貿易史 古代

貿易史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 04:35 UTC 版)

古代

アフリカ

エジプト

古文献に示されたプントへの道筋と、プント国の比定地

ナイル川に沿って、紀元前5200年頃からエジプト北部、紀元前4200年頃には南部で系統の異なる農耕・牧畜文化が存在した。ナイル下流にナカダ文化が栄えると、南のヌビアとの交易が行われるようになる。ナカダからはビール、油、チーズ、ヌビアからは象牙黒檀などが輸出された。交易用の土器は、紀元前3200年頃になるとパレスチナ産も含まれており、交易の長距離化が進んでいた[49]古代エジプトの王朝が統一されて古王国時代になると、官僚や神官によって遠征隊が組織されて、砂漠での採石や採鉱、ミイラの製作に必要なナトロンの採集を行った。貿易においても同様に遠征隊が派遣されて、金や乳香プント国に求め、象牙や黒檀はヌビア、銀はメソポタミア、木材は東地中海のグブラから輸入した。エジプト王朝が弱体化した時期にはヌビアに遊牧民が生活して交易を行ったが、紀元前2040年以降の中王国時代には、エジプト王朝がナイル川の第2瀑布まで進出して金を採集するようになる。採掘やプント国との貿易で得た金は神殿や王宮に蓄蔵され、地中海やメソポタミアとの貿易にも用いられた。紀元前17世紀から異民族のヒクソスが建国した第15王朝や第16王朝では、クレタ島で栄えたミノア文明などとの貿易が行われた[50]

マケドニアのアレクサンドロス3世の征服後には、ナイル川の河口にアレクサンドリアが建設され、政治と貿易の拠点となる。穀倉地帯に恵まれていたエジプトは、ギリシア向けの穀物輸出も行った。やがて、世界最古の価格が変動する国際穀物市場が成立して、ナウクラティスのクレオメネスが運営した。クレオメネスは飢饉時に穀物の輸出を規制して、国内の食料を確保した。また、貿易担当者を4つのグループに分けて、本土の輸出、航海の輸送、ロドス島での交渉、ギリシア各地での情報収集を担当させて、価格の最も高い都市へ穀物を運んだ。この政策は国庫に8000タラントンという巨額の富をもたらす一方で、穀物の安定供給を求めるギリシアには批判された。クレオメネスの貿易政策は彼の死後にプトレマイオス朝に引き継がれ、ローマがエジプトを属州としてアエギュプトゥスとなるまで続く。そののちも、アレクサンドリアは地中海貿易で栄えた[51]。プトレマイオス朝時代には紅海を経由したインド洋との貿易も行われ、アデンが中継地として繁栄した[52]

北アフリカ

ディードーのカルタゴ建国伝承。牡牛の皮が覆える広さの土地を許されたため、細長くした皮で土地を囲ってビュルサを手に入れた

紀元前10世紀から8世紀にかけて、地中海の沿岸にそってフェニキア人が植民都市を建設した。その中で最も繁栄したのが、ティルス人がチュニジアに建てたカルタゴだった。フェニキアはイベリア半島のタルテッソスから東へ銀やを運んで利益を得ており、その帰路に位置するカルタゴは、良港と農地にもめぐまれて発展した。カルタゴは西地中海のサルデーニャ島イベリア半島に進出したほか、東方のアケメネス朝とも貿易や協力関係を築いた。また、西アフリカやサハラにも関心をもち、航海者ハンノコートジボワール近辺まで航路を開拓している。貿易ルートの確保をめぐってはギリシアやローマと対立し、紀元前5世紀にはシチリアにおいてギリシアと戦い、紀元前3世紀にはローマと戦った。カルタゴがポエニ戦争でローマに破れたのちの北アフリカはアフリカ属州となり、穀物を輸出してローマの人口を支えた[53]

東アフリカ、中部アフリカ

中部アフリカでは5000年前から乾燥化が進み、カメルーン西部からバントゥー系の農耕民が東方へと移住して、紀元前3世紀にはヴィクトリア湖に達した。この移動は技術や生計が異なる民族集団が共存するきっかけをもたらした[54]コンゴ川の流域では、5世紀以降に東南アジア原産のバナナが持ちこまれて農耕が拡大して、焼畑農耕民、狩猟採集民、漁労民のあいだで交易が行われた[55]

紅海では、紀元前5世紀から紀元後1世紀にアクスム王国が貿易で栄え、ヌビアのメロエ、ローマ帝国、アラビア半島、インドと取り引きを行った。アクスムは現在のイエメンからエチオピアへ移住したセム系の人々が建国したと言われ、金、象牙、奴隷の貿易を行い、2世紀にはアラビア半島に出兵してササン朝と貿易ルートの支配をめぐって争った。4世紀にはキリスト教を国教として栄えたが、7世紀以降はイスラーム帝国に貿易ルートを奪われて衰退した[56]

地中海、黒海

カディーシャ渓谷のレバノンスギ。伐採で約1200本まで減少した

地中海東岸では紀元前3千年紀には都市国家があり、レバノンスギが建築や造船に用いられる優れた木材として有名だった。レバノンスギはエジプトやメソポタミアにも輸出され、グブラでは紀元前2680年にはすでにエジプトから遠征隊が訪れて伐採を行っていた。紀元前23世紀以降に最盛期を迎えたエブラには、紀元前2250年頃の粘土板文書があり、アナトリア、パレスティナ、キプロス島、メソポタミア、エジプトと貿易をしていた記録がある。東岸の諸都市は古くから貿易で栄えており、その富はしばしば周辺国の紛争の原因にもなった。レバノンスギの他にも良質の木材に恵まれていたが、伐採によって森林は減少していった[57]

紀元前20世紀にはクレタ島にミノア文明が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。やがてミノアはペロポネソス半島のミケーネ文明と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀にクレタ島を占領した。金属貿易としてタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を扱うウガリトが紀元前14世紀を頂点に繁栄した[58]。ウガリトの商人は東岸やメソポタミアで取り引きをしつつ、王の使節に同行して管理貿易をする者のほかに私的な商人もいた。ウラの商人は、ヒッタイトから貿易を委託されてウガリトに滞在したが、次第にその経済力が警戒されて、土地の購入を禁じられるようになった。海上では当時から海賊の被害が深刻であり、ウガリトとキプロスが海賊対策で協定を結んだこともあった[59]

フェニキア

貝紫色に用いたシリアツブリガイ

東地中海は前1200年のカタストロフとも呼ばれる大変動によってヒッタイトが滅亡し、エジプトやミケーネも衰退する。青銅器時代にカナンと呼ばれていた地域の人々は、この変動の影響を受けて海岸部に集中して住むようになる。それまで農耕を中心としていたカナン人は、居住地の減少のために商工業へと生業を変えて、紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて西地中海へ進出した[60]。こうして、カナンは鉄器時代にはフェニキアと呼ばれるようになる。カナンやフェニキアという名は自称ではなく、特産物であるシリアツブリガイから作った貝紫色の染料を由来とする[61]

黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他

東地中海では金属が不足しており、フェニキアは金、銀、銅、鉄、鉛、錫などを求めて西方へ航海した。フェニキアが各地で得た金属を西アジアへ送り、海上貿易によってグブラやテュロスシドンといった都市が栄える。輸出品としては金属の他に特産である貝紫色の染料や木材、そして象牙、ガラス、貴金属などを使った工芸品や奴隷があった[62]。テュロス王のヒラムはイスラエル王のソロモンと協定を結び、テュロスは木材と職人、イスラエルは小麦とオリーブを贈り、エルサレム神殿が完成した。ヒラムとソロモンが協力した紅海の貿易については『旧約聖書』の「列王記」、テュロスの貿易による繁栄は「エゼキエル書」に記されている[63]。テュロスからはイベリア半島やアフリカへの植民が始まり、キプロス、シチリア、マルタ、サルデーニャに拠点を建設した。フェニキア人は、紀元前8世紀から9世紀にギリシア、紀元前6世紀にはローマと接触して、地中海をめぐって対立する[注釈 2]。北アフリカのフェニキア植民都市であるカルタゴは、東地中海のフェニキア都市が他国の支配下となったのちも繁栄を続けた[65]

ギリシア

アテナイ(右)と交易港のペイライエウス(左)

ギリシアの都市国家であるポリスは、エジプトやメソポタミアのように大規模な穀倉地帯がなく、地中海や黒海で穀物の輸入と植民をすすめた。紀元前5世紀から4世紀にはアテナイがギリシアの商業の中心地となり、小麦、木材、鉄、銅、奴隷などを輸入して、陶器、オリーブ油ワインなどを輸出した。貿易のための港はエンポリウムと呼ばれ、アテナイではペイライエウスにエンポリウムが建設され、その他にミレトスナウクラティスアイノスビュザンティオンテオドシアパンティカパイオンなど各地に存在した。ルートの安全を保障するための軍事力も整備され、デロス同盟で海上支配を強めた[66]

貿易商人は、商船を所有するナウクレーロスと、商船に同乗したり陸上で貿易をするエンポロスに大きく分かれており、ポリス内の市場で取り引きをするカペーロスとは区別された。土地を所有できない外国人居留者であるメトイコスが、ナウクレーロスやエンポロスに従事した。メトイコスには、ミケーネ文明の崩壊でアテナイに住み着いた難民が多かったとされる。アテナイに届いた穀物には2パーセントの関税がかかり、エンポロスが3分の2を市内に運び、それをカペーロスがアゴラで販売した[注釈 3][68]

戦争に付随するかたちで奴隷貿易も行われており、従軍商人によって戦利品や捕虜が競売にかけられ、エンポリウムへ送られた。トゥキュディデスの『戦史』や、クセノポンの『アナバシス』には、戦争と結びついた貿易が記されている[注釈 4][70]

ローマ

ギリシアののちには、ローマが地中海沿岸の貿易を独占した。ローマはラティウム地方の交易地であり、北のエトルリア人を征服して拡大してゆく。共和政末期から帝政初期に貿易が盛んとなり、ローマ人のほかにギリシア人、シリア人、ユダヤ人の商人がいた。また解放奴隷の多くは商工業で働いたため、ローマ商人のなかには解放奴隷が多かった。ローマ街道をはじめとする輸送網は軍事と貿易に活用され、大理石や穀物は国家管理に置かれつつも、実際には民間業者が請け負った[71]

ギリシアやローマではアンフォラも輸送に用いられた

ローマの商人はメルカトルと呼ばれ、その中でも貿易商はネゴティアトルと呼ばれた。遠距離交易では調味料のガルム、ワイン、オリーブ油、陶器、穀物、塩、金属、奴隷などが運ばれ、ネゴティアトルにとって多額の現金を持つ各地の兵士は魅力的な顧客だった[72]。商人には組合組織があって相互扶助が行われたが、企業のような組織とはならなかった。ローマには商業に対する蔑視もあり、紀元前218年クラウディウス法英語版で元老院議員が所有する船の大きさに制限を設けた[注釈 5][74]。海上輸送は紀元1世紀から2世紀にかけて最盛期を迎え、その後は徐々に衰退した。

ローマ帝国は西アジアでパルティアと絹貿易を行い、紅海からインド洋にかけては南インドのサータヴァーハナ朝季節風を利用した貿易を行った。インドとの貿易はアウグストゥス時代に急増し、当時の様子はストラボンの『地理誌』や、紀元1世紀に書かれたとされる『エリュトゥラー海案内記』に記されている[75][76]。2世紀頃の扶南国の交易港であるオケオではローマの金貨も見つかっている[77]166年には後漢の桓帝が治める洛陽を、大秦王安敦の使節が訪れており、ローマ帝国からの使節とされる[78]

ヨーロッパ

紀元前10世紀には、イベリア半島南部のタルテッソスがフェニキアとや銀の貿易をした。タルテッソスはイギリスのコーンウォールなどから錫を運ぶ貿易を独占して繁栄したが、やがて大西洋側にフェニキア人が建設したカディスとの競争が起きて衰退した[79]

ローマ帝国はゲルマン人との間にリーメスと呼ばれる壁を建設し、その長さはスコットランドから黒海までの5000キロにもおよんだ。ローマ人とゲルマン人はリーメスをはさんで居住し、戦闘のほかに人の往来や交易もあった。ローマの物産が交易や略奪によってゲルマンに浸透するにつれ、その財をめぐってゲルマン人同士の争いも起きるようになる。ゲルマン人はマルコマンニ戦争を起こし、やがて勢力を拡大した西ゴート族は4世紀からイタリア半島やガリアへと移住した[80]

西アジア

メソポタミア

メソポタミア文明が栄えた平原は灌漑農耕や牧畜に適している一方で、特に南部メソポタミアは金属、石材、木材に不足していた。そこで、アナトリアやイラン高原から銅、銀、などの鉱物、レバノンからは木材を輸入した。メソポタミアからの輸出品には、大麦羊毛や毛織物、胡麻油などがあった。装飾品としてラピスラズリが珍重され、紀元前4千年紀には中央アジアのバダフシャーン地方で産するラピスラズリがメソポタミアやエジプトまで運ばれていた[注釈 6][81]シュメル時代にはペルシャ湾方面の海上貿易も活発で、マガンで銅鉱山を開発したり、ディルムン経由でインダス文明と貿易をした。紀元前2千年紀には、キプロス島など地中海からも金属が運ばれた[82]

都市国家が競合して、エラムエシュヌンナシッパルアッシュールなどの都市は交易が盛んになり、古バビロニア時代からは広い領域を統治する国が出現する。都市国家の后妃のあいだでは外交の一環で贈与交易も行われて、贈り物には装身具、家畜や家具が選ばれた[83]。王室や神殿の物資調達は商人への委託が進み、交易者にはアッカド語タムカルムシュメル語のダムガルと呼ばれる役職があり、王に仕えて取り引きをした。ディルムンで銅貿易をしたウルエンキや、后妃に仕えたウルエムシュといった商人の名前が記録に残っている[84]。私的な取り引きを行う商人も活発になり、アナトリアキュルテペ遺跡で発見されたキュルテペ文書には、北部メソポタミアのアッシリアの商人の活動が記されている。アッシリア商人は紀元前1900年から紀元前1750年にかけて、ヒッタイト支配下のアナトリアにカールムと呼ばれる居留地を作り、織物や錫との交換で貴金属を調達した。アッシリアの文化はアナトリアに影響を与え、ろくろを使った土器、金属加工技術、文字などが伝わった。アッシリア商人はヒッタイトの鉄に関心を示して、粘土板には鉄が金の40倍の価値があるといった記録も残している[85]。交易の増加にともなって、共同出資や債権管理の法体系が整った[86]

ペルシア

アケメネス朝への貢納使節。アパダナの壁画

紀元前7世紀のアケメネス朝は、西はエジプトから東はガンダーラにわたって領土として、公道として王の道を整備する。そして徴税を担当する総督、軍事を担当する司令官、皇帝直属の監察長官を各地に派遣した。紀元前6世紀にはエジプトからインドに至る海上貿易で各地の産物も取り引きされた。王都だったスーサには、木材がガンダーラやカルマニア英語版、瑠璃と紅玉がソグディアナ、金はバクトリア、象牙がエチオピアやインドからもたらされた。その他にもインドの香辛料、北ヨーロッパの琥珀、カルタゴの織物などがあった[87]。謁見の間であるアパダナには朝貢図の壁画があり、各地からアケメネス朝を訪れてくる民族と、その貢物が描かれている[88]

アラビア半島

アラビア半島では、乾燥した気候のもとで遊牧・牧畜と農耕が行われ、対照的な生業が交易の原因にもなった。都市は遊牧民と農民を交易で結びつけ、遠距離交易と市場の仕組みも発達する。661年にアラビア半島で成立したイスラーム帝国ウマイヤ朝は、ダマスカスを首都としてローマ帝国の制度を取り入れ、中央アジアからイベリア半島にいたる地域を征服した。商業を重んじるイスラームは貿易に影響を与え、のちのアッバース朝の時代に急速に拡大する[89]

インド洋、ペルシア湾

ディルムンの中心地だったとされるバーレーン要塞

紀元前27世紀頃には、メソポタミア文明インダス文明が海上貿易を行っていたとされる。貿易品はインド洋やペルシャ湾を経由して運ばれ、インダスの名産だったカーネリアンのビーズがメソポタミアで発見されている。アッカド語メルッハ英語版と呼ばれた土地が、インダス文明を指すのではないかという説がある。一方でインダス側にはメソポタミアとの交渉を示す証拠が少なく、インダス文字が解明されていない点も調査を困難としている[90]。インダスとメソポタミアの貿易の中継地としてディルムンが知られ、インダスの装飾品の他にメソポタミアの大麦、青銅、木材が取り引きされていた。アッカド期のメルッハからは、砂金、銀、ラピスラズリ、カーネリアン、青銅といった鉱物のほかに、珍しい生き物としてクジャクなどがもたらされている[91]

エリュトゥラー海案内記に基づいた1世紀のローマ・インド間貿易のルート

紀元前13世紀からは、アラビア半島南部のサバア王国をはじめとする国が、インドの香料をエジプトやシリアに運んでいた。インド洋の西部では、季節風が4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月にかけては北東から南西に吹く。1世紀から2世紀には、アエギュプトゥスに住むギリシア人が、貿易商人のための案内書として『エリュトゥラー海案内記』を書いている。この書では、エリュトゥラー海を指す紅海だけでなく、アラビア海、ペルシア湾、インド洋も含んでいた。案内記によれば、ギリシア人の船乗りであるヒッパロス英語版が季節風を利用する航路を開拓したためにヒッパロスの風とも呼ばれた[76]

ダウ船(ダルエスサラーム付近)

季節風の利用で貿易が活発となり、インドからアラビア半島、東アフリカまでをつないだ。モカをはじめとするアラビアと東アフリカの港町をつなぐ航路ではダウ船が用いられ、タンザニアからオマーンまでの約4000キロメートルの直行には3週間から4週間かかった[92]。東アフリカから輸出されたのは シナモン、乳香、象牙、サイの角、鼈甲などで、アラビアからアフリカへ輸出されたのは武器、ガラス製品、ワイン、麦などであった。地中海とインド洋のあいだの貿易は1世紀末には衰退するが、インド洋とアフリカを結ぶルートは貿易以外にも用いられ、4世紀から5世紀にかけては東南アジアのマライ系や太平洋のオーストロネシア系の人々が東アフリカへ移住する。移住者によって、米、バナナ、サトウキビ、イモ類がアフリカに伝わった[93]

南アジア、東南アジア

インダス文明

インダス式印章

インダス文明が最盛期を迎えた紀元前2600年から紀元前1900年には、海水面が現在よりも約2メートル高く、内陸部に海岸線があった。インダス川の流域から離れているグジャラート地方マクラーン地方英語版の集落や都市の多くは当時の海岸線に近く、大河を利用した大規模な灌漑農耕ではなく海上貿易で生活していたとされる。グジャラート地方では良質のカーネリアンを産出して、重要な貿易品にもなった。ドーラビーラはインドと西アジアをつなぐ貿易都市として繁栄して、カーネリアン製ビーズの工房もあった。ロータルには巨大なプール状の施設があり、海洋生物の痕跡やメソポタミアの産物が発見されたことから、交易港のドックだったとする説もある。ドーラビーラやロータルでは、ペルシャ湾沿岸に多い円形の印章も発見されている[94]。メソポタミアに輸出されていた装飾品やインダス式印章の原材料は、インド内陸の各地から遠距離交易で都市へと集められて加工された[90]。陸路には牛車を運搬に用いたほかに、カッチ湿原の周辺では家畜ロバとインドノロバとの雑種を交易に利用していた説もある[95]

十六大国時代

コーサラ国マガダ国の時代には、チャンパーウッジャイニーラージャグリハヴァイシャーリーヴァーラーナシーシュラーヴァスティーなどの都市が栄え、グリハパティと呼ばれる有力者が経済の中心だった。グリハパティは家長を意味する語で、その中でもシュレーシュティンと呼ばれる富裕者やサールタヴァーハ(交易商)らが交易を行い、隊商で国境を越えて活動した。交易品にはヴァーラーナシーの織物、象牙、ガンジス川の高級土器である北方黒色磨研土器、貴金属や宝石、資材や食料が扱われ、この時期に金属貨幣の使用も始まっている。ガンジス川中流の新興都市の商工業者は、シュレーニーやプーガと呼ばれる同業者団体を作った。ヴァルナ制度において商人は第3階級とされ、司祭階級のバラモンからは軽視され、商人がのちの仏教やジャイナ教を支持する一因ともなった。シュラーヴァスティーの祇園精舎も、王侯や商人の寄進によって建てられている[96]

マウリヤ朝以降

マウリヤ朝は官僚制度を整え、その経済政策は『実利論』にも記されている。整備された交易路や交易港は、マウリヤ朝の滅亡後も利用された。北方のクシャーナ朝はシルクロードの一部を押さえ、ガンジス川流域ではグプタ朝の建国までにいくつもの王国が成立した。デカン高原のサータヴァーハナ朝は西方との貿易が盛んで、1世紀頃にはギリシア人やアラビア人が訪れた。中国の絹はガンジス川河口からの海上ルートでも運ばれた。南インドのチョーラ朝は海上貿易でローマに胡椒、絹、綿布、宝石などを輸出し、ローマからワインを輸入し、傭兵にはギリシア人がいたとされる[97]。当時の港湾都市のアリカメドゥ英語版では、ローマの商館跡からアンフォラやガラス製品が発見され、南インド沿岸各地からはローマの金貨も発見された。ギリシア人などの西方人はヤヴァナ英語版と呼ばれた[注釈 7][99]。グプタ朝の時代にはローマが紅海のルートを押さえられたため来航が減るが、グプタ朝はベンガルを支配下におき、西アジアや東南アジアとの貿易は続いた。6世紀にはグプタ朝末期の混乱で大都市間の交易が減り、海上貿易もアラブ人やペルシア人に代わられていった[100]

東南アジア

干したクローブ。その形から丁子とも呼ばれる

東南アジアでは、自給的な山地と外部と交流をする港市は異なる経済圏だった。香辛料は山地の森林で産するものが多く、山地の住民は王国への賦役や人頭税として産物を納めていた。その産物が海岸へ運ばれて、管理貿易で輸出されるようになる。港市には首都を兼ねているところもあった[24]メコン川チャオプラヤ川の下流に建国された扶南国は中継貿易の中心地となり、ボルネオやスマトラの金やモルッカ諸島のクローブを集め、オケオを中心として港湾都市が栄えた。モルッカ諸島の香辛料であるクローブや、コショウシナモンは、紀元1世紀頃には知られていた。クローブは釘に似ている形から丁子と呼ばれてマライ系民族が運び、コショウやクローブは唐まで輸出されていた。6世紀のの『梁書』には、モルッカとされる馬五国の記述がある[101]。インドと中国を結ぶ貿易ルートとしてマラッカ海峡が重要であり、7世紀からはスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国が海峡を支配下に置いた[102]

中央アジア、北アジア

遊牧民とオアシス都市

ホータンで産する和田玉

現在シルクロードと呼ばれているルートは、最古は玉(ぎょく)の道だったとも言われている。古代中国では軟玉と呼ばれる翡翠を用いた玉製品が珍重され、紀元前2000年には玉器の貿易が行われていた[103]。軟玉はタリム盆地ホータンで産出され、紀元前1500年には楼蘭が中継地となって蘭州藍田に運ばれた[104]。中央アジアや西アジアのオアシスでは灌漑農耕が行われ、用水路や地下水路のカナートの建設が進み、紀元前1000年にはオアシス都市が成立して貿易の拠点になった[105]。軍事面に優れた遊牧民と、経済面に優れたオアシス都市とは互恵的な関係を持つようになる。遊牧民は軍事的な庇護を提供して、オアシス都市は食料や人畜を提供した。遊牧民の使節は隊商も兼ねるようになり、オアシス都市や使節に同行する商人にとって遠距離交易の機会が増えた[106]

紀元前7世紀には南ロシアの遊牧民であるスキタイが、メソポタミアやエジプトへ進入を繰り返した。スキタイは東西交易を行い、黒海のアゾフ海から中央アジアのイッセドネスまで、ステップ地帯を横断するルートが伸びた。スキタイではギリシアの影響を受けた工芸品も作られ、素材には黄金や金銀の合金であるエレクトラムが用いられた[107]

絹馬交易

紀元前4世紀からは遊牧民の匈奴西域を支配した。中国では翡翠と交換するための絹の輸出が増え、交易を行っていた月氏は絹の民族とも呼ばれたが、匈奴に征服される。匈奴は河西回廊の貿易ルートに軍を置き、華北でと交戦する。その一方で東方とも盛んに交易をして、絹を入手するために馬を送ったため、のちに絹馬交易とも呼ばれた[注釈 8]。匈奴は東の中国から入手した絹を用いて西のパルティアと貿易を行い、西方の絨毯や装飾品と交換した。匈奴は紀元前2世紀にはタリム盆地を支配して、西域進出をする前漢と対立した。両者は和平し、前漢は匈奴に絹を貢納するとともに、王族の女性(公主)を匈奴王に嫁がせた[109]

紀元前1世紀のタリム盆地の西域諸国

紀元前1世紀には匈奴が内紛で影響力を弱めたために漢の西域経営が安定して、東西貿易が活発となる。からの輸出品では絹が最も重要であり、漢とパルティアが直接に取り引きを行うようになると流通が増加し、絹は西方ではセレスの名で知られた。ローマ帝国の博物学者プリニウスや、天文学者・地理学者のプトレマイオスもセレスについて記しているが、絹の製法はビザンツ帝国ユスティニアヌス帝の時代までヨーロッパでは知られていなかった[110]

東西貿易はオアシス諸国の技術や文化の向上につながり、人口も増加して55カ国となった。5世紀頃からはソグド人がモンゴル高原や華北での貿易に進出して、交易拠点にコロニーを建設した。ソグド人は漠北、高車突厥ウイグルなどの王国でも働き、隊商の指導や官僚として重用された。青海地方では遊牧民の吐谷渾が青海路を支配して5世紀から6世紀にかけて東西貿易で利益を得たが、が吐谷渾を攻撃して西域四郡を設置した。6世紀から遊牧民の突厥が中央アジアを領内に収め、7世紀には唐が突厥にかわって進出して、駅道や通行許可証の制度を整えた[111]

北方の交易圏

北方のオホーツク文化コリヤーク文化の交易では、工芸品になるセイウチの牙、毛皮、青銅や鉄に金属製品が取り引きされた。オホーツク北岸のコリヤーク文化圏は夜叉国とも呼ばれ、夜叉国ではカムチャッカ半島で狩ったセイウチの牙を送って流鬼国から金属製品を入手した。オホーツク文化圏に属する流鬼国はサハリンに住むニヴフであり、地元で狩ったテンの毛皮や、夜叉から入手したセイウチの牙を送って、黒水靺鞨から金属製品を入手した。黒水靺鞨は中国の唐に朝貢をしており、流鬼から入手したテンの毛皮やセイウチの牙を唐へ送って回賜を受け取っていた。のちには流鬼国も唐へ朝貢を送るようになる。中国の北方では営州が異民族との交流で栄え、契丹や靺鞨が住んでおり、毛皮のほかに薬用人参やジャコウなどの物産も運ばれた[112]

東アジア

前漢時代の璧

軟玉の翡翠を用いた玉器は、と呼ばれるものが紀元前22世紀から作られていた。の時代には装身具に用いる軟玉や、貝貨として貨幣にも用いられたタカラガイが遠方から運ばれていた。『禹貢』、『水経注』、『山海経』などによると、翡翠は中央アジアのほかに揚州浙江陝西といった中国各地でも産出した記録がある。タカラガイは熱帯や亜熱帯の海で生息しており、南方から運ばれていた。玉製品はの時代に入るとさらに普及した[113]

冊封と朝貢貿易

職貢図》、6世紀の梁朝

冊封とは、中国皇帝が周辺国と結ぶ外交関係であり、周辺国の君主は形式的に中国皇帝の臣下となるかわりに自治を認められた。中国の統治原理では、中央と地方の外には、少数民族の指導者を地方官に任命する間接統治があり、さらに外には異民族統治の藩部、朝貢による統治、相互関係の強い互市国、そして教化が及ばない化外という分類がされていた。冊封を結んだ国とは朝貢という形式で管理貿易を行い、周辺国は貢物として方物(礼物)を送り、中国は貢物よりも高価な回賜(褒美)を送った。朝貢をする国が遠方にあるならば、一定の周期で朝貢するように取り決める場合が多く、年期制と呼ばれた。朝貢は中国側にとって不利な貿易であったが、安全保障として役立った。冊封の体制は前漢の時代に整い、朝貢の制度は中国の周辺国でも行われた。たとえば奈良時代の日本は渤海国から朝貢を受けており、内モンゴルから華北にかけてを領土としたは、西夏などの国から朝貢を受けた[114]

西域経営

ソグディアナで鋳造された中国様式の硬貨

漢の武帝は、中央アジアの遊牧民である匈奴対策のために、月氏への使者として張騫を送る。張騫は当初の目的を果たせずに帰国するが、彼は西方の情報を武帝に伝えて、漢の西域進出のきっかけとなった。は6世紀から吐谷渾を攻撃して、西域での官貿易を再開して、長安洛陽を訪れる隊商を歓待した。隋の西域経営はに引き継がれ、唐は都市と州府を駅道で結んで通行証にあたる過所を発行した。中央アジアにおける過所は隊商の許可も兼ねており、漢人の商人が西域の貿易に参加しやすくなった。唐は外来のソグド人を興胡という身分に定め、内地の商人である行客とともに課税対象とするかわりに過所を発行して通行を保証した。唐の駅伝制では、駅制は国都と州府の使者や緊急の情報伝達用、伝制は公用の交通や輸送として使われ、駅道は貢納、軍事、交易を支えた。絹の産地である河東河南、剣南道から中央アジアに庸調の絹が送られ、8世紀の中央アジアでは絹が帛練と呼ばれて物品貨幣に用いられた[115]。オアシス国家や遊牧民は、貿易ルートを唐に管理されることと引きかえに唐領内の交易に参加する機会を得て、唐の首都である長安にはソグド人の隊商が西域の産物をもたらした。ササン朝からはペルシアの宝石、香料、貴金属細工、織物などの物産のほかに衣食住の風俗や音楽も流入して、長安に住むペルシア系の人々は胡人と呼ばれた[116]。7世紀にイスラームのカリフ国の攻撃でササン朝が滅び、アラブ軍はソグディアナも占領したため、多数のペルシア人やソグド人が長安に亡命した[117]

海上貿易

上海万博に際し復元された遣唐使船

前漢の時代には、海賈と呼ばれる商人が日南黄支国に進出しており、『漢書』に記録がある。絹や金を運んで真珠や宝石、ガラス製品と交換し、移動には港ごとに地元の船を仕立てていたので長期の旅となった[118]。唐の後半には海上貿易が盛んになり、海商と呼ばれる商人も現れた。交易港として栄えた広州泉州杭州をはじめとする港市には、海上貿易を管理する市舶司が設置され、イスラーム教徒の商人も訪れる。イスラーム商人は蕃坊に住み、広州に滞在する外国人は住唐と呼ばれた。

コショウ、クローブ、蘇芳といった東南アジアやインド洋の香料や染料が唐に輸入され、朝鮮の新羅はそれを中継貿易で日本へ送った。倭国時代の日本は、卑弥呼や5世紀の倭の五王が中国と冊封を結んでいるが、のちの時代の天皇は結んでいない。ただし遣隋使や遣唐使は、中国では朝貢として記録された。日本は600年遣隋使を派遣して、838年の最後の遣唐使を送るまで朝貢は続いた。安史の乱ののちは唐の勢力が衰え、新羅では張保皐のように貴族や軍の指導者から私貿易を始めて富を得る者も現れる。唐の商人も私貿易に参加して、唐の商船には新羅や日本の乗員もいた。日本の朝貢品は真綿、銀など国内で納税されたものが中心で、当時は物品貨幣として使えるものが中心で、のちに和紙砂金が加わる[119]。輸入品には漢籍や仏典などの書物、美術工芸品、薬物と香料がある。ミカンのように食文化や喫茶文化に影響を与えたものもあった[120]。遣唐使が停止したのちも交流は続き、874年の入唐使では外交使節や外国商人ではない役人も香料や薬物を求めて貿易に関わっていた[121]。日本への輸入品は宝物として正倉院に収められて、唐物とも呼ばれて重宝された[注釈 9][122]

アメリカ

メソアメリカ

黒曜石の刃物の断片

メソアメリカ文明は、寒冷な高地と、熱帯の低地に大きく分かれる。石器を発達させたマヤ文明では、道具や装身具に用いる石材の交易が盛んで翡翠や黒曜石が重要な品とされ、ほかに装身具となるケツァールの羽根や、低地で産するカカオも珍重された。ただし、メソアメリカには運搬に適した大型の家畜や車輪が存在せず、人力で運ばれたため、穀物のようなかさばる物資の貿易には制約となった。2世紀から6世紀にかけてのメキシコ中央高地では、テオティワカンが黒曜石の交易で繁栄した[123]

マヤ地域の南東部のモタグア川は上流で黒曜石、中流で翡翠を産出して、高地と低地をつなぐ交易路となった。モタグア川が合流するコパン川流域では、3世紀から8世紀にかけてコパンが黒曜石を低地の都市に輸出して発展した[124]。コパンは高地のイシュテペケ英語版から黒曜石を採掘して主に刃物として用いており、中でも緑色黒曜石が珍重された。また、コパンには生息しないウミギク貝が翡翠とセットで発見されており、地域間の広範な交流や交易が存在したとされる[125]。コパンは738年に属領であったキリグアとの戦いに敗れて、交易路の支配権を失う[126]。古典期マヤ文明は8世紀に衰退し、かわってプトゥン・マヤ人がユカタン半島で海上貿易のルートを開拓する[127]

南アメリカ

モチェ文化の黄金のトウモロコシ像

アンデス文明は、砂漠が広がる乾燥した海岸地帯と、植生が多様な山岳地帯に大きく分かれる。紀元前2000年から1700年にかけてリャマの家畜化が進み、紀元前1500年から紀元前1000年には海岸と山岳の間で交易が行われた。標高差が激しく環境が変化に富むアンデスでは、垂直統御とも呼ばれる習慣を用いて物資を入手していた。これは生態系が異なる標高の土地へ出向いて、地元にない資源の収集や作物の栽培などを行うというものだった[128]

山岳地帯のラ・ガルガーダ遺跡では、エクアドルの海岸に生息するウミギクガイ英語版で作った装飾品や、アマゾンのインコの羽根が発見されている。紀元前8世紀から5世紀には黒曜石の石器や金製品も交易品に加わり、紀元前4世紀から2世紀からはリャマが運搬に使われて物資の量が増えた。1世紀から7世紀の海岸に存在したモチェはアンデス最初の国家とも言われ、金属の装飾品、精製土器、トルコ石が交易品に加わった。5世紀から7世紀にかけてウミギクガイの出土が急増しており、貝は豊作や豊穣の儀礼に用いられることから、地域の乾燥化との関係も指摘されている[129]


注釈

  1. ^ プランテーションの作物としては、サトウキビコーヒーノキ綿花タバコゴムノキアブラヤシなどがある。
  2. ^ ホメーロスの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』には、フェニキア人が人さらいの海賊まがいとして描かれている[64]
  3. ^ 国内のアゴラの穀物価格は公定価格が維持されていたが、紀元前4世紀にアテナイの海上支配が衰えると、エンポリウムの貿易では穀物価格が高騰して、アゴラの価格にも影響を与えた[67]
  4. ^ アテナイの喜劇作家アリストパネスの戯曲『アカルナイの人々』では、ペロポネソス戦争の最中に敵国と単独和平をして貿易で儲ける人物が登場して、戦争に積極的な有力者と対照的に描かれている[69]
  5. ^ ペトロニウスの小説『サテュリコン』に登場する解放奴隷のトリマルキオ英語版が、貿易で成功したのちに土地所有者に転じているのも、こうした価値観の表れとされる[73]
  6. ^ 紀元前3千年紀に編纂されたギルガメシュ叙事詩には、英雄ギルガメシュレバノンスギを手に入れるエピソードがあり、当時の事情を表しているとされる[81]
  7. ^ 南インドのシャンガム文学の叙事詩にはヤヴァナの貿易活動も謳われた[98]
  8. ^ 絹馬交易という語は、松田壽男によって考案された[108]
  9. ^ 唐物は、『竹取物語』、『うつほ物語』、『源氏物語』などの文学にも描かれている[122]
  10. ^ 中世に成立した説話集である『千夜一夜物語』には、バスラの船乗りで海上貿易を行ったシンドバードをはじめとして、8世紀から9世紀にかけての広範な貿易ルートをうかがわせる物語が収められている。
  11. ^ フィレンツェの作家であるボッカチオの『デカメロン』には、商人と海賊を兼業して利益を得た話が収められており、当時の生活を反映していると言われる[137]
  12. ^ 中世のヴェネツィアにおける貿易を題材とした作品として、シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』が有名である。
  13. ^ 北欧の叙事詩を収めたサガや、北欧神話の歌謡集『エッダ』には、贈与が重要な役割を果たす逸話が多く残されている。
  14. ^ 地理・歴史学者であるアブー・ザイドwikidataの『シナ・インド物語フランス語版』やマスウーディの『黄金の牧場』には、内陸の商人たちが海路で広州などへ向かった様子が記されている。
  15. ^ ボッカチオやチョーサーはこれをタタールの織物やタタールのサテンと表現している。
  16. ^ オランダのデルフトに住んでいた画家ヨハネス・フェルメールの作品『兵士と笑う女』には北アメリカのビーバーの毛皮帽子、『地理学者』には和服が描かれており、当時のオランダの繁栄がうかがえる[215]
  17. ^ オランダ東インド会社の資本金は650万グルデンで株主は有限責任制だった。対するイギリス東インド会社の第1航海の起債は6万8000ポンド(約53万グルデン)だった。
  18. ^ ネイボッブには帰国後に腐敗選挙区から下院議員に当選する者も出て批判の声があがり、東インド会社の独占廃止と第1次選挙法改正 (Reform Act 1832につながった[221]
  19. ^ マデイラ諸島カボヴェルデサントメに植えたサトウキビは地中海よりも育ちがよかった。
  20. ^ イギリスのダニエル・デフォーによる小説『ロビンソン・クルーソー』の主人公も、ブラジルに農園を持つ奴隷商人だった[229]
  21. ^ オラウダー・イクイアーノ英語版フレデリック・ダグラスは作品を通して奴隷制度の廃止を訴えた[230]
  22. ^ 東南アジアやスリランカの胡椒・丁子・ナツメグ・メイス・シナモンが主な商品だった[233]
  23. ^ アラビア半島の乳香・馬、東アフリカの金・象牙、ペルシアの絹織物・絨毯などが主な商品だった[233]
  24. ^ サンレイとは中国語の生利(shengli)、商旅(shanglu)などを由来とする説があり、パリアンとはタガログ語で駆け引きが行われる場所を意味した[237]
  25. ^ アメリカの小説家ジャック・ロンドンの短編集『南海物語』や、イギリスの小説家サマセット・モームの『作家の手帳』には、契約年季労働者やブラックバーダーの様子も描かれている。
  26. ^ ペート建設で得られる市場長や市場書記のワタン(vatan)が目的であった。ワタンとは17世紀以降の西インドにおける世襲の家職・家産であり、商品経済の浸透にともなって新しいワタンが作られていった[257]
  27. ^ イギリスでは1700年にはキャラコ禁止法英語版1720年にはキャラコ輸入禁止法が成立し、イギリスの繊維業者が保護された。
  28. ^ 強制栽培は当時からオランダでも問題視されており、エドゥアルト・ダウエス・デッケルは、ムルタトゥーリのペンネームで小説『マックス・ハーフェラール』を発表して、強制栽培制度を告発した[266]
  29. ^ のちに20世紀アメリカの作家アレックス・ヘイリーは、ガンビアからアメリカへ運ばれた祖先の体験をもとに小説『ルーツ英語版』を書きベストセラーとなる。のちにテレビドラマ化もされた。
  30. ^ ジャーナリストのエドモンド・モレルの『赤いゴム』、作家ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白英語版』には、自由国時代のコンゴが描かれている[299]
  31. ^ フランス人はインヌ族やアルゴンキン語族を支持する一方で、イギリス人はイロコイ連邦を支持しており、フランス対イギリスの代理戦争の面もあった[309]
  32. ^ ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラー内閣が自給自足政策を進めたが、食糧や石油をはじめ国内での自給は不可能であり、のちにアメリカが保護貿易政策をとった点も影響して行き詰まった[318]
  33. ^ 世界経済を工業製品の先進国と一次産品の途上国に二分して考えると、工業製品は技術革新や新製品があるため所得が上がりやすいが、一次産品は相対的に工業製品と比べて不利となる。そこで、一次産品価格を引き上げて工業製品の価格にリンクしつつ、先進国からの援助も含めて途上国の工業化をすすめることが目標とされた[334]
  34. ^ HPAEsは大きく3つに分かれ、第1は日本、第2は1960年代の香港、台湾、韓国シンガポール、第3は1970年代と1980年代のマレーシアタイインドネシア中国となる。
  35. ^ 貿易面での構造調整プログラムは、輸出の促進による国際収支の改善を目的としたが、輸出品目の多様化を進めなかったため国際価格が低落し、公定価格の撤廃などが影響して農民の生活は改善されなかった。地元の民間資本や企業家が育っていない中で公共部門の民営化は、外資系企業による支配の強化や民族対立にもつながった[350]
  36. ^ 日本の輸出は、1960年代の繊維や鉄鋼、1981年の自動車の輸出自主規制、1986年の工作機械の輸出自主規制などを起こした。日本の輸入に関しては、1970年代の牛肉やオレンジ、1980年代の半導体、米、スーパーコンピュータ、1990年代のフィルム・印画紙などが問題とされた。
  37. ^ トヨタ自動車は全世界の生産が22%減少し、ソニーは26億ドル、東芝は28億ドル、パナソニックは38億ドルの損失となった[367]

出典

  1. ^ a b c 山本 2000.
  2. ^ キンドルバーガー 2014, 第3章、付録B.
  3. ^ ポランニー 2005, p. 159.
  4. ^ コトバンク交易」世界大百科事典 、精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より
  5. ^ グリアスン 1997.
  6. ^ 瀬川 2013.
  7. ^ 鶴見 1987, p. 114.
  8. ^ サーリンズ 2012.
  9. ^ マリノフスキ 2010.
  10. ^ 角谷 2006, pp. 161–164.
  11. ^ モース 2009, 第4章第3節.
  12. ^ ポランニー 2005, p. 180.
  13. ^ 生田 1998, p. 125.
  14. ^ 丸山 2010, p. 266.
  15. ^ 濱下 1997, pp. 60–61.
  16. ^ ポランニー 2005, pp. 491–493.
  17. ^ 角谷 2006, p. 160.
  18. ^ 栗本 2013, pp. 732-752/3838.
  19. ^ 栗本 2013, pp. 735-740/3838.
  20. ^ 安野 2014.
  21. ^ 栗本 2013, pp. 735-746/3838.
  22. ^ 大津, 常木, 西秋 1997, p. 109.
  23. ^ 長澤 1993, pp. 35–37.
  24. ^ a b c d 桜井 1999.
  25. ^ 上田 2006.
  26. ^ ポメランツ 2015, p. 304.
  27. ^ 長澤 1993, p. 22.
  28. ^ リード 1997, 第1章.
  29. ^ 永田 1999.
  30. ^ 青山, 猪俣 1997, p. 7.
  31. ^ a b ポメランツ 2015, p. 195.
  32. ^ 橋本 2013, p. 213.
  33. ^ 湯川 1984, pp. 114–117.
  34. ^ a b 齋藤 2004.
  35. ^ a b 河原 2006, 第2章.
  36. ^ 鶴見 1987, p. 98.
  37. ^ a b 松本 2010.
  38. ^ 四日市 2008.
  39. ^ 上里 2012, p. 110.
  40. ^ a b c マクニール 2013, 第1章.
  41. ^ 栗本 2013, p. 107.
  42. ^ 清水 1984, p. 179.
  43. ^ 熊野 2003, 第2章.
  44. ^ 薩摩 2018.
  45. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, p. 231.
  46. ^ 服部 2002.
  47. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 242–243, 254–255.
  48. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 277–280, 285.
  49. ^ 高宮 2006, 第2章第4節.
  50. ^ 屋形 1998.
  51. ^ ポランニー 2005, pp. 422–428.
  52. ^ 蔀 1999, pp. 252–253.
  53. ^ 栗田, 佐藤 2016, pp. 414–416.
  54. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 703–710, 774-780/8297.
  55. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 881–894, 912-924/8297.
  56. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1919-1932/8297.
  57. ^ クレンゲル 1991, 第2章、第3章.
  58. ^ 栗田, 佐藤 2016, p. 31.
  59. ^ クレンゲル 1991, 第15章.
  60. ^ 栗田, 佐藤 2016, p. 100.
  61. ^ 栗田, 佐藤 2016, p. 36.
  62. ^ 栗田, 佐藤 2016, p. 169.
  63. ^ 栗田, 佐藤 2016, p. 50.
  64. ^ 栗田, 佐藤 2016, pp. 139–140.
  65. ^ 栗田, 佐藤 2016, pp. 136–137.
  66. ^ 前沢 1999, pp. 161–165.
  67. ^ 前沢 1999, pp. 166–168.
  68. ^ 前沢 1999, p. 162.
  69. ^ ポランニー 2005, pp. 326–329.
  70. ^ ポランニー 2005, pp. 237–239.
  71. ^ グリーン 1999, pp. 31, 90.
  72. ^ グリーン 1999, pp. 367–369.
  73. ^ 坂口 1999, p. 38.
  74. ^ 坂口 1999, pp. 30–32.
  75. ^ 蔀 1999, pp. 258–260.
  76. ^ a b 村川訳註 2011.
  77. ^ 東野 1997, pp. 59–60.
  78. ^ 長澤 1993, pp. 159–160.
  79. ^ 栗田, 佐藤 2016, pp. 106–108.
  80. ^ 佐藤, 池上 1997, 第2章.
  81. ^ a b 小林 2007, p. 171.
  82. ^ 小林 2007, p. 189.
  83. ^ 小林 2007, p. 141.
  84. ^ 小林 2007, p. 183.
  85. ^ 大村 2004, 第3章、第4章.
  86. ^ 明石 2015.
  87. ^ 長澤 1993, pp. 90–92.
  88. ^ 小林 2007, p. 175.
  89. ^ a b c 坂本 1999.
  90. ^ a b 遠藤 2013.
  91. ^ 小林 2007.
  92. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2458-2482/8297.
  93. ^ 宮本, 松田編 2018, p. 2490/8297.
  94. ^ 宮内, 奥野 2013.
  95. ^ 木村 2013.
  96. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 100–101, 178–179.
  97. ^ 山崎, 小西編 2007, p. 278.
  98. ^ 蔀 1999, pp. 283–285.
  99. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 144–145.
  100. ^ 山崎, 小西編 2007, pp. 169–170, 178–179.
  101. ^ 生田 1998, pp. 第45-46.
  102. ^ 石澤, 生田 1998, 第4章.
  103. ^ 長澤 1993, pp. 55–56.
  104. ^ 長澤 1993, pp. 56, 60–62.
  105. ^ 長澤 1993, pp. 29–31.
  106. ^ 荒川 2010, 第1部.
  107. ^ 長澤 1993, pp. 72, 79–80.
  108. ^ 松田壽男 (1967-06-30). “縞馬交易と「偶氏の玉」 - 最古のシルク・ロードについて”. 東洋史研究 26 (1): 30-57. https://doi.org/10.14989/139060. 
  109. ^ 長澤 1993, pp. 108–110.
  110. ^ 長澤 1993, pp. 132–133, 138–140.
  111. ^ 荒川 2010, p. ).
  112. ^ 菊池 2009, 第5章.
  113. ^ 山田 2000, p. 13、19.
  114. ^ a b 濱下 1997.
  115. ^ 荒川 2010, 第10章.
  116. ^ 長澤 1993, pp. 270–272.
  117. ^ 長澤 1993, pp. 291–292.
  118. ^ 可児 1984, p. 2.
  119. ^ 東野, 2007 & pp146-148.
  120. ^ 東野 2007, pp. 154–156.
  121. ^ 東野 2007, pp. 51–52.
  122. ^ a b 河添 2014.
  123. ^ 青山, 猪俣 1997, p. 85.
  124. ^ 中村 2007, p. 227.
  125. ^ 中村 2007, pp. 175, 186.
  126. ^ 中村 2007, pp. 230–231.
  127. ^ 中村 2007, 第3章-第4章、第7章.
  128. ^ 大貫 1979.
  129. ^ 関 2010.
  130. ^ 家島 2006.
  131. ^ ウェザーフォード 2014.
  132. ^ a b 宮崎 1994, 第3章.
  133. ^ バットゥータ 1996.
  134. ^ a b 家島 2006, 第2部第1章.
  135. ^ 加藤 1995, 第2章.
  136. ^ 清水 1984.
  137. ^ 清水 1984, pp. 179–180.
  138. ^ 清水 1984, pp. 179, 191.
  139. ^ ブローデル 1992, p. 25.
  140. ^ 高山 1999, 第7章、第8章.
  141. ^ ヘリン 2010, pp. 219–220.
  142. ^ 齊藤 2011.
  143. ^ 生田 1998, pp. 31–32, 37.
  144. ^ 生田 1998, pp. 44–45.
  145. ^ 生田 1998, p. 16.
  146. ^ 家島 2006, 第5部第4章.
  147. ^ 生田 1998, pp. 8–10.
  148. ^ 辛島編 2004, p. 178-181, 184.
  149. ^ 辛島編 2007, p. 144.
  150. ^ a b 小谷編 2007, pp. 195–197.
  151. ^ 辛島編 2004, 第4章.
  152. ^ 生田 1998, 序章.
  153. ^ マクニール 2013.
  154. ^ 前嶋 1991.
  155. ^ メノカル 2005.
  156. ^ ヘリン 2010, pp. 208–211.
  157. ^ ヤーニン 1998.
  158. ^ 和田編 2004, 第4章.
  159. ^ 山田 1999.
  160. ^ 佐藤, 池上 1997, 第4章.
  161. ^ 佐藤, 池上 1997, 第10章、第11章.
  162. ^ ウォルフォード 1984, 第4章、第5章.
  163. ^ 熊野 2003, 第2章、第4章.
  164. ^ 角谷 2006, pp. 176–178, 187–190.
  165. ^ a b 宮崎 1994, 第6章.
  166. ^ 長澤 1993, pp. 330–331.
  167. ^ 長澤 1993, pp. 322–323.
  168. ^ 長澤 1993, pp. 324–326.
  169. ^ 長澤 1993, pp. 327–329.
  170. ^ a b ウェザーフォード 2014, 第9章.
  171. ^ 可児 1984, p. 3.
  172. ^ 四日市 2008, p. 145.
  173. ^ a b c 森 2008.
  174. ^ 榎本 2008.
  175. ^ 四日市 2008, pp. 125–128.
  176. ^ 四日市 2008, pp. 131, 139.
  177. ^ ウェザーフォード 2014, 第10章.
  178. ^ 田中 1997, 第1章.
  179. ^ 臼井 1999.
  180. ^ 上里 2012, pp. 65–69.
  181. ^ 上里 2012, pp. 89–91.
  182. ^ 上里 2012, pp. 105–106, 109–110.
  183. ^ ブルック 2014, p. 83.
  184. ^ 斯波 1995, p. 37.
  185. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2519-2531/8297.
  186. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2535-2545/8297.
  187. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2549-2554/8297.
  188. ^ 臼井 1992, 第2章.
  189. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1633-1646/8297.
  190. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1663-1670/8297.
  191. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1603–1609, 1675-1687/8297.
  192. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1639-1646/8297.
  193. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 940-947/8297.
  194. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 979–998, 1053, 1072-1078/8297.
  195. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1268-1275/8297.
  196. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1329-1348/8297.
  197. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1348-1353/8297.
  198. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1418-1430/8297.
  199. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2945-2965/8297.
  200. ^ a b 青山, 猪俣 1997, pp. 157–158.
  201. ^ 中村 2007, p. 91.
  202. ^ 小林 1985.
  203. ^ 関 2010, p. 196.
  204. ^ 関 2010, pp. 241–243.
  205. ^ 関 2010, pp. 253–254.
  206. ^ ダルトロイ 2012.
  207. ^ 網野 2018, p. 203.
  208. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2893–2899, 2928, 2945/8297.
  209. ^ ホブズボーム 1993.
  210. ^ a b マグヌソン 2012, 第2章.
  211. ^ 和田編 2004, 第5章.
  212. ^ a b マグヌソン 2012, 第6章.
  213. ^ 中沢 1999.
  214. ^ 名城 2008.
  215. ^ a b ブルック 2014.
  216. ^ 谷澤 2010.
  217. ^ ウォルフォード 1984, 第5章.
  218. ^ a b 浅田 1989, 第1章.
  219. ^ 永積 2000, 第2章.
  220. ^ 宮本, 松田編 2018, 第10章.
  221. ^ a b 浅田 1989, 第9章、第10章.
  222. ^ ホント 2005.
  223. ^ 服部 2002, 第6章第4節.
  224. ^ エルティス, リチャードソン 2012, 第1章.
  225. ^ エルティス, リチャードソン 2012, p. 序章.
  226. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2985-2991/8297.
  227. ^ a b エルティス, リチャードソン 2012, 第4章.
  228. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3022-3028/8297.
  229. ^ a b ポメランツ, トピック 2013, p. 250.
  230. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3060-3067/8297.
  231. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3162-3188/8297.
  232. ^ エルティス, リチャードソン 2012, 第6章.
  233. ^ a b c 薩摩 2018, p. 104.
  234. ^ 薩摩 2018, pp. 104–106.
  235. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2928-2933/8297.
  236. ^ 生田 1998, 第1章.
  237. ^ a b 菅谷 1999.
  238. ^ ブルック 2014, 第6章.
  239. ^ 斯波, 1995 & 123, 139-140.
  240. ^ 濱下 1997, pp. 65–66.
  241. ^ ポメランツ, トピック 2013, p. 265.
  242. ^ 山本編 2000, p. 226.
  243. ^ a b 秋道 2000.
  244. ^ ポメランツ, トピック 2013, p. 349.
  245. ^ ポメランツ 2015, p. 294.
  246. ^ マグヌソン 2012, 第4章.
  247. ^ マグヌソン 2012, p. 228.
  248. ^ a b 玉木 2012.
  249. ^ 服部 2002, pp. 114–115, 122–123.
  250. ^ マグヌソン 2012.
  251. ^ ホブズボーム 1993, p. 88.
  252. ^ a b c ホブズボーム 1993, 第3章.
  253. ^ ホブズボーム 1993, p. 80.
  254. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 5679–5697, 5737-5750/8297.
  255. ^ ホブズボーム 1993, p. 94.
  256. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3340-3347/8297.
  257. ^ 小谷編 2007, pp. 230–231, 251–255.
  258. ^ 小谷編 2007, pp. 247–255.
  259. ^ a b ポメランツ, トピック 2013.
  260. ^ 小谷編 2007.
  261. ^ 辛島編 2004, pp. 367–368.
  262. ^ 生田 1998.
  263. ^ 斯波 1995, 第2章.
  264. ^ 白石 2000, pp. 43–44.
  265. ^ 白石 2000, pp. 26–27.
  266. ^ 石坂 2013.
  267. ^ 白石 2000, pp. 68–71.
  268. ^ 鶴見 1987, p. 156.
  269. ^ 佐々木 1996.
  270. ^ 森永 2014, p. 5.
  271. ^ a b 森永 2014.
  272. ^ ウォルフォード 1984, p. 304.
  273. ^ 小松編 2000, p. 305.
  274. ^ 小松編 2000, 第6章.
  275. ^ 角山 1980, 第1章.
  276. ^ a b 角山 1980, p. 101.
  277. ^ 永積 2000, p. 139.
  278. ^ 東野 1997, pp. 176–180.
  279. ^ 鶴見 1987, p. 144.
  280. ^ ブルック 2014, 第3章.
  281. ^ 永積 1999.
  282. ^ 濱下 1997, 第9章.
  283. ^ ポメランツ, トピック 2013, p. 150.
  284. ^ 山田編 1995.
  285. ^ 多田井 1997, p. 下227.
  286. ^ 濱下 1997, pp. 25–28.
  287. ^ 濱下 1997, pp. 173–174.
  288. ^ 武田編 2000.
  289. ^ ナン 2018, pp. 181–183.
  290. ^ 栗本 2013, pp. 1124-1130/3838.
  291. ^ エルティス, リチャードソン 2012.
  292. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3375-3088/8297.
  293. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3434-3447/8297.
  294. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 2728-2753/8297.
  295. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3558-3603/8297.
  296. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3661-3680/8297.
  297. ^ 坂井 2003.
  298. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3085–3097, 3101/8297.
  299. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3923-3941/8297.
  300. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 3893–3904, 3947/8297.
  301. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 1448-1462/8297.
  302. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 4378–4387, 4402-4419/8297.
  303. ^ ダイアモンド 1997, p. 386.
  304. ^ a b 湯浅 1998.
  305. ^ 池本, 布留川, 下山 2003.
  306. ^ 臼井 1992, 第7章.
  307. ^ 木村 2000.
  308. ^ ポメランツ, トピック 2013, p. 151.
  309. ^ a b ブルック 2014, 第2章.
  310. ^ 木村 2004.
  311. ^ カーク 2014, p. 21.
  312. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, p. 51.
  313. ^ ヤーギン 1991, 第1部.
  314. ^ a b c 秋元 2009, 第1章.
  315. ^ ポメランツ 2015, p. 293.
  316. ^ ホブズボーム 1993, 第2章.
  317. ^ a b ヤーギン 1991, 第2部第10章.
  318. ^ トゥーズ 2019, pp. 330–334, 346–347.
  319. ^ 野林, 他 2003, 第3章.
  320. ^ ヤーギン 1991, 第2部第11章.
  321. ^ ヤーギン 1991, 第2部第15章.
  322. ^ ヤーギン 1991, 第3部第16章、第18章.
  323. ^ トゥーズ 2019, pp. 466–467.
  324. ^ 橋本 2013, p. 214.
  325. ^ 橋本 2013, p. 216.
  326. ^ 橋本 2013, p. 220.
  327. ^ 橋本 2013, p. 226.
  328. ^ 猪木 2009, 第1章、第2章.
  329. ^ 野林, 他 2003, 第4章.
  330. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 285–287.
  331. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 278–279.
  332. ^ 阿部, 遠藤 2012, pp. 308–310.
  333. ^ 平野 2009, p. 3.
  334. ^ a b 平野 2009, p. 4、p.10.
  335. ^ 平野 2009, p. 5.
  336. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 315–317.
  337. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 317–319.
  338. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 319–321.
  339. ^ 猪木 2009, 第2章.
  340. ^ a b 野林, 他 2003, 第5章.
  341. ^ 猪木 2009, 第6章.
  342. ^ 平野 2013, 第2章.
  343. ^ 篠田 2005.
  344. ^ 大野, 桜井 1997, p. 36.
  345. ^ 大野, 桜井 1997, p. 157.
  346. ^ 大野, 桜井 1997, p. 291.
  347. ^ 平野 2013.
  348. ^ 内藤, 中村編 2006, 第11章.
  349. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 5737–5743, 5756–5762, 5909-5913/8297.
  350. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 6356–6367, 6773-6379/8297.
  351. ^ 宮本, 松田編 2018, pp. 6325–6330, 6386/8297.
  352. ^ 平野 2013, 第2章、第3章.
  353. ^ 猪木 2009, 第5章.
  354. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 289–291.
  355. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 196–197.
  356. ^ 阿部, 遠藤 2012, 第9章.
  357. ^ a b c d e 阿部, 遠藤 2012, 第10章.
  358. ^ a b 野林, 他 2003, 第10章.
  359. ^ 古屋 2011.
  360. ^ 渡辺 2007.
  361. ^ クルーグマン, オブズフェルド, メリッツ 2017, pp. 289.
  362. ^ 山田 2003, p. 165.
  363. ^ 阿部, 遠藤 2012, p. 309.
  364. ^ 猪木 2009, 第3章.
  365. ^ a b c トゥーズ 2020, pp. 183–185.
  366. ^ a b トゥーズ 2020, pp. 259–260.
  367. ^ トゥーズ 2020, p. 184.





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「貿易史」の関連用語

貿易史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



貿易史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの貿易史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS