2002年の「死亡」報告
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2002年9月17日、日本の小泉純一郎首相が訪問して金正日国防委員長と会談を行い、日朝平壌宣言を発表した。そのとき、北朝鮮側はそれまで「事実無根」と主張してきた拉致問題を一転して正式に認め、謝罪した。 70〜80年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員の日本語教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した…。工作船は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった…。再びないようにする。 金正日は以上のように弁明し、チャン・ボンリムとキム・ソンチョルを処罰したと説明した。また、拉致被害者の安否情報を日本側に提供したが、それによれば松木薫はじめ8人はすでに死亡したということであった。この内容に日本国民の北朝鮮に対する怒りが沸騰し、これを受けるかたちで日本の外務省は北朝鮮に事実調査チームを送り、9月28日から10月1日にかけて調査を行い、10月2日、その結果を発表した。松木薫に関しては、以下のような内容であった。 松木薫 朝鮮名 リム・チョンス 男 1953年6月13日生 本籍:鹿児島県出水郡×× 住所:熊本県健軍×× 前職:京都外国語大学学生 入国経緯:1980年頃語学修得および論文執筆のため、スペイン滞在中、石岡亨さんとともに、特殊機関工作員と接触する過程で共和国訪問の勧に直ちに応じ、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的で、1980年6月7日、共和国に連れてこられた。 入国後の生活:特殊機関の人々が、朝鮮に残って勉強をしながら日本語を教えてくれないかと依頼したところ、承諾したことから、特殊機関内の学校で学生に日本語を教える仕事を誠実に行っていた。独身を通していたが、楽天的な性格ではなく、すべてにおいて慎重で思索的な人間で、受け持った仕事および生活両面においてそつがなかった。これらの正確な描写は、彼から日本語を教わった学生の回想に基づくもの。 死亡経緯:1996年8月23日、両江道の革命史蹟への参観に行く途中、咸鏡南道高原郡と北青郡の境界にあるトチョル嶺という峠道を自動車乗車中、運転手の不注意による事故で2人とも死亡した。事故調書はあるが、法的仕組みが整った時点で関連情報・書類について引き渡すことができる。 遺骨:ハムギョンナムド(咸鏡南道)プクチョン(北青)郡にあった遺骸安置所は洪水被害で流されたが、最近の調査委員会による調査で遺骸が発見され、100パーセントの保証はないが、再火葬され、2002年8月30日に平壌市楽浪区域オボンサン共同墓地に安置された。遺骸の移動の年代、火葬状況から測定して当人の遺骨に近いと判断したもの。 遺品:写真が遺っている。 よど号犯との関連については解明されていない。 当時まだ家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)に加わっていなかった松木薫の姉は、弟「死亡」の知らせをテレビで知ったが、悲しみよりも怒りの方が強かった。80歳をすぎた薫の母もまた数年以上前から認知症にかかっており、熊本市内の病院に入院していた。母は姉のことをもはや実の娘とはわからなくなっていた。娘(姉)が病室の母のもとを訪れると母は開口一番「あんた、テレビ、見たかね?」と声をかけ、姉が知らないふりをすると「薫が…」と言って絶句した。その日、母は食堂でずっとテレビニュースを見ていたのだという。次の日、母の目の下は真っ黒だった。何もわからなくなっているはずの母であっても、彼女は一晩眠れないほどのつらい夜をすごしたのだ。 東京で働いていた弟は、「死亡」情報を姉の一人から電話で受けた。怖くてテレビをつけられなかったし、怒りをどこにぶつけてよいのかわからなかったという。兄の安否を気遣って匿名での報道を希望し、また、家族会にも加わらないできたことが後悔された。父が生きていれば、きっと活動していただろうと思うとやり切れなかった。兄の「死亡年月日」が「死亡」したとされる8人のなかで一番新しいことを聞いたときは、後悔の念はいっそう強まった。途中からでも沈黙を破って活動していたら間に合ったのではないかと思われたのである。
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2002年の「死亡」報告
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2002年9月17日、日本の小泉純一郎首相が訪問して金正日国防委員長と会談を行い、日朝平壌宣言を発表した。そのとき、北朝鮮側はそれまで「事実無根」と主張してきた拉致問題を一転して正式に認め、謝罪した。 70〜80年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員の日本語教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した…。工作船は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった…。再びないようにする。 金正日は以上のように弁明し、チャン・ボンリムとキム・ソンチョルを処罰したと説明した。また、拉致被害者の安否情報を日本側に提供したが、それによれば石岡亨はじめ8人はすでに死亡したということであった。この内容には日本国民の北朝鮮に対する怒りが沸騰し、これを受けるかたちで日本の外務省は北朝鮮に事実調査チームを送り、9月28日から10月1日にかけて調査を行い、10月2日、その結果を発表した。石岡亨に関しては、以下のような内容であった。 石岡亨 朝鮮名 リ・シオ 男 1957年6月29日生 本籍:札幌市豊平区 住所:札幌市豊平区 前職:日本大学学生 入国経緯:1980年に留学および観光目的で欧州に出国し、スペインのマドリードで松木薫さんと共に、特殊機関工作員の一人との接触過程で共和国訪問を勧められて同意し、特殊機関工作員が日本語教育に引き入れる目的で1980年6月7日平壌に連れてきた。 入国後の生活:いろいろ参観しているうちに、一度こんな社会で生きてみたいという意向を示したため、共和国で暮らしつつ勉強し、学生に日本語を教えてほしいという特殊機関の提起に応じた。特殊機関の招待所で自分の勉強をすると共に、機関の運営する学校で日本語教育の仕事を一生懸命行った。1985年12月27日一緒の仕事についていた有本恵子さんと結婚。翌年子供が産まれると、家庭に愛着を持ち、妻と子供を非常に愛した。特別待遇と保護を受ける中で生活していたが、時間が経つにつれ、故郷、父母、親族をなつかしく思うようになり、1988年夏には平壌市の店でショッピングをしている際にポーランド人を通じて手紙を送っている。手紙投函の事実は本人が案内人に話したものである。 死亡の経緯:1988年11月4日の夜、慈江道煕川市内の招待所にて寝ている途中、暖房中の石炭ガス中毒で子供を含む家族全員が死亡。 遺骨:家族と共に煕川市平院洞に葬られたが、1995年8月17日から18日の大洪水による土砂崩れで流出。現在引き続き探しているものの発見に至っていない。 遺品:写真が遺っている。 石岡亨の兄は、2002年9月17日午前10時すぎ、あるマスコミ関係者から「生きているそうです」と耳打ちされた。北朝鮮の上記発表を、兄は信じておらず、一日も早く石岡亨が帰国することを今も待っている。 2004年11月9日から14日まで続いた日朝実務者協議で示された個別被害者の関連情報は2年前とほぼ同じであった。ただし、2004年11月の第3回日朝実務者協議で北朝鮮側は、2002年に日本政府調査団に提供された8人の死亡確認書と横田めぐみの病院死亡台帳が「本来存在しないものを捏造した」ものであることを認めた。
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2002年の「死亡」報告
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「田口八重子」の記事における「2002年の「死亡」報告」の解説
2002年9月17日、日本の小泉純一郎首相が訪問して金正日国防委員長と会談を行い、日朝平壌宣言を発表した。そのとき、北朝鮮側はそれまで「事実無根」と主張してきた拉致問題を一転して正式に認め、謝罪した。 70〜80年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員の日本語教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した…。工作船は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった…。再びないようにする。 金正日は以上のように弁明し、チャン・ボンリムとキム・ソンチョルを処罰したと説明した。また、拉致被害者の安否情報を日本側に提供したが、それによれば田口八重子はじめ8人はすでに死亡したということであった。この内容には日本国民の北朝鮮に対する怒りが沸騰し、これを受けるかたちで日本の外務省は北朝鮮に事実調査チームを送り、9月28日から10月1日にかけて調査を行い、10月2日、その結果を発表した。田口八重子に関しては、以下のような内容であった。 田口八重子 (注)北朝鮮側は、調査の結果、「李恩恵」なる日本人女性はいない旨回答朝鮮名 コ・ヘオク 女 1955年8月10日生 当時23 - 24歳 本籍:埼玉県川口市 出生地:埼玉県 住所:東京都豊島区 日本在住時の職業:飲食店勤務 入国経緯:工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない。 入国後:1978年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語の習得、現実研究および現実体験をした。1984年10月19日、原敕晁と結婚。1986年まで家庭生活。 死亡経緯:夫の死亡(1986年7月19日)後、精神的衝撃を受けていたが、数日して安定して帰宅する途中、1986年7月30日、黄海北道麟山郡のマシク嶺峠でトラックの衝突事故で死亡。この事故で同人及び運転手を含む3名が乗用車で死亡、トラックの2人は重傷を負った。 遺骸:黄海北道麟山郡に墓があったが、1995年7月の豪雨で上月里の貯水池ダムの堤防が壊れ、墓が流出した。 遺品:なし 原敕晁と結婚するも子どもなし。原も麟山郡で病気で死亡。 事故での志望者と生存者に関する書類が存在するが、今後、法的仕組みが出来た時点で証言と文書を提供することができる。 北朝鮮側の説明は、田口八重子が「李恩恵」とはまったく関係のない別人であると主張するものであり、「李恩恵」なる女性はいないというものである。換言すれば、北朝鮮は田口八重子を拉致したことは認めるものの八重子が金賢姫に日本人化教育をした事実は認めない、ということである。したがって、彼女の死亡日時も1986年に設定し、1987年の大韓航空機爆破事件以前のこととしたものと考えられる。実際には、大韓航空機爆破事件は工作員養成学校である金正日政治軍事大学で話題になり、学生たちも「李恩恵」こと田口八重子がどうなったかに大きな関心を寄せていたという。当時、金正日政治軍事大学の学生だった安明進は、田口八重子は処罰されずに、所属が対外情報調査室から社会文化部(現在の対外連絡部)に変わり、居住の場所も人目につかない郊外に移されただけであるという話を校内で聞いた。したがって、北朝鮮側の「説明」は金賢姫証言と安明進証言の両方を否定したいがために、彼女の「死亡」を1986年に設定したと考えることができる。安明進は、一方では横田めぐみや市川修一らを目撃したとも語っており、北朝鮮としては否定したい証言者であった。 結婚時期、結婚相手に関する疑問は上述の通りであり、「拉致の場所が宮崎県宮崎市青島海岸」というのも、彼女には無縁の地である。「観光がてら北朝鮮に渡りたい」というのも、乳飲み子2人を残してそのようなことを子ども好きの彼女が言うかは極めて疑問である。死亡確認書も、他の場所で「死亡」したことになっている他の拉致被害者と同じ平壌の695病院発行となっていて、まるでコピーしたかのようである。遺骨も墓もなく、彼女が亡くなったという物的証拠は一つもない状態といえる。 なお、2004年11月の第3回日朝実務者協議で北朝鮮側は、2002年に日本政府調査団に提供された8人の死亡確認書と横田めぐみの病院死亡台帳が「本来存在しないものを捏造した」ものであることを認めている。
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2002年の「死亡」報告
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「増元るみ子」の記事における「2002年の「死亡」報告」の解説
2002年9月17日、日本の小泉純一郎首相が訪問して金正日国防委員長と会談を行い、日朝平壌宣言を発表した。そのとき、北朝鮮側はそれまで「事実無根」と主張してきた拉致犯罪を一転して正式に認め、謝罪した。 70〜80年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員の日本語教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した…。工作船は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった…。再びないようにする。 金正日は以上のように弁明し、チャン・ボンリムとキム・ソンチョルを処罰したと説明した。また、拉致被害者の安否情報を日本側に提供したが、それによれば増元るみ子を含めた8人はすでに死亡したということであった。 このとき、父の正一は鹿児島の病院で肺がんのため入院していた。病院のテレビで「死亡」の情報が流れた瞬間、母の信子は泣き崩れた。ベッドの上の正一は大声で「るみ子は死んどらん! 生きとるッ。北朝鮮の言うことはウソばかりじゃ」と怒鳴った。正一が体調を崩した春以来、信子はこんな大声を聞いたことがなかった。翌日、照明は病床の正一を訪ねて「これは絶対ウソだからね。信じたらいかん。絶対生きとる」と声をかけた。その朝、家族会メンバーの宿泊先を訪れた内閣官房副長官の安倍晋三も、安否情報はあくまでも北朝鮮が言ってきたそのままを伝えたもので、日本政府として確認したものでは決してないことを言明しており、母にもそのように伝えた。 拉致被害者たちが死亡したとする北朝鮮側の説明には日本国民の北朝鮮に対する憤怒の念が噴き出し、これを受けるかたちで日本の外務省は北朝鮮に事実調査チームを送って9月28日から10月1日にかけて調査を行い、10月2日、その結果を発表した。増元るみ子に関しては、以下のような内容であった。 増元るみ子 朝鮮名 ホ・ジョンシル 女 1953年11月1日生 本籍地:鹿児島県鹿児島市 住所:鹿児島県鹿児島市 前職:事務員 入国の経緯:1978年8月12日、鹿児島県吹上浜キャンプ場で特殊機関工作員が語学養成のため拉致。 入国後の生活:1978年8月〜1981年8月まで招待所で朝鮮語の習得、現実研究、現実体験。1979年4月20日、市川修一と結婚。1981年8月17日、心臓病により黄海北道麟山郡にて死亡。結婚前は市川修一と異なる招待所で生活していた。市川修一の死亡後は、結婚してから住んでいた招待所にそのまま住んでいた。 墓:夫(市川)と同じ麟山郡上月里にあったが、1995年7月の貯水ダム崩壊により流出。 遺品:なし 子供:なし。 父の正一は気丈に振る舞ってはいたが、外務省による「るみ子死亡」の宣告で受けた打撃は大きかった。その後、10月10日、酸素マスク姿の正一は照明が回すビデオカメラに向かって「もう迎えにいけんから、帰ってきてくれ」という、るみ子に向けた最後のメッセージをのこした。11日、容態が悪化し、延命措置をとることに決めた。その日、正一は「俺は、るみ子と市川君との結婚を許す」など、いろいろなことを語った。そして、照明に対し、「わしは日本を信じるッ! だからお前も信じろッ!」と言い残した。10月17日、「生存」とされた5人が帰国した翌々日(「死亡」の宣告の1か月後)に正一は死去した。79歳であった。 なお、2004年11月の第3回日朝実務者協議で北朝鮮側は、2002年に日本政府調査団に提供された8人の死亡確認書と横田めぐみの病院死亡台帳が「本来存在しないものを捏造した」ものであることを認めた。
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