神戸ポートアイランド博覧会
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神戸ポートアイランド博覧会 Kobe Port Island Exposition | |
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イベントの種類 | 地方博覧会 |
通称・略称 | ポートピア'81(PORTOPIA '81)、神戸博 |
正式名称 | 神戸ポートアイランド博覧会 |
開催時期 | 1981年(昭和56年)3月20日〜9月15日 |
会場 |
兵庫県神戸市中央区 ポートアイランド (港島中町5-8丁目・港島6丁目南東部) |
主催 | 神戸ポートアイランド博覧会協会 |
来場者数 | 16,102,752人 |
最寄駅 | 神戸新交通ポートアイランド線 市民広場駅・南公園駅・中埠頭駅 |
概要
1970年の日本万国博覧会(大阪万博)の計画準備時に、神戸市は東部埋立地第4工区への第2会場誘致を図ったものの実現せず、万博終了後にポートアイランド計画と西神ニュータウン計画を背景に「理想都市の建設」をテーマとしたイベントの計画を進め、博覧会開催を1974年から検討した。当初は国際博覧会としての開催の可能性も含め検討されたが、特別博覧会について同一国の開催は5年以上の間隔を置く規定があり、当初の開催予定を1978年としていたため、沖縄国際海洋博覧会から5年未満であることと、跡地利用の制約や恒久施設化について問題が生じる可能性があるとして見送られた。
その後、ポートアイランドの完成を機に、地方博覧会としてポートアイランドのまちびらきに合わせて開催。「海の文化都市」の創造に向け、海と文化や海と都市の関係を作り出すことを理念とした。会期中は1,610万人の入場者があり、純益60億円を記録した。この博覧会の成功は、1980年代後半の「地方博覧会ブーム」の火付け役となり、神戸市は都市経営のモデルとして「株式会社神戸市」と称されるきっかけとなる。また、まちびらきに合わせて地方博覧会を開催するという手法は、1989年に横浜みなとみらい21地区で開催された横浜博覧会 (YES'89) でも踏襲された。
- メインテーマ:新しい“海の文化都市”の創造 (Creation of a New "Cultural City on the Sea")
- サブテーマ:「魅力ある未来都市」「21世紀の港とくらし」「広場としての太平洋」「手をつなごう世界のふるさと」
- 会場:神戸市中央区港島中町及び港島 ポートアイランド(総面積約80万平方メートル、展示面積約42.5万平方メートル)
- 東会場(主会場):港島7丁目全域・6丁目東側付近
- 西会場:港島中町6丁目西側付近
- 南会場:港島中町8丁目 ポートアイランド南公園予定地
- 東駐車場:港島6丁目南東部付近
- 西駐車場:港島中町5丁目付近
- 開催期間:1981年(昭和56年)3月20日(金)〜9月15日(火・祝)
- 入場者:16,102,752人
- 主催:財団法人神戸ポートアイランド博覧会協会
- 後援:総理府、法務省、外務省、文部省、厚生省、農林水産省、通商産業省、運輸省、郵政省、労働省、建設省、自治省、行政管理庁、経済企画庁、科学技術庁、環境庁、国土庁、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社、日本住宅公団、日本道路公団、本州四国連絡橋公団、阪神外貿埠頭公団、阪神高速道路公団、国際電信電話、日本貿易振興会、国際観光振興会、生活映像情報システム開発協会、新技術開発事業団、全国知事会、全国市長会、全国町村会、全国都道府県議会議長会、全国市議会議長会、全国町村議会議長会、近畿ブロック知事会、近畿市長会、兵庫県市長会、兵庫県町村会、兵庫県市議会議長会、兵庫県町村議会議長会、経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会、日本青年会議所、関西経済連合会、近畿商工会議所連合会、大阪商工会議所、京都商工会議所、日本放送協会、日本交通公社、日本旅行、近畿日本ツーリスト、阪急交通社、名鉄観光サービス、東急観光、朝日旅行会、全国農協観光協会、日本交通観光社
- シンボルマーク:創造の世界を表す光・進歩と発展を表す波を抽象的に捉え構成。白地にマリンブルーの配色で6本の光が放射状に伸びる形とし、6本それぞれの先端に波模様をかたどった。
- マスコットマーク:人魚を擬人化した男女ペアのキャラクター。
- テーマ曲:ゴダイゴ「ポートピア」(作詞:百田直裕 補作詞:奈良橋陽子、伊藤アキラ 作曲:タケカワユキヒデ)
- 役員
- 名誉総裁:鈴木善幸(内閣総理大臣)
- テーマ委員会座長:須田勇(神戸大学学長)
- テーマ委員:朝比奈隆(大阪音楽大学教授・大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者)、石野信一(太陽神戸銀行頭取)、上田篤(大阪大学工学部教授)、梅棹忠夫(国立民族学博物館館長)、尾上久雄(京都大学経済研究所教授)、川添登(建築評論家)、小林公平(宝塚歌劇団理事長)、小松左京(作家)、妹尾美智子(神戸市婦人団体協議会専務理事)、陳舜臣(作家)、服部正(神戸市民芸術文化推進会議常任委員・大阪社会事業短期大学教授)、米山俊直(京都大学教養学部助教授)
- 総合プロデューサー:小林公平
- 名誉会長:坂井時忠(兵庫県知事)、外島健吉(神戸商工会議所会頭)、光田顕司(神戸新聞社社長)
- 会長:宮崎辰雄(神戸市長)
会場
会場は神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)市民広場駅周辺から南公園駅、中埠頭駅にかけてであり、跡地はほぼ神戸コンベンションコンプレックスおよび住宅地として利用されている。海のすぐ前に建てられて、世界最大であった観覧車がある神戸ポートピアランドは、この博覧会当時からの遊戯施設域であった。
また、会場では中国から借り受けたジャイアントパンダ2頭が公開されて人気を集めた。神戸市出展のパビリオン「神戸館」及び太陽神戸銀行(現・三井住友銀行)出展の「神戸プラネタリウムシアター」が神戸市立青少年科学館として、印象的なコーヒーカップの形であった「UCCコーヒー館」もUCCコーヒー博物館として改装され、現在もポートライナー南公園駅前に建っている。それらは、神戸コンベンションコンプレックスとともに、当時を偲ばせる数少ない施設である。
テーマソング・CM
「ポートピア'81」のキャンペーンソングとして、ゴダイゴが歌う「ポートピア」が1980年5月1日、日本コロムビアからリリースされ、その年末、ゴダイゴは2年連続でNHK紅白歌合戦に出場を果たした。またゴダイゴは博覧会の開催PRを行うテレビCMにも出演した。
この他、1979年8月には大地真央が歌う「ポートピア'81がやってくる/ポートピア'81音頭」がビクターからリリースされ、1980年5月には鎌田英一・高橋キヨ子が歌う「神戸博音頭」、1981年3月には愛唱歌として神戸放送児童合唱団・奈々瀬ひとみ「光る海の城」/神戸放送児童合唱団「ザザザーン・ポートピア」、またポートピアランドのイメージソングとして平尾昌晃・秋篠美帆「恋人たちの港」/フォーバイオレッツ「愛のポートピアランド」がレコード化されている。
また松任谷由実が1981年に発表したアルバム『昨晩お会いしましょう』の1曲目「タワーサイドメモリー」の歌詞にも、ポートピアを歌った部分がある。
NHK「みんなのうた」では1981年4月-5月に放送された「きみはビーナス」(歌:関森れい、J.J.カンパニー)のロケ地にポートピアが使用された。
夏休み直前には国鉄(当時)が当博覧会PRのテレビCMを放映、寅さんシリーズのタコ社長役でお馴染みの太宰久雄が出演し、太宰扮する理髪師と利用客の小学生の少年とのやりとり(太宰「今年の夏休み、どこ行くの?」少年「ポのつくところ!」太宰「えっ、ポーランド!?」)が人気を集めた。
沿革
- 1974年12月 - 神戸市長(当時)の宮崎辰雄が、国際博覧会開催を含めた理想都市の建設をテーマとしたイベント検討を指示。その後神戸新聞社が博覧会開催を申し入れる[1]。
- 1975年 - 神戸商工会議所が博覧会開催への関心を示す[1]。
- 1976年 - 神戸経済同友会がポートアイランドの利用案としてメッセと博覧会開催を提言[1]。
- 1978年
- 2月 - 神戸市が新年度予算に博覧会調査費1000万円を計上し博覧会検討を本格化させる[1][2]。
- 4月1日 - 神戸市が経済局に博覧会開催準備プロジェクトチームを設置[1][2]。
- 4月15日 - 神戸市佐野雄一郎助役を本部長、企画・経済・港湾・開発各局長を本部員とする関係部局を集めた開催準備本部を開設[1][2]。
- 4月25日 - 神戸市・兵庫県・神戸商工会議所・神戸新聞社の提唱4団体による博覧会開催準備委員会を結成、第一回会合開催[2]。
- 5月19日 - 博覧会開催準備委員会の幹事会第一回会合開催[2]。
- 6月6日 - 博覧会開催時期を1981年春として合意に達する[2]。
- 8月8日 - 提唱4団体が1981年春のポートアイランドでの博覧会開催を正式発表。当初は会期2ヶ月余りの計画とした[2]。
- 8月16日 - 第一回テーマ委員会開催、メインテーマ決定[2]。
- 9月1日 - 神戸市が博覧会への市民提言を募集開始[2]。
- 9月8日 - 第2回テーマ委員会にてサブテーマと基本理念を決定[2]。
- 9月20日 - ポートアイランドでの博覧会計画の正式名称を「神戸ポートアイランド博覧会」に決定[2]。
- 12月19日 - 博覧会愛称を「ポートピア'81」に決定[2]。
- 12月13日 - 基本構想発表[2]。
- 1979年
- 1月11日 - 出展勧誘を開始[2]。
- 1月23日 - 神戸ポートアイランド博覧会協会設立、シンボルマーク決定[2]。
- 3月1日 - さんちかタウンに残り日数を表示するデジタルカウンターを設置。その後そごう神戸店、阪急百貨店本店・河原町店、神戸国際会館屋上にもカウンターを設置。
- 3月20日 - 会期を3月20日 - 9月15日への拡大を決定、入場者予測450万人とする[2]。
- 4月19日 - マスコットマーク決定[2]。
- 5月10日 - 博覧会協会を財団法人に改組、第一次財政計画を決定し約74億円規模とする[2]。
- 5月16日~8月14日 - テーマソング歌詞を募集、新井満・荒巻保子・ゴダイゴ・小林公平が審査。
- 5月24日 - 神戸市議会がポートアイランド博覧会に関する実行委員会を設置、その後一般規則や特別規則・基準を決定[2]。
- 6月1日 - 出展館申し込み開始[2]。
- 6月4日 - 出展館申し込み第1号として川崎製鉄グループが申し込む[2]。
- 7月7日 - 第2回理事会にて略称を「神戸博」に決定[2]。
- 7月30日 - 博覧会基本計画決定[2]。
- 10月8日 - 入場料金・開場時間・展示館敷地割り・第二次財政計画(156億円)を決定[2]。
- 11月3日 - 神戸市中央体育館にてテーマソング「ポートピア」を発表[2]。
- 12月4日 - 外国出展第一号としてアラブ首長国連邦が申し込む[2]。
- 12月8日 - レジャーランド施設の運営者を阪急電鉄に決定[2]。
- 1980年
- 1月23日 - レジャーランド「神戸ポートピアランド」・市民広場を着工[2]。
- 3月13日 - 天津市からジャイアントパンダの出展が決定[2]。
- 3月15日 - 総合起工式実施[2]。
- 3月19日-7月31日 - 第一次前売り券販売[2]。
- 3月28日 - 神戸プラネタリウムシアター着工[2]。
- 4月1日 - 博覧会記念近畿宝くじを第1回発売、その後記念宝くじを近畿ブロックで3回・全国で1回発売[2]。
- 5月2日 - 催物計画発表[2]。
- 7月1日 - 敷地を各出展者に引き渡し、各館相次いで起工式を実施[2]。
- 7月14日 - 外国館総合起工式実施[2]。
- 7月15日 - ポートピアサーカス構想発表[2]。
- 8月4日 - 海外展示物搬入開始[2]。
- 10月31日 - 鈴木善幸首相が博覧会名誉総裁に就任[2]。
- 11月1日-1981年1月31日 - 第二次前売り券販売[2]。
- 1981年
- 1月12日 - 外国館建物引き渡し[2]。
- 2月4日 - ポートアイランド内公的施設合同竣工式開催[2]。
- 2月14日 - 上野駅から神戸駅間で臨時急行列車「カルチャー・トレイン ポートピア'81」を運行、車内で「生きあう」をテーマとした文化講座を開催。
- 2月20日 - 銀河鉄道車両搬入[2]。
- 3月5日-12日 - 展示館プレスプレビュー開催[2]。
- 3月10日 - ジャイアントパンダ搬入[2]。
- 3月11日 - 神戸ポートピアランド竣工[2][2]。
- 3月19日 - 開会式開催。開会前日に皇太子・皇太子妃と2500名の招待客が出席し国際広場にて実施。
- 総指揮は宮崎辰雄協会会長・小林公平総合プロデューサー、構成演出は内海重典、演出は酒井澄夫、司会は宮岡寿雄協会事務局長。オーケストラ神戸フィルハーモニックと朝比奈千足指揮、吹奏楽団に兵庫県警察音楽隊・神戸市消防音楽隊・阪急少年音楽隊・指揮朝比奈隆、エレクトーン齋藤英美、筑前琵琶柴田旭堂、独唱五十嵐喜芳・上原まり(宝塚歌劇団)、合唱兵庫県合唱連盟85名・宝塚歌劇団44名、パレード須磨ノ浦女子高校ビューグルコーズ、フォークダンスカネディアンアカデミー生徒・港島小学校29名、音頭神戸市婦人団体協議会が出演。
- 皇太子・皇太子妃が臨席し開式の辞と国歌演奏・国旗掲揚、参加国・国内展示館旗の入場、博覧会旗の入場掲揚、協会会長挨拶、瓦力内閣官房副長官代読による総理大臣からの祝辞、兵庫県知事歓迎挨拶、皇太子の言葉の後ポートアイランド土入れ式の日に生まれた男女中学生2名が祝典花火スイッチを押し、200発の昼花火と神戸港全船舶の汽笛や消防艇の放水、南公園での風船1万個打ち上げと松蔭女子高校600名による「ポートピア'81」の人文字展開を行い、その後アトラクション「神戸の歴史と未来を歌う」「世界の子どもたち」「神戸博音頭」「北から南から今日は」を行った。
- 式典終了後正午から式典招待者による招待営業を行い、午後1時からは式典招待のできなかった来賓者やポートアイランド住民約2万人を入場させた。
- 3月20日 - 一般観覧開始。中央ゲートにて神戸市消防音楽隊のファンファーレの後兵庫県知事・神戸商工会議所会頭・神戸新聞社社長・兵庫県議会議長・神戸市議会議長・宮崎神戸市長によるテープカットを実施。
- 3月27日 - ポートピアランドにてダブルループコースターが故障。
- 3月30日 - 入場者100万人達成。閉場時刻を1時間延長。
- 5月1日 - 夜間開場開始。
- 5月23日 - ポートライナー三宮駅で1編成の案内輪が脱線しパンタグラフのずれによるショート停電し全線で5時間運転見合わせ[3]。
- 5月24日 - 入場者500万人達成。天皇・皇后が来訪。
- 6月4日 - ポートピアサーカスにて象が病死。
- 6月10日 - 自家用車駐車場の予約制を廃止、夜間割引を導入。
- 7月17日 - ポートライナーの運行ダイヤを改正、夜間増発を開始。
- 7月29日 - ジャイアントパンダ観覧時間を19時まで延長。
- 8月3日 - 入場者1000万人達成。
- 8月8日 - ポートライナーが故障し5時間運転見合わせ。
- 8月22日 - 台風22号により軽微な損傷が発生。
- 9月5日 - 夜間入場者数が期間中最高の104,826人を記録。
- 9月6日 - 入場者数が期間中最高の268,138人を記録。
- 9月8日 - 入場者数1500万人達成。
- 9月15日 - 最終日、入場者数1600万人達成。招待客2000名を迎え閉会式を実施。
- 閉会式は構成演出内海重典、演出阿古健、司会は浜村淳、伊勢弘子。吹奏楽団に兵庫県警察音楽隊・神戸市消防音楽隊・阪急少年音楽隊、エレクトーン齋藤英美、パレード須磨ノ浦女子高校ビューグルコーズ、合唱宝塚歌劇団38名が出演。
- 18時より花火打上げとファンファーレ、フラッグパレード、参加国・展示館旗入場、協会会長挨拶、兵庫県知事の感謝の言葉、ミスインターナショナル・ポートピアガールズ・日本航空スチュワーデス2名からのレイ贈呈、アトラクションとしてポートピア'81の思い出「千年万年」「栄光のポートピア'81」の後、祝の舞、閉会宣言・博覧会旗降納、蛍の光、アトラクション「TATTOO」の後大エンディングを行った。
- 10月 - ポートピアランド営業再開。
- 10月15日 - 営業施設撤去終了。
- 11月15日 - 展示館撤去終了。
- 12月末 - 博覧会施設撤去工事終了。
- 1982年
- 3月
- ポートアイランド南公園開業。
- 収支決算を確定。収入337億3900万円・支出272億3900万円で約65億円の黒字とし、兵庫県に19億5千万円・神戸市に45億5千万円を寄付。
- 3月27日 - 博覧会協会解散を兵庫県知事に申請。
- 3月31日 - 博覧会協会解散。
- 3月
- ^ a b c d e f 開催準備 開催決定まで - 公式記録103頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 神戸ポートアイランド博覧会の歩み - 公式記録494-497頁
- ^ ポートライナー今度は5時間故障 -朝日新聞1981年5月24日朝刊
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 展示館・展示 - 公式記録148-230頁
- ^ 松岡直也&ウィシング「THE SHOW」LP盤ライナーノーツ(ワーナー・パイオニア)
- ^ a b 催物 - 公式記録322-349頁
- ^ 蒸気機関車 - 羅須地人鉄道協会ウェブサイト(「3号機」「6号機」の箇所を参照)。この借り入れについては、博覧会終了後に返却時の整備状態をめぐって鉄道協会側と博覧会協会側の見解が対立、裁判に持ち込まれたが鉄道協会側の敗訴に終わっている(羅須地人鉄道協会とは→「2つの蹉跌」の箇所を参照)。
- ^ にっこり美女2人 日本代表の座射留める『中日新聞』1981年9月5日22面
- ^ 世界一美女は豪代表 ミス・インタナショナル『中日新聞』1981年9月7日18面
- ^ a b 開催準備 理事会 - 公式記録129-130頁
- 1 神戸ポートアイランド博覧会とは
- 2 神戸ポートアイランド博覧会の概要
- 3 施設・パビリオン
- 4 主なイベント
- 5 開業時間、入場料金
- 6 アクセス
- 7 関連項目
固有名詞の分類
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