アメリカの大西洋貿易は、17世紀や18世紀にイギリス、フランス、オランダによって盛んとなった。イギリスは北アメリカ植民地でタバコや綿花のプランテーションを行った。北海やバルト海に比べると広大な大西洋では軍事力による貿易ルートの保護が重要となり、イギリスが有利となった。イギリスやアメリカの奴隷による記録は、奴隷体験記という文芸も生み出した[注釈 21][231]。
奴隷貿易の禁止は、1792年にデンマークで違法とされたのをはじめとして、イギリスでは1807年の奴隷貿易法で違法となった。最後の環大西洋奴隷貿易の船は、1867年キューバに停泊した船とされている。しかし、ヨーロッパ各国の禁止後も密輸は続き、奴隷制度そのものが廃止されるまでには、さらに時間がかかった[232]。
インド洋、ペルシア湾
インド洋は、大西洋のように艦隊で海域支配を求める国が長らく存在しなかった。内陸に基盤をもつ国は海上貿易には関税以外の干渉は少なく、海岸沿いの港市国家も商人を呼び込むために干渉を避けていた[233]。インド洋ではモンスーンを利用した貿易が行われ、東部からは東南アジアの香辛料[注釈 22]、西部からはアラビア半島・東アフリカ・ペルシャの産物[注釈 23]、インドからは綿織物(キャリコ)が運ばれた[234]
ヨーロッパの香辛料貿易進出
前述の状況の中、ヨーロッパ諸国が16世紀以降に香辛料貿易に進出をはじめる。最初に大規模な介入をしたのは、アフリカ南端からインド洋へのルートを開拓したポルトガルだった。ポルトガルはインド洋へ艦隊を派遣して、1509年のディーウ沖の海戦で、インドのグジャラート・スルターン朝とエジプトのマムルーク朝を破った。ポルトガルは1509年にはゴア、1510年にはホルムズやマラッカなど重要な港を占領して貿易ルートを確保して、香辛料貿易において優位が明らかとなった[235]。ポルトガルはインド洋貿易圏に変化をもたらし、カルタスという通行証を発行した。インド洋貿易の船は、ポルトガルに関税を納めてカルタスを受けとる必要があり、持たない場合は拿捕された[236]。
ポルトガルののちに、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が香辛料貿易を支配する。香辛料は大量にヨーロッパへ輸出されるようになり、1670年頃のコショウ需要が720万ポンドであるのに対して、オランダとイギリスは2倍近い量を運んだ。こうしてコショウ価格は下落して、ほかに利益の出る商品として、サトウキビ、コーヒー、ゴムなどのプランテーション作物の栽培が始まる[24]。
太平洋
マニラとガレオン貿易
ポルトガルがアフリカ周回ルートで東南アジアを目指したのに対して、スペインは太平洋を横断して東南アジアへ到達した。1570年にスペイン船が到着した時のマニラはフィリピン諸島の交易中心地で、マレー系のイスラーム教徒でスペインにモロ人と呼ばれた人々のマニラ王国があり、華僑も住んでいた。スペインはマニラ王国の王であるラジャ・ソリマンを殺害して、1571年からマニラとアカプルコを結ぶ定期航路を始める。アメリカからはポトシで採掘された銀を運び、福建から運ばれた絹や陶磁器、香辛料をマニラで買い付けた。太平洋の横断には2、3カ月かかり、帰路はさらに長くかかった。輸送には大型帆船のガレオン船を用いたためにガレオン貿易とも呼ばれ、ジャンクより積載量に優れる反面で海難による損失も大きかった。ガレオン貿易の影響で、スペイン人に生活物資を売る華僑が急増して、スペイン人からサンレイと呼ばれた。定住した華僑により中国系のメスティーソも増え、17世紀初頭には、マニラが中国船寄港地として最大の華僑人口を抱えた。華僑の居住地はタガログ人にパリアンと呼ばれた[注釈 24]。崇禎帝による海禁復活とガレオン船の海難が重なって貿易が不振になると、マニラでは治安が悪化して、スペインによる華僑の大量殺害も起きた[238][237]。
契約年季労働
トウモロコシ、サツマイモ、落花生、タバコが中国に輸入されて栽培が進むと、江南は人口増となり、台湾、タイ、ジャワへの移住が起きる。1830年代からの1世紀で華僑は激増して、それまでの商人である華商から、華工の割合が増加した[239]。一方で、アフリカでの奴隷貿易の禁止が進み、各国では労働力の不足をおぎなう方策が求められるようになる。こうして天津条約や北京条約ののちは、1860年代から移民が急増した。1840年代から1870年代には移民がカリブ地方、南北アメリカ、ハワイ、アフリカに向かい、蒸気船の実用化も輸送に拍車をかけた。清からの移住者は苦力とも呼ばれ、1866年には清とイギリス・フランスのあいだで華工移民協定が結ばれ、契約移民となった[240]。インド系移民も多数にのぼり、同様のルートで各地のプランテーションで働いた。契約年季労働者は200万人以上にのぼり、旅費と引き換えに5年間の労働契約を結んだ。白人の労働者には土地が割譲されることがあったが、中国人やインド人は帰国させられた。奴隷制の代わりとして過酷な労働につかされたため、契約期間を全うできない者も多く、1920年代には中国とインドで契約年季労働が禁止された[241]。
契約年季労働の初期には、強引な手段や暴力で人集めをする業者もおり、そのような行為はブラックバーディングと呼ばれた。ブラックバーダーは中国や太平洋各地から人間を集めて島々や南米のプランテーションに送り、地域が荒廃するほど多数の住民が連れ去られた島もあった。契約年季労働を終えた者が持ち帰る財は現地で大きな価値を持ち、欧米の財を入手するために契約労働を始める者もいた[注釈 25][242]。
オセアニア
オセアニアでは根菜農耕、樹木の栽培、漁労や採集を生業にしつつ、島嶼間の航海技術を発達させた。15世紀までには、人類はオセアニア全域に広がっていた。オーストラリアのアーネムランドでは、17世紀からスラウェシ島民とアボリジニが協力してナマコの加工を行い、ヨーロッパ人に輸出した。スールー海ではタオスグ人がナマコ貿易でヨーロッパから銃器やアヘンを入手し、ナマコ漁には島嶼部で捕らえられた奴隷が従事していた。19世紀にはメラネシアでヨーロッパ向けの白檀の伐採と輸出が盛んになり、乱伐で白檀が枯渇するとナマコの輸出が始まる。フィリピンからフィジーに乾燥ナマコの製造法が伝わり、ナマコの対価として銃器が輸入されたため抗争が激化した[243]。
18世紀末から鯨油を得るための捕鯨が盛んになり、太平洋諸島は捕鯨船の補給基地となる。19世紀に日本沿岸が捕鯨場として有名になり、アメリカは捕鯨船の補給のために江戸時代の日本に来航し、江戸幕府の開国につながった。鯨油産業ののちにはオイル用のココナッツ、サトウキビ、グアノの蓄積によるリン鉱石の輸出がなされる[243]。
産業革命
近代的な工場は、アメリカ大陸のプランテーションの砂糖工場から生まれた。サトウキビから砂糖を作るには迅速な作業が必要であり、プランテーションの奴隷労働者の1割ほどは工場労働をしていた。収穫後から精製までの時間を短縮するために、時間管理も厳しく行われていた[244]。ヨーロッパにおいては、初期の工場労働者は農民からではなく手工業者から雇われていた[245]。
産業革命の条件には、工業原料の調達や製品の輸出をするために国境を越える物流が不可欠であり、最も早く整えたのはイギリスだった。イギリスは石炭資源に恵まれたほか、統制経済政策で貿易の管理を強めた。1651年から航海条例を発布してイングランドの貿易をイングランド籍の船にかぎり、大西洋やヨーロッパで競争相手であったオランダ船を排除した。イギリスの保護主義政策は1690年から顕著となり、毛織物産業を保護するために関税がかけられ、原毛の輸出が禁止されて、国内の利害対立も起こした。イギリスは戦費の負担が大きく、公共支出の増大は間接税と国債発行を呼び、近代的な中央銀行の確立につながる。海軍への出費は需要増にもなり、1750年代から工業化を後押しした[246]。
イギリスでは綿織物業、鉄鋼業、造船業、海運業などの急速に発展をしていた分野は増税されず、産業の成長をうながした。綿織物が世界市場へ輸出され、18世紀末から19世紀初頭にかけて輸出額が2倍以上に上昇した。1789年のフランス革命からナポレオン戦争へと続く混乱と戦争は大陸諸国の経済に打撃を与えたが、本土が戦火から離れていたイギリスには結果的に利益を与えた。フランス帝国は大陸封鎖令でイギリスとの貿易を禁じたものの、これはフランスの同盟国の反発を招いた[210]。
自由貿易
工業化と植民地の拡大は産業資本家、商人、投機家だけでなくイギリス国民に支持され、自由貿易が推進された。東インド会社のような特権を持つ企業は、自由貿易を支持するアダム・スミスによって批判された。その一方で他国からは、イギリスが自由貿易を進めるのは強い経済力を背景とした利己的な政策であると批判された。また、イギリスはいち早く工業化を達成した地位を利用して他国を搾取しているという意見も存在した[247]。ナポレオン戦争が終わる1815年には、物流ではハンブルクとロンドンの競争でロンドンの優位が明らかとなり、金融ではアムステルダムとロンドンの競争でロンドンが優位となった[248]。ナポレオン戦争中は食料品が値上がりをして地主の利潤が大きく、戦後も高値を保つために地主の働きかけで穀物法が制定されると、経済学者デイヴィッド・リカードはこの法律に反対し、リチャード・コブデンやジョン・ブライトは反穀物法同盟の運動を行う。やがて穀物法や航海条例など保護貿易のための法律は廃止された[249]。1860年には、イギリスとフランスの2国間通商条約としてコブデン=シュヴァリエ条約が結ばれる。大陸ヨーロッパでは自由貿易がイギリスに利益を与えるものと考えられたが、実際には大陸からのイギリスへの工業製品の輸出は増加しており、イギリスは貿易赤字国となっていた。イギリスの赤字は、植民地のインドによってまかなわれた[250]。
交通と通信の発達
ナポレオン戦争後のウィーン体制に入ると、産業革命がイギリス以外の各地でも進行する。鉄道建設はイギリスにおいて発達し、各地へ広まった。鉄道には大規模で長期的な投資が必要となり、紡績工場や炭鉱などの事業で資金を手にしていた投資家によって解決された。鉄道や運河など交通機関の整備にともない、ヨーロッパ域内の物流が活発となった[31]。
1844年にアメリカのサミュエル・モールスが実用化した電信はイギリスで急速に広まり、1851年にはドーバー海峡の海底ケーブルをきっかけに世界各地で敷設が進められ、1866年には大西洋、1902年には太平洋も横断した。電信によって取引にかかる時間が短縮され、商慣行の統一が進み、物流が改善されていった。イギリスの電信会社は1870年から国有化され、植民地の統治にも効率化をもたらした。交通機関は1850年代から帆船にかわって蒸気船の利用が増加し、通信技術とともに貿易の速度を高めた。船舶と鉄道は1870年から1910年にかけて急増して、世界の商船は1600万トンから3200万トンになり、鉄道は20万キロメートルから100万キロメートルとなった[251]。1869年のスエズ運河で地中海と紅海がつながり、1914年にはパナマ運河が開通して太平洋とカリブ海がつながる。交通と通信の発達によって、移民も増加した[248]。資源貿易も大きな変化をとげる。電信や電機工業では銅が必須であり、ペルー、チリ、ザイール、ザンビアといった銅産出国の輸出が増加した。蒸気機関の次に内燃機関が実用化されると、石油とゴムの消費が増えた[252]。
植民地と門戸開放
産業革命により、工業原料の輸入や製品の輸出が求められるようになる。工業化をすすめる国々では、資源や輸出のための地域獲得を行った。地球の表面積の約40パーセントが、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、アメリカ合衆国、日本の植民地、保護領、委任統治領となった[253]。
植民地の貿易は、宗主国の都合に合わせて整えられた。インフラストラクチャーは宗主国が求める産業に優先され、農業は換金作物が多くなり、食料自給率が低くなる。工業では宗主国から製品が輸入されて、宗主国が必要としない製造業の発展が遅れたり、宗主国と競合する産業が衰退した。技術者、経営者、官僚は宗主国の者が多く、現地出身の人材が不足する。こうした問題が最も深刻となったのが、アフリカであった[254]。
植民地の獲得は、各国の保護貿易による競争や対立と結びつく。アフリカやアジアは数カ国によって分割されるか、門戸開放政策で競争が激化して武力衝突も起きた。アフリカはベルリン会議により分割され、中国をめぐっては欧米と日本の対立へとつながった[255][256]。
南アジア、東南アジア
インド
ムガル帝国時代のインドの海上貿易は16世紀から18世紀にかけてスーラトを中心とした。スーラトでは多様な集団が活動し、住民の大半はバニヤーと呼ばれるヒンドゥー教徒やジャイナ教徒で、他にアルメニア人やユダヤ人、ボーホラー派もおり、行政官はイスラーム教徒が多く、さらに各国の東インド会社の商館も置かれた[150]。インドの綿織物は名産としてカリカットからヨーロッパへ輸出されるようになり、港の名前をとってキャラコと呼ばれた。国内では、ペートと呼ばれる市場町の建設が相次いだ。都市のペートは大商人や役人、村のペートは村長や商人が政府に求めることで建設された[注釈 26][258]。ムガル帝国の時代にはイギリス東インド会社が商館を増やしてゆき、香辛料にかわってキャラコを扱い、イギリスでのキャラコの人気は、キャラコ熱とも呼ばれる現象を起こした。インドは17世紀まで綿工業や絹工業の中心地であったが、イギリス東インド会社の進出で産業を破壊される[注釈 27]。この影響で、インド綿業の中心だったダッカは19世紀までに人口が70パーセント減少した。こうしてインドは織物用の綿花や絹、紅茶、コーヒーなどの一次産品や、中国向けのアヘンを輸出する地域へと変えられる[259]。1813年の特許状法で東インド会社の独占体制が崩れて自由貿易が推進されると、東インド会社はインド植民地の統治機関へと変化する。1857年のインド大反乱ののちに東インド会社は解散して、イギリス領インド帝国が成立した[260]。
19世紀後半のイギリスは、北米やヨーロッパに貿易赤字を抱えていた。インドはそれらの地域に一次産品で黒字であり、イギリスの赤字の40パーセントはインドの黒字によって相殺された。これは多角的貿易決済と呼ばれる。また、インドは鉄道建設などイギリスの投資に対する利子支払いと、兵士の提供と出兵費用など本国費と呼ばれる支払いをした。1870年代からインドの通貨ルピーはポンドに対する価値が下がり、その対策として金為替本位制で高いレートでポンドにリンクしたためイギリスからの輸入が増え、一次産品の換金作物の輸出で補われた[259]。プランテーションの労働者としてインド系移民が急増し、モーリシャスやフィジー、東南アジアへ送られた。南アフリカにもインド人の契約労働者が住み、当地の人種差別や労働環境の改善につとめたマハトマ・ガンディーの活動は、のちにインドの独立運動へとつながる[261]。
モルッカ諸島
肉料理の香料として重宝されたクローブは、当初はモルッカ諸島でのみ産する植物だった。そのため、香辛料貿易の利益をめざすポルトガルとスペインの対立の場となる。モルッカでは古来からウリ・リマ(5の組)とウリ・シバ(9の組)という集団に分かれて対立をしており、ウリ・リマはテルナテ島の王が指導して、ウリ・シバはティドレ島の王が指導していた。ポルトガルはテルナナ島でクローブの独占を進め、スペインのカスティリア王国は太平洋ルートでティドレ島に到着して、ポルトガルが支援するテルナテ島とスペインが支援するティドレ島との間で戦闘となる。ポルトガルとスペインの対立は1529年のサラゴサ条約で終結して、クローブ貿易はポルトガル王室以外にも開放されてポルトガル商人がマカオやティモールにも出向くようになった。ポルトガルとスペインの次には、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が進出して対立する。オランダ側がイギリス商館の全員を殺害するアンボイナ事件が起きると、イギリスはインドへと活動を移す。その後もテルテナとティドレは貿易の拡大で繁栄を続け、1681年にはオランダ東インド会社がクローブ貿易を独占した[262]。
華僑の増加
華僑は東南アジア各地で定住が増え、中国人街が建設される。移住の大規模化には、海運と通信の向上が大きな影響を与えた。また、輸送サイズの大型化や頻度の増加、働き口や賃金の情報の早さも重要であった。タイのアユタヤ朝は華商に貿易を委託し、磁器、絹、木材、米、インド更紗などを取り引きした。アユタヤ朝が滅んだのちはチャオプラヤー川のデルタ地帯がサトウキビや米のプランテーションとなり、18世紀には潮州人がタイの王室貿易を独占した。フィリピンでは華僑がメスティーソを形成して、18世紀から国内商業の中心となる。スペインはカトリックの布教も目的としており、改宗と引き換えに中国人商工業者に土地を与えた。ジャワではプラナカンと呼ばれる集団が形成され、プラナカンの商人はオランダ東インド会社と取り引きを行った。マレー半島ではババ・ニョニャと呼ばれる集団が生まれ、ババの多くは豊かな貿易商人として住宅街や商工街を建てた[263]。
マレー半島、ジャワ
ポルトガルがマラッカを占領して、のちに来たオランダ東インド会社はジャワのバタヴィアに拠点をかまえた。17世紀初頭にはコショウ生産は年930万ポンドとなり、サトウキビの栽培も需要増で広まった。香辛料貿易が衰退するにつれて、輸出品はサトウキビ、コーヒー、ゴム、タバコ、パームヤシ、ココナツなどの作物に移った。
18世紀の東インド海域ではブギス・マカッサル族が制海権を持ち、イギリス東インド会社の許可を受けた個人商人のカントリー・トレーダーはアヘンを扱い、ブギス人と協力をして東インド貿易に参入した。のちにオランダ東インド会社がこれを攻撃してイギリスとオランダの紛争となり、東インドの海域は混迷して海賊が横行した[264]。イギリスは植民地政府およびイギリス商人と、華僑のネットワークを用いて拡大した。イギリス東インド会社によるアヘンの三角貿易はイギリス・インド・中国で行われ、ルート上の東南アジアでもアヘンが流通した。イギリスは1819年のシンガポール獲得をはじめとしてマラッカ海峡の支配を進め、イギリスのカントリー・トレーダーと華商が活動してシンガポールは東南アジア華僑の中心となる。自由港であり関税収入がなかったシンガポールでは、アヘンの請負収入が植民地政府の収入の半分を占めた[265]。
オランダ東インド会社は香辛料価格の下落で18世紀末に破産し、オランダ東インド政府に引き継がれる。オランダはイギリスの自由貿易に対して、サトウキビの強制栽培制度と貿易独占、そしてアヘンの徴税請負で利益を目指した。強制栽培ではジャワの農民にサトウキビやコーヒー生産を強制して、オランダ王立商社が独占販売した[注釈 28]。強制栽培は批判を受けてプランテーションとなり、白人系の農場主のもとで契約移民の広東人が多数働いた[267]。アヘンの徴税請負は、政府がインドからアヘンを輸入して、その専売権を公開入札するという制度である。中国人が多くを入札して請負料を納めて、ジャワの農民にアヘンを販売した。スペインとオランダは、イギリスにならってジャワとルソンでケシ栽培に取り組むが失敗に終わった[268]。
中央アジア、北アジア
山丹貿易
アムール川や樺太などの北東アジアでは、山丹人と呼ばれたウィルタやニヴフと、樺太のアイヌによる山丹貿易が行われた。アイヌが毛皮や米を運び、山丹人が清の布地や絹服などを運んだ。山丹貿易には、日本の松前藩や中国の清も関わっており、松前藩は松前城下でアイヌと取り引きをして清の物産を入手した。清の側では、山丹人がアイヌ経由で得た毛皮を朝貢として受けとった。山丹貿易は江戸幕府が終わるとともに行われなくなり、朝貢で利益を得ていた民族には打撃となった[269]。
ロシアの毛皮貿易
ロシアは中世のノヴゴロド公国の時代から毛皮貿易が盛んであり、ヨーロッパにビーバーやテンの毛皮を輸出していた。ロシアは16世紀にシベリア、17世紀後半にアムール川流域に進出して、ロシア、モンゴル人、漢人の毛皮貿易が盛んになった。ネルチンスク条約では朝貢形式での貿易、ブーラ条約やキャフタ条約では民間の貿易が認められる。ロシアや清ではクロテンの毛皮が珍重されて、清はロシアにとって最大の毛皮輸出先となるが、18世紀にはシベリアの毛皮資源が減少してロシア商人はアリューシャン列島やアラスカへ行き、ラッコやオットセイの毛皮をオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクへ運んだ[270]。イルクーツクの商人グリゴリー・シェリホフは、太平洋を横断して、アラスカや北アメリカの西海岸で毛皮を収集した。勅許会社の露米会社が設立されると毛皮貿易を独占して、支配人のアレクサンドル・バラノフはロシア領アメリカの初代総督にもなった[271]。
清とロシアの間ではキャフタ条約が結ばれ、国境に近いキャフタではロシアの毛皮と清の茶が取り引きされた。ヨーロッパ向けの毛皮輸出が減少を続けていたため、ロシアにとって清は重要な輸出先となったが、清は貿易の拡大には積極的ではないため、しばしば中断した[272]。
清やロシアの中央アジア進出
18世紀には、カザフ・ハン国やコーカンド・ハン国と、中央アジアへ進出した清やロシアとの間で貿易が行われた。コーカンド・ハン国は交易が盛んなタシュケントを領土として、中央アジア交易を主導した。清はジュンガル王国を征服して、唐の時代以上の領土を得る。東トルキスタンは新疆とも呼ばれて清の文化が流入した。カザフやコーカンド・ハン国は清に朝貢として馬、牛、羊を送り、清は回賜として繻子、綿布、茶を送った[273]。
ロシアはエカチェリーナ2世の時代に中央アジアの併合をすすめる。ヨーロッパと中央アジアのルートがつながると、タタール人が中継貿易を活発にして、カザンが拠点として繁栄した。カザフとロシアの貿易はオレンブルク、トロイツク、ペトロパブルなどで行われ、カザフは家畜や毛皮、ロシアは織物や金属製品、食料を輸出した[274]。
東アジア
茶貿易
17世紀から、ヨーロッパとの茶貿易が始まる。1609年にオランダ東インド会社が日本の緑茶を平戸から運び、オランダを通じてフランスやイギリスで飲茶の習慣が広まった。のちに日本からは貴金属の輸出が増え、茶は中国が主流となる。18世紀からイギリス東インド会社はコショウに代わって紅茶貿易に力を入れ、1760年には620万ポンドと総輸入額の60パーセントを占めた。18世紀初頭では緑茶の割合が多かったが、中頃には紅茶が多くなった[275]。陸路ではロシアにも運ばれ、マカリエフの定期市などで大量に扱われた。やがて、一番茶を運んだ船にプレミアをつけるという習慣が生まれ、速度の出る大型帆船としてクリッパーが普及する。イギリスは輸入超過が続いて中国へ銀が流出したため、その解決策としてアヘン貿易が行われる。イギリスの茶貿易は植民地との対立も生み、アメリカ合衆国の独立につながった[276]。
日本の貴金属
日本は灰吹法によって精錬が向上して、貴金属の産出が増加する。朱印船貿易以降は、中国からの生糸を買い付けるために金、銀、銅で支払いを行った。平戸と長崎には華僑が住み、その住まいは唐人屋敷と呼ばれた。朝鮮の釜山には日本人の応接や貿易のために倭館が建設され、朝鮮人参や生糸の支払いに銀を用いた。こうして日本からの貴金属はアメリカからの銀と並んで世界の貿易に大きな影響を与えた。ポルトガルは江戸幕府の鎖国令で取り引きが禁じられて、ポルトガルの次にはオランダ東インド会社が幕府と長崎貿易を行った[277]。やがて幕府では貴金属の減少が問題となり、貿易量を制限する定高貿易法や、元禄以降の貨幣改鋳へとつながった[278]。
明清代の海上貿易
中国ではボルネオ島を通ってモルッカ諸島へ行く香料貿易のルートが知られており、東洋航路と呼ばれた。明の文人の張燮は商船員からの情報をもとに『東西洋考』を書き、ボルネオ島北部のブルネイは東洋の尽くる所、西洋の起る所と呼んでいる。元末から明にかけては、東洋と西洋の基準としてボルネオ島が用いられていた[279]。明の時代には陶磁器がヨーロッパにも輸出され、中国の青花や日本の伊万里焼の影響を受けて、デルフト陶器やマイセン陶磁器などが作られた[280]。
明が海禁を敷いている頃から牙行と呼ばれる仲買人の集団が活発となり、1567年に海禁が緩和されると、牙行から貿易や徴税の特権を得る者が出た。鄭芝竜はアモイや杭州を根拠地として5000隻の船を所有して財をなし、息子の鄭成功は台湾のオランダ東インド会社を攻撃して鄭氏政権を建国して、1683年に清が攻撃をするまで繁栄を続けた[281]。清の成立当初は海禁政策がとられたが、中期以降はヨーロッパやアメリカと管理貿易が行われて広東貿易体制と呼ばれた。これはヨーロッパ商人との取り引きを広東に限定する制度で、1720年以降は広東十三行と呼ばれる特権商人のギルドが取り引きを独占した[282]。
アヘン貿易
イギリスは清との貿易で赤字が続き、その解決策としてインドでケシを栽培してアヘンを清へ輸出した。アヘンは17世紀からオランダが持ち込んでおり、イギリス東インド会社がアヘンによる三角貿易を確立した。イギリス東インド会社は、まず個人商人であるカントリー・トレーダーに中国でアヘンを販売させて、アヘン購入には銀を定めた。次に、入手した銀で中国茶を購入してヨーロッパへ運ぶという方法をとった。こうしてイギリスは赤字を解消するが、清では銀の流出とアヘン中毒の拡大が問題となる。清はアヘンを禁止しようとしたため、イギリスとの間で1840年にアヘン戦争が起きた[276]。インドからのアヘン輸出は、1870年には1300万ポンドに達して、対中国貿易黒字の3分の1を占めた[283]。
日本は日清戦争後の台湾でアヘン専売を始めて、台湾総督府の初期の財政を支えた。その後も日露戦争後の関東州でアヘン専売が拡大し、上海を経由したペルシアやトルコ産のアヘン密貿易には日本の商社も関わった[284]。内蒙古や華北でケシ栽培とアヘン専売が進められて、熱河地方のアヘンが北京にも密輸された。利益は満州国の財政収入や占領地経営の経費にあてられており、満州国の一般会計の1割以上はアヘンからの税収となった。日中戦争以降の占領地における通貨価値の暴落も、アヘンによる物資調達の増加を招いた[285]。
朝貢の終了と門戸開放
アヘン戦争終結のための1842年の南京条約により、清の統治原理からはヨーロッパ諸国は互市国として位置づけられ、これまで非公認であった華僑の存在が認められた。同時に香港島の割譲、5港の開港、貿易自由化が決定して不平等条約にもつながった。清への朝貢国は、ヨーロッパ諸国と条約を結ぶ一方で清との朝貢関係も残した。やがて清では財政不足の解消のために朝貢の増量を求めつつ、回賜には紙幣を用いるようになる。これにより朝貢貿易の利益が減り、加えて私貿易が増加するにつれて朝貢貿易は衰退した[286]。南京条約の影響で上海や香港が急拡大を続け、香港は東南アジアやアメリカとの中継貿易や金融で栄える。上海は生糸や絹織物を産する蘇州や杭州、茶の集積地である漢口に近い位置にあり、最大の貿易港となった。上海の貿易商は、欧米諸国と取り引きする西洋荘、日本と取り引きをする東洋荘、東南アジアと取り引きをする南洋荘に分かれて活動した。西洋商人との仲介をして買弁と呼ばれる者もいた[287]。
東アジアの貿易をめぐる各国の競争や対立は、戦争の原因ともなった。李氏朝鮮では日本と清が進出をして、清はイギリスの綿製品を朝鮮に輸出する一方で、朝鮮からの輸出は1885年から1893年にかけて90%が日本向けとなる。日本の穀物買い占めは朝鮮で穀物不足と価格高騰をまねき、凶作対策として穀物の域外搬出を禁じた防穀令に対して、日本側が損害賠償を求める争いも起きた。日清戦争で清が敗北すると、朝鮮は朝貢を終えるとともに、中国はヨーロッパや日本による分割が進んだ。日本は朝鮮の植民地化をすすめ、朝鮮の輸出の80パーセントから90パーセント、輸入の60パーセントから70パーセントが日本向けとなった。満州ではロシアが占領を行い、日本も日清追加通商航海条約などで満州への経済進出をはかって衝突し、日露戦争が起きた[288]。中国への進出を求めるアメリカは、門戸開放通牒を各国へ送り、港湾の使用や中国の主権尊重を主張した。九カ国条約では門戸開放政策の継続が確認されたが、満州事変を条約違反とする批判があがり、日本と各国との対立が深刻となる[252]。
アフリカ
アフリカ各地の奴隷貿易は、熟練労働力の減少や、ヨーロッパからの製品輸入による現地産業の衰退などの影響を及ぼした[289]。ヨーロッパは奴隷との交換として銃器も輸出しており、アフリカ人にとっては武器貿易の面も持っていた[290]。輸入した銃器は隣国との戦争と、さらなる奴隷の捕獲に用いられ、地域の荒廃や人口減少による共同体の破壊にもつながった[291]。アフリカの君主は奴隷貿易についての対応が分かれ、ダホメ王国のように定期的に出兵して奴隷を捕獲する国がある一方で、ヨーロッパ人に奴隷貿易の縮小を訴えたコンゴ王国のンジンガ・ムベンバのような王も存在した[292]。
奴隷貿易の禁止がすすむと、ヨーロッパ諸国は沿岸での奴隷貿易にかわり、内陸に進出してアフリカ人に農産物の栽培や鉱物の採掘を行わせた。輸出品を運ぶための鉄道が建設されて、セネガルやナイジェリアでは落花生鉄道、ケニアでは綿花鉄道、ザイールでは銅鉄道などと呼ばれた。ヨーロッパの7カ国によるアフリカ分割が進み、植民地政策は独立後の貿易にも大きな影響を与える[293]。
東アフリカ
スワヒリのイスラーム商人が東アフリカ沿岸部とインド洋沿岸部をつなぎ、象牙や奴隷を運んだ。キルワなどの貿易港や、内陸のコンゴ川のマニエマに進出して米の栽培を始め、米はこの地方の主食にもなった。19世紀に入ると、アラビア半島南端のオマーンからブー・サイード朝のサイイド・サイードが東アフリカ貿易に進出する。その理由は、ペルシア湾貿易での勢力低下にあった。サイードはザンジバルを貿易の拠点としてクローブ栽培を始め、ヨーロッパとの良好な関係も築いて繁栄した。19世紀には奴隷の需要も高まり、ティップー・ティプのようなアラブ・スワヒリ商人は奴隷狩りを大規模化した。奴隷の中には、フランスによってレユニオンやマダガスカルの大農場へ送られる者もいた[294]。
内陸のサバンナには、ニャムウェジ族の商人がタンガニーカから隊商で往来して、ケニアからはカンバ族の隊商が沿岸のモンバサまで出向いていた。19世紀からアラブ人の交易ルートを用いてヨーロッパ人が進出して、イギリス領東アフリカやドイツ領東アフリカとなる[295]。ウガンダでは綿花の輸出でアフリカ人の独立農家が増えるが、ケニアでは白人入植者がアフリカ人のコーヒー栽培を禁止させ、原住民登録条例でアフリカ人の独立をさまたげた[296]。
西アフリカ
西スーダンではモロッコのサード朝がソンガイ王国を征服して、17世紀から18世紀にかけてサハラ交易を支配する。サハラ交易の終着地であるハウサランドの都市は独立してハウサ諸王国となり、サハラ交易を主導した。各都市国家は藍染で有名なカノ王国の染色や、織物、陶器などの特産物を生み出した。ハウサ人は各地で商人として活動して、ハウサ語は商業用語としても広まる。金を産出しない中央スーダンでは、非イスラーム教徒の戦士階層とイスラーム商人の協力のもとで奴隷貿易が拡大する。カネム・ボルヌ帝国やハウサ諸王国は奴隷貿易も行い、ハウサ諸王国では互いに奴隷を略奪した。奴隷貿易の標的となったサハラの南縁地域では、奴隷貿易を行うイスラーム国家に対抗するために18世紀から19世紀にかけて牧畜民のフルベ族が聖戦を行う。フルベ族はソコト王国を建国して、ハウサ諸王国を支配下においた[297]。
沿岸地域では、ヨーロッパとの貿易で取引された貿易品にちなんだ地名がつけられ、奴隷海岸、黄金海岸、胡椒海岸、象牙海岸などがある。ダホメ王国の交易港ウィダーや、ガンビアのクンタ・キンテ島は奴隷貿易の拠点となった[注釈 29][298]。
中部アフリカ
ベルギーのレオポルド2世は、隣国オランダの植民地経営に関心をもち、国力増強を目的としてコンゴ盆地へ進出する。レオポルド2世は探検家ヘンリー・スタンリーを派遣して各地の首長から貿易の独占権を得たのちに、コンゴ国際協会を設立して領域内での無関税を定めた。この政策によってベルリン会議でコンゴは認められ、コンゴ自由国が建国される。コンゴ自由国はレオポルド2世の私有領であり、輸出用の象牙や天然ゴムが採集されて、1901年にゴム輸出は6000トンとなり世界総生産量の10%を占めた。その一方で現地における強制労働などの過酷な状況が批判され、1908年にベルギーに併合されてベルギー領コンゴとなった[注釈 30][300]。
南部アフリカ
グレート・ジンバブエやモノモタパ王国の時代に繁栄を支えていた貿易品が、チャンガミレ王国の時代には減少する。18世紀までに金の産出が減り、象を乱獲したため象牙も減少した。輸出が衰えるにつれて、貿易に代わって経済力を獲得するための家畜、人間、土地をめぐる争いが激しくなった[301]。17世紀からはオランダ東インド会社による移民が始まり、19世紀にはボーア人の国家が建国された。オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見され、1886年にはトランスバール共和国で金鉱が発見される。イギリスはこれらの国をボーア戦争によって領地とした。1910年には南アフリカ連邦が成立してイギリスの支配下に置かれ、南アフリカ連邦では非白人を差別する政策としてアパルトヘイトが進められる[302]。
アメリカ
ヨーロッパの進出で、プランテーションや鉱山が建設されて一次産品がヨーロッパへ輸出された。ヨーロッパから天然痘をはじめとする病原菌が持ち込まれると先住民の大量死をまねき、ミシシッピ文化のようにヨーロッパ人との武力衝突が比較的少ない地域でも交易ルートや居住地の消滅を引き起こした。労働力の不足は、アフリカから運ばれる奴隷によって補われた[303]。
メソアメリカと南アメリカの鉱物
メソアメリカのアステカや、南アメリカのインカは、スペインのコンキスタドールに征服される。住人はヨーロッパ人の支配下におかれ、各地のプランテーションや鉱山で働かされた。16世紀には、ペルー副王領のポトシやヌエバ・エスパーニャ副王領のサカテカスの鉱山からの銀が、ヨーロッパとアジアへ運ばれる。アメリカからヨーロッパへの大量の銀の流入は価格革命と呼ばれる現象を引き起こし、日本の銀とともに世界貿易に影響を与えた[304]。
17世紀後半から砂糖貿易の中心はカリブ地方へ移り、ポルトガル領ブラジルでは1693年にミナスジェライス州で金脈が発見された。金採掘の労働はサトウキビ農園よりも過酷であり、絶えず新しい奴隷が金鉱へ送られた。1703年にポルトガルのブラガンサ朝はイギリスとメシュエン条約を結び、互恵的な通商条約となった。イギリスの毛織物などの工業製品はポルトガル領ブラジルとの貿易で利益をあげて、イギリスへと金が流れた。ミナスジュライスの奴隷が採掘した金は、イギリスに発祥する国際金本位制を整えることにもなった[305]。
南アメリカ
プランテーションと奴隷制度は、サトウキビの次にコーヒー栽培において盛んになり、ブラジルは世界恐慌が起きるまでコーヒー貿易の中心となった。20世紀初頭には外貨収入の90パーセントをコーヒーが占めるが、次第に生産過剰となり、第一次世界大戦が起きたためドイツやオーストリア向けの輸出も停止する。在庫を抱えたブラジルを救うためにアメリカ合衆国はコーヒーを買いつけるが、交換条件としてブラジルに第一次大戦の参戦を取り付けた。その後もブラジルの過剰在庫は続き、禁酒法でアメリカのコーヒー消費量が激増して一次的にしのぐが、世界恐慌で各国の購買力が低下したため大量のコーヒーが廃棄された[306]。
アマゾンに生息しているパラゴムノキは天然ゴムの原料として輸出され、自動車のタイヤ使用量の増加にともなってゴムブームとなり、東南アジアのプランテーションでも栽培されるようになる[307]。アルゼンチンでは平原のパンパに持ち込まれた牛が増え、牛肉の輸出産業が急成長した[1]。
やがてメソアメリカや南アメリカ各地では独立が相次ぎ、スペインやポルトガルを中継せず、ロンドンを中心としてヨーロッパ各地と直接に取り引きをするようになる。ヨーロッパ人による征服は、密貿易の商品も生み出した。インディオの重労働の疲労緩和のためにコカの葉が大量に消費され、1860年にはコカの葉からコカインが製造されるようになる。1918年の国際協定によって医療目的以外のコカイン使用が禁じられたが、収益性が高いために非合法な製造と国際的な取り引きが続いた[308]。
北アメリカの毛皮貿易
北米に移住した初期のヨーロッパ人にとって、先住民との毛皮貿易が重要となった。東海岸には先住民6部族の国家集団であるイロコイ連邦があり、セントローレンス川とサグネ川に面したタドゥサックにはインヌ族の交易ルートがあった。フランス人が建設したヌーヴェル・フランスでは、インヌ族や五大湖沿いのワイアンドット族から毛皮を入手して、ナイフや針、調理器具などのヨーロッパ製品と交換した。北米には、ヨーロッパで絶滅に近かったビーバーが多く生息しており、上流階級の毛皮ファッションの流行もあって毛皮貿易は隆盛した。取り引きが増えるにつれて、交易の利益を得ようとする諸部族や、交易ルートの支配を望むヨーロッパ人の間で紛争が大規模化して、ビーバー戦争と呼ばれる戦争も起きた[注釈 31]。イギリス人が建設した13植民地でもビーバーは重宝され、ほかに鹿皮が多く扱われた[310][309]。
組織面ではハドソン湾会社と北西会社の2社が毛皮貿易の中心となり、毛皮をもたらす先住民と互恵的な関係を築いた。毛皮貿易は、その商品の性質から、先住民とヨーロッパ人の比較的対等な交換をもたらした。ヨーロッパ産の針、鍋、ナイフなどの鉄製品は、先住民に歓迎される生活用具となった。当初は女性の渡航が許されておらず、毛皮交易者たちは協力関係にある先住民の女性を伴侶とした。先住民の女性は旅の同行者や交渉役として貿易の実務でも活躍した[311]。のちには、ロシアの勅許会社である露米会社がアラスカに進出して毛皮貿易を行った[271]。
アメリカ合衆国の独立
13植民地は、宗主国であるイギリスのグレートブリテン王国と植民地政策をめぐって対立する。貿易においては、1773年の茶法をきっかけとしてボストン茶会事件が起きる。イギリスはこの事件を受けてボストンを軍政下においたためアメリカ独立戦争のきっかけとなり、アメリカ合衆国の独立につながった。イギリスはアメリカの商船に対して海賊行為を行い、アメリカは対抗するために通商禁止法で海外への全面禁輸を行った。禁輸によってイギリスの損害が期待されたが、アメリカの実質所得が約8パーセント減少して、アメリカの損害の方が大きかった[312]。
アメリカの保護主義と工業
アメリカは独立後もイギリスとの貿易が最も多く、保護主義が影響力を持った。アメリカ独立時の政治家で初代財務長官であるアレクサンダー・ハミルトンは、『製造業に関する報告書』で重商主義にもとづく保護貿易を主張して、自由貿易を推進するイギリスを批判した。ハミルトンの主張は経済政策に取り入れられ、アメリカ・システムと呼ばれるようになる。1816年から1846年にかけては保護主義の影響が大きく、1846年から1861年には自由主義時代となる[212]。1850年代には灯油産業が最盛期となり、原油から灯油を精製する技術と、掘削技術の発達で、1860年代には石油精製事業が急成長をして、スタンダード石油が石油業界を支配した[313]。
1861年の南北戦争の時代には、北部の産業資本家や商人は保護貿易を支持して、南部のプランテーション所有者や農民は自由貿易を支持した。南北戦争で北部が勝利すると貿易政策は保護主義が中心となり、関税率が上げられた。南北が統一されて奴隷制廃止になると、プランテーションでの農業から工業へとうつる人口が増えて、工業製品の輸出増加にもつながった。1880年代の不況期には合理化が図られて、フレデリック・テイラーによる管理法が工業の大量生産を確立し、ヨーロッパへ工業製品が輸出されてアメリカは世界貿易における主要国となる[314]。フロンティアが消滅したのちのアメリカは、貿易の輸出先を求めて太平洋からアジアへと進出する。米西戦争でカリブ海やフィリピンなどのスペイン領を得て、中国の門戸開放を求めてヨーロッパや日本と対立した[252]。
世界貿易の拡大
国際金本位制
19世紀後半からは、イギリスを中心として国際金本位制が成立した。金本位制のもとで決済手段が統一されると取り引きが迅速化して、金との交換を保証する1国1通貨の制度も普及した。貿易で各国の金の保有量と通貨発行量が自動的に調整されるため、勢力均衡の国際関係にも合致した制度とされた[304]。しかし実際には先進国が途上国を資金的に支援する必要があり、途上国は貿易赤字を防ぐために保護主義を採用した。第一次大戦以前の40年間は、アメリカをはじめとする各国は自国市場を保護しながら、保護されていないイギリスへの輸出で利益を受けた。このためイギリスが輸入を増やして自由貿易を支えている面があった[315]。
大量生産と世界大戦
アメリカの鉄道への貸付が原因で1873年恐慌が起きると、公的介入が図られ、各国の農業と工業で保護主義の支持拡大のきっかけとなる。その一方で、20世紀の初頭にはアメリカの工業製品が大量にヨーロッパへ輸出されて、電話、タイプライター、ミシン、カメラ、蓄音機、包装食品などが人気を呼んだ[316]。石油はアメリカ、ルーマニア、ロシア、オランダ領インドネシア、ペルシアで採掘がすすみ、世界各地で油田を求める動きが活発となる。1914年に第一次世界大戦が勃発すると貿易は縮小して、各国の金本位制も停止された[317]。
第一次世界大戦まで貿易の中心だったイギリスに代わって、1920年代にはアメリカが世界最大の貿易国となり、輸出では1位、輸入ではイギリスに次いで2位になる。しかしアメリカは国内総生産(GDP)に占める貿易の割合が輸出5パーセント、輸入3.4パーセントと低かったため世界貿易の安定には関心が低く、国際連盟にも加盟しなかった。このアメリカの孤立主義は、貿易や金融を不安定にする。まず貿易面では、農産物で問題が起きる。第一次大戦で食料需要が急増してヨーロッパ諸国は農産物の自給率を高めたが、アメリカやほかの農業国も増産をしたため、農産物価格が1920年代に下落する。これがさらなる保護主義のきっかけとなった。アメリカはヨーロッパの戦後復興を投資で援助していたが、連邦準備銀行が投機の抑制のために公定歩合の引き上げを行った。戦後賠償が困難となったドイツではナチ党の政権が成立して、アウタルキー(自給自足)にもとづく一国主義的な政策として四カ年計画を進めた[注釈 32][314]。
世界恐慌と保護貿易
スムート・ホーリー法
1929年に世界恐慌が起きると、アメリカは関税を引き上げて世界貿易を縮小させる。1930年のスムート・ホーリー法で、アメリカの関税率は平均13パーセント引き上げられて59パーセント近くになった。この法案の目的は、当初は恐慌の対策ではなく、1920年代の農産物価格の下落対策だった。大統領候補だったハーバート・フーヴァーが農業を保護する関税引き上げを公約しており、フーヴァーの大統領就任後に世界恐慌が起きて、工業業界も加わる形で立案されるという経緯があった。この法案が世界経済を悪化させるという意見もあり、アメリカ内外の経済学者や関係者1000人以上が反対声明に署名をして、30カ国以上の政府が抗議を行ったが、議会では賛成が大勢を占めて法案は成立した[314]。
ブロック経済と政治対立
スムート・ホーリー法の成立後は、各国も関税を上げる。ドイツやフランスは平均40パーセントとなり、イギリスも自由貿易政策から保護貿易に転じて平均20パーセントとする。イギリスは連邦諸国に特恵関税を与えて連邦内貿易の強化を始め、アメリカも互恵通商協定でカリブ諸国や中米諸国と経済圏を作った。こうして国内経済の保護を目的とするブロック経済が進み、通貨圏をもとにしてスターリングブロック、ドルのブロック、ライヒスマルクのブロック、金本位制を維持するブロック、日満経済ブロックなどが形成された。ブロック間での輸入制限や排他的な関税措置がとられて国際貿易が分断され、近隣窮乏化政策という言葉も生まれた。アメリカでは1929年の生産を100とすると、1932年には54まで落ち、輸出は3分の1に縮小して、失業率は1933年に25パーセントに達した[319]。大恐慌後の世界貿易の縮小は、各国の政治に影響を与える。南アメリカでは1930年から1931年の間に12カ国で政変が起きた。一次産品価格の下落で植民地政府への不満が高まり、カリブ地方、西アフリカ、エジプト、インドなどで政治運動が活発になる。
石油獲得競争
第1次大戦後も石油への関心は高まり続け、豊富な埋蔵量が予想された西アジアでは獲得をめぐって各国が争った。1928年の赤線協定では、西アジアにおける石油貿易の枠組みが決定された[317]。アメリカはテキサスなど国内の採掘を盛んにする一方で、スムート・ホーリー法の対象にも石油は含まれずに輸入が続けられた[320]。サウジアラビアではアメリカ主導の採掘が始まり、ペルシャ湾に面するクウェートは、大恐慌が招いたマッカ巡礼の激減と、日本の養殖真珠による天然真珠の輸出減で財政難に陥り、イギリス主導で石油利権協定が調印された[321]。
日本は石油の貿易依存が高く、アメリカから国内消費の80パーセント、オランダ東インド領から10パーセントを輸入していた。日本とアメリカは中国の門戸開放をめぐって対立がすすみ、満州事変や日中戦争が起きると、日本の軍事行動にアメリカの石油が使われることに反対が高まる。アメリカの石油業界や世論は日本への禁輸を求めて、日本が東南アジアへの軍事行動を開始すると、1941年にアメリカは石油禁輸措置をとり、日米の開戦の一因にもなった[322]。ドイツは石油をルーマニアに依存しており、占領地の拡大で石油の消費が増えるにつれ、特に1941年から逼迫した[323]。
注釈
- ^ プランテーションの作物としては、サトウキビ、コーヒーノキ、綿花、タバコ、ゴムノキ、アブラヤシなどがある。
- ^ ホメーロスの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』には、フェニキア人が人さらいの海賊まがいとして描かれている[64]。
- ^ 国内のアゴラの穀物価格は公定価格が維持されていたが、紀元前4世紀にアテナイの海上支配が衰えると、エンポリウムの貿易では穀物価格が高騰して、アゴラの価格にも影響を与えた[67]。
- ^ アテナイの喜劇作家アリストパネスの戯曲『アカルナイの人々』では、ペロポネソス戦争の最中に敵国と単独和平をして貿易で儲ける人物が登場して、戦争に積極的な有力者と対照的に描かれている[69]。
- ^ ペトロニウスの小説『サテュリコン』に登場する解放奴隷のトリマルキオが、貿易で成功したのちに土地所有者に転じているのも、こうした価値観の表れとされる[73]。
- ^ 紀元前3千年紀に編纂されたギルガメシュ叙事詩には、英雄ギルガメシュがレバノンスギを手に入れるエピソードがあり、当時の事情を表しているとされる[81]。
- ^ 南インドのシャンガム文学の叙事詩にはヤヴァナの貿易活動も謳われた[98]。
- ^ 絹馬交易という語は、松田壽男によって考案された[108]。
- ^ 唐物は、『竹取物語』、『うつほ物語』、『源氏物語』などの文学にも描かれている[122]。
- ^ 中世に成立した説話集である『千夜一夜物語』には、バスラの船乗りで海上貿易を行ったシンドバードをはじめとして、8世紀から9世紀にかけての広範な貿易ルートをうかがわせる物語が収められている。
- ^ フィレンツェの作家であるボッカチオの『デカメロン』には、商人と海賊を兼業して利益を得た話が収められており、当時の生活を反映していると言われる[137]。
- ^ 中世のヴェネツィアにおける貿易を題材とした作品として、シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』が有名である。
- ^ 北欧の叙事詩を収めたサガや、北欧神話の歌謡集『エッダ』には、贈与が重要な役割を果たす逸話が多く残されている。
- ^ 地理・歴史学者であるアブー・ザイドの『シナ・インド物語』やマスウーディの『黄金の牧場』には、内陸の商人たちが海路で広州などへ向かった様子が記されている。
- ^ ボッカチオやチョーサーはこれをタタールの織物やタタールのサテンと表現している。
- ^ オランダのデルフトに住んでいた画家ヨハネス・フェルメールの作品『兵士と笑う女』には北アメリカのビーバーの毛皮帽子、『地理学者』には和服が描かれており、当時のオランダの繁栄がうかがえる[215]。
- ^ オランダ東インド会社の資本金は650万グルデンで株主は有限責任制だった。対するイギリス東インド会社の第1航海の起債は6万8000ポンド(約53万グルデン)だった。
- ^ ネイボッブには帰国後に腐敗選挙区から下院議員に当選する者も出て批判の声があがり、東インド会社の独占廃止と第1次選挙法改正 (Reform Act 1832) につながった[221]。
- ^ マデイラ諸島、カボヴェルデ、サントメに植えたサトウキビは地中海よりも育ちがよかった。
- ^ イギリスのダニエル・デフォーによる小説『ロビンソン・クルーソー』の主人公も、ブラジルに農園を持つ奴隷商人だった[229]。
- ^ オラウダー・イクイアーノやフレデリック・ダグラスは作品を通して奴隷制度の廃止を訴えた[230]。
- ^ 東南アジアやスリランカの胡椒・丁子・ナツメグ・メイス・シナモンが主な商品だった[233]。
- ^ アラビア半島の乳香・馬、東アフリカの金・象牙、ペルシアの絹織物・絨毯などが主な商品だった[233]。
- ^ サンレイとは中国語の生利(shengli)、商旅(shanglu)などを由来とする説があり、パリアンとはタガログ語で駆け引きが行われる場所を意味した[237]。
- ^ アメリカの小説家ジャック・ロンドンの短編集『南海物語』や、イギリスの小説家サマセット・モームの『作家の手帳』には、契約年季労働者やブラックバーダーの様子も描かれている。
- ^ ペート建設で得られる市場長や市場書記のワタン(vatan)が目的であった。ワタンとは17世紀以降の西インドにおける世襲の家職・家産であり、商品経済の浸透にともなって新しいワタンが作られていった[257]。
- ^ イギリスでは1700年にはキャラコ禁止法、1720年にはキャラコ輸入禁止法が成立し、イギリスの繊維業者が保護された。
- ^ 強制栽培は当時からオランダでも問題視されており、エドゥアルト・ダウエス・デッケルは、ムルタトゥーリのペンネームで小説『マックス・ハーフェラール』を発表して、強制栽培制度を告発した[266]。
- ^ のちに20世紀アメリカの作家アレックス・ヘイリーは、ガンビアからアメリカへ運ばれた祖先の体験をもとに小説『ルーツ』を書きベストセラーとなる。のちにテレビドラマ化もされた。
- ^ ジャーナリストのエドモンド・モレルの『赤いゴム』、作家ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白』には、自由国時代のコンゴが描かれている[299]。
- ^ フランス人はインヌ族やアルゴンキン語族を支持する一方で、イギリス人はイロコイ連邦を支持しており、フランス対イギリスの代理戦争の面もあった[309]。
- ^ ナチス・ドイツはアドルフ・ヒトラー内閣が自給自足政策を進めたが、食糧や石油をはじめ国内での自給は不可能であり、のちにアメリカが保護貿易政策をとった点も影響して行き詰まった[318]。
- ^ 世界経済を工業製品の先進国と一次産品の途上国に二分して考えると、工業製品は技術革新や新製品があるため所得が上がりやすいが、一次産品は相対的に工業製品と比べて不利となる。そこで、一次産品価格を引き上げて工業製品の価格にリンクしつつ、先進国からの援助も含めて途上国の工業化をすすめることが目標とされた[334]。
- ^ HPAEsは大きく3つに分かれ、第1は日本、第2は1960年代の香港、台湾、韓国、シンガポール、第3は1970年代と1980年代のマレーシア、タイ、インドネシア、中国となる。
- ^ 貿易面での構造調整プログラムは、輸出の促進による国際収支の改善を目的としたが、輸出品目の多様化を進めなかったため国際価格が低落し、公定価格の撤廃などが影響して農民の生活は改善されなかった。地元の民間資本や企業家が育っていない中で公共部門の民営化は、外資系企業による支配の強化や民族対立にもつながった[350]。
- ^ 日本の輸出は、1960年代の繊維や鉄鋼、1981年の自動車の輸出自主規制、1986年の工作機械の輸出自主規制などを起こした。日本の輸入に関しては、1970年代の牛肉やオレンジ、1980年代の半導体、米、スーパーコンピュータ、1990年代のフィルム・印画紙などが問題とされた。
- ^ トヨタ自動車は全世界の生産が22%減少し、ソニーは26億ドル、東芝は28億ドル、パナソニックは38億ドルの損失となった[367]。
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