趣味・人物
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学生時代には、学生間で「交り善し」、「見綺麗な人」、「色の白い人」の三対の一人にあてられていた。 ドイツ留学の頃は粗衣粗食で生活費を節約して、必要な書籍の購入や休暇中の各地の旅行の費用に充てていた。渡辺渡博士と一緒に旅行した際、互いに費用の少なさを競ったことがある。 1895年(明治28年)頃から狩野友信氏に就いて日本画を学び始めた。師匠を自宅に迎えて稽古していたが、先生に来てもらうのに自分一人では申し訳ないと、江守譲吉や平野耕輔などと一緒に勉強していた。職務に忙殺され修業が進まなかったものの、京都に赴任後、四条派の前田玉英氏のもとで熱心に修業した。 京都高等工芸学校長時代には、洋画の画法習得を志し、浅井忠の勧めで水彩画の修業を始め、その後油絵の修業にも励んだ。 1907年(明治40年)に設立された文展では、それまで博覧会の類の経験が豊富であったことや、美術的趣味に理解があり(当時自然科学者で絵画の素養がある人物は稀であった)相当の識見も持っていたことから、日本画・洋画・彫刻各部の審査において重用された。 1925年(大正14年)頃から蓑虫細工を始めた。別府に避寒していたときに、知人から蓑虫細工の手提げ袋を贈られたことがきっかけ。蓑虫は元来害虫とされており、これを加工して実用品に利用すれば害虫駆除の一策になると考えた。 余技のうちでも囲碁や玉突を愛好したが、相手が要るのと、老人だからといって相手に負けてもらったりなど人に迷惑をかけることが少なくない、との理由で止めた。 82歳で目を悪くし、長い間楽しんできた余技ができなくなったため、謡を始めた。
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趣味・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 04:20 UTC 版)
趣味は、全国各地の温泉巡りと、世界各地の石やHOゲージで走行できる模型車両(主にメルクリン社製の鉄道模型)の収集。『征平・宮根のクチコミぃ!?』の温泉ロケでは、入浴中にお湯を指で少し舐めただけで、お湯のおおよそのpHを当てる特技を度々披露していた。温泉巡りについては、2016年2月までに、600ヶ所以上の温泉を訪問。関西テレビのアナウンサー時代に、「征平の挑戦」のロケ直後に入ったという奥鬼怒温泉を、「最高の温泉」に挙げている。 温泉巡りを始めたきっかけは、成城大学水球部での活動にある。征平によれば、野沢温泉にあった温水プールで合宿を実施していたことや、日本各地の高校生に対するスカウティング中に温泉地へたびたび宿泊していたことが影響しているという。 関西テレビのアナウンサー時代には、リポーターを担当した番組で、日本国内の温泉地をロケ地にたびたび指定していた。同局が社員の保養所として使用していた白浜温泉内のマンションの1室を売却した際には、9名の社員(当時プロデューサーだった梁典雄など)と共同でその部屋を購入。管理費を共同で負担しながら、別荘代わりに使っていた(現在は売却済)。 HOゲージに興味を持ち始めたのは関西テレビへの入社後で、当時の同僚(プロデューサー)の影響による。第一子(後述する長女の菜穂子)を授かるまでは、当時住んでいた自宅の一室(六畳間)にHOゲージの線路を組んで、模型の車両を走らせていたという。菜穂子の出生後には、現在の自宅(後述)の地下室で線路の再敷設を試みた時期もあったが、おおむね模型車両の収集と鑑賞にとどめている。 京都での学生時代には、名門のスイミングクラブとして知られる「京都踏水会(とうすいかい)」に通いながら、水泳の腕を上げた。現在でも週に3日は、自宅近くのスポーツクラブのプールを利用。自分でタイムを計り、それと同時にプールを全速力で泳ぐことによって、アナウンスに必要な心肺機能や舌の筋力を鍛えているという。また、関西テレビのアナウンサー時代に番組取材を通じてヨガを体験したことをきっかけに、就寝前のヨガを日課にしている。71歳だった2015年12月9日(水曜日)には、長岡スイミングスクール(京都府長岡京市)内のプールで、『征平・吉弥の土曜も全開!!』の特別企画「どちそそ・冬の陣〜どっちが勝てるでSHOW〜」として50m自由形のタイムトライアルで桂吉弥(当時44歳)と対決。『粋甘』の本番終了後に対決へ臨んだにもかかわらず、タイムは36秒37で、37秒50の吉弥を上回った。 長年にわたってマスターズ水泳への出場を固辞してきたが、73歳だった2017年7月には、「1回限り」という条件で第34回日本マスターズ水泳選手権大会(東和薬品RACTABドーム)・70歳以上の部2種目に出場。男子25mバタフライで優勝(タイムは17秒21)、男子50m自由形で2位(タイムは35秒21)という好成績を残した。 コーヒー、紅茶、牛肉(ハンバーガーなど)が好きな一方で、酒問屋の祭原に勤務した経験を持つにもかかわらず、酒を一滴も嗜まない。また、幼少期から豚肉・鶏肉・松茸をほとんど食べない一方で、ふんどしを着用しているという。紅茶を嗜むようになったきっかけは、京都西高校へ在学中の1962年に堀江謙一が小型ヨットによる単独無寄港太平洋横断を成功させた後に日本へ帰国した際の中継をラジオで聞いたことにある。堀江が帰国後に著した『太平洋ひとりぼっち』で、「リプトンの紅茶を飲みながら太平洋上に沈む夕陽をヨットから眺めることが、単独航海の孤独を癒やす唯一のひとときであった」とされるエピソードに感化されたという。 桑原家では征平の親の代から豚肉や鶏肉を敬遠しているが、征平自身は成人してから、豚肉の入った餃子や鶏肉の唐揚げを辛うじて食べられるようになったという。 プロボクシング、プロ野球、プロレスの観戦が好きで、『Sports Graphic Number』を愛読。メジャーリーグへの関心も高い。大阪市内で開催されるプロボクシングのタイトルマッチ(井岡一翔や長谷川穂積などが出場する試合)を在京の民放テレビ局が全国に向けて中継する場合には、朝日放送関係者からの計らいによって、リング付近の招待席で観戦する桑原の様子が中継映像で見られることもあった。少年時代からのボクシング好きが高じて、関西テレビへの入社直後には、スポーツ中継を担当するプロデューサーに対して「(本業の)アナウンスでなくても構わないので、(同局が制作を担当する)ボクシング世界戦の全国向け中継で何か仕事をさせて欲しい」と直談判。その結果、入社1ヶ月目にあった中継で、先輩のスポーツアナウンサー・塩田利幸のアシスタント(塩田が担当した勝者インタビュー用マイクのケーブル裁き)を務めた。桑原自身は、「アナウンサーは出演するテレビ番組で顔や名前を知られてこそナンボ(価値がある)」という考えから、スポーツ実況の道を志したことが一切なかったという。それでも、上記の関心や過去の経歴を熟知しているスタッフからの依頼で、以降も全国ネット向けのスポーツ関連番組に携わることがあった。1974年11月28日には、関西テレビのスタジオから『スター千一夜』(フジテレビ制作・全国ネット番組)に生出演。当時のWBC世界ライト級チャンピオンで、放送の直前に大阪府立体育会館のタイトル防衛戦でロドルフォ・ゴンザレスに勝利したばかりのガッツ石松のインタビュアーを務めた。両局がこの試合のテレビ中継を担当したことを背景に、桑原がスポーツアナウンサーではないにもかかわらずボクシングに詳しいことを知っていた王東順(当時は同番組のプロデューサー)が、桑原を直々に指名したことによる。 1993年に神戸市で開かれた第4回パンパシフィック水泳選手権では、フジテレビからの依頼による報道素材の収録に際して、「地元局(関西テレビ)のアナウンサーで水泳の選手経験者」という理由だけで一部の種目の実況を任された。実況音声自体は『プロ野球ニュース』(当時は地上波の全国ネット番組)で放送されたものの、生中継を実施していたNHK総合テレビの放送席の隣で収録していたため、NHKのスタッフからクレームが付く一幕があったという。桑原の実況中の声量が大きく、NHKの放送席にまで響いていたことによる。 NPBの球団については、実父が南海ファンだった影響で、京都での学生時代まではもっぱら南海を応援。しかし、関西テレビへの入社直後に太田幸司が近鉄バファローズへ入団したことをきっかけに、近鉄→大阪近鉄バファローズのファンになった。現在は、東北楽天ゴールデンイーグルス(大阪近鉄出身の礒部公一と岩隈久志が2004年末の球団発足時に加入した球団)のファンであることを公言している。 従妹の子(母の弟の娘の娘)がアマナキ・レレィ・マフィ(キヤノンイーグルス所属のラグビー選手・ラグビー日本代表)と結婚した2015年からは、ジャパンラグビートップリーグが関西地方で開催するマフィ所属チーム(NTTコミュニケーションズシャイニングアークス→イーグルス)の試合もたびたび観戦。同じスポーツクラブを利用する縁で、ラグビー日本代表や神戸製鋼コベルコスティーラーズで長年にわたって活躍した大畑大介とも面識がある。マフィが2018年7月にレベルズ(スーパーラグビーのシーズン限定で所属していたオーストラリアのチーム)の同僚選手に対する暴行容疑で現地の警察当局へ一時拘束された際には、日本での報道を受けて、『粋甘』と『土曜も全開』でマフィに代わって謝罪している。 祭原に入社してから現在に至るまで、折々の勤務先や仕事先で配布される手帳に、仕事の内容、出会った人物の名前、社会的な事件、スポーツの結果、スケジュールを箇条書きで記入することを日課にしている。自分の行動を手帳へ毎日こまめに書くことを心掛けるようになったきっかけは、関西テレビへの入社10年目(1979年)に自宅の近辺で殺人事件が発生したことにある。定山渓温泉(北海道)内の旅館の名前が記されたタオルが事件の現場に落ちていたことから、事件の2週間前に番組の取材で同温泉を訪れていた桑原が、参考人として警察署に呼ばれた。もっとも桑原は、事件が発生した時間帯に、関西テレビの本社スタジオで『クイズDEデート』の収録に参加。当時使っていた同局支給の手帳にもその旨を記していたことが決め手になって、事件当日のアリバイが立証された。桑原によれば「自分の身辺で起きた出来事を手帳に毎日書いていれば、身に覚えのない事件の容疑者として警察署で取り調べを受けたとしても、自分が無実であることを証明できる」とのことである。 2019年の夏に「桑原征平 生前葬」の企画で長男の達秋と高野が桑原の自宅(達秋の実家)を探索した際に、桑原が自宅で保管している上記の手帳が30冊以上にのぼることが判明した。桑原本人は、探索の模様を収録した映像が「生前葬」で上映された際に、「『粋甘』の開始から生前葬の直前まで(の15年余り)の間に出演番組で披露した身の上話や思い出話は、まだ手帳3冊分に過ぎない」と告白している。「征平の、私は忘れない」では、「生前葬」の翌月(10月10日放送分)から4冊目(1979年の関西テレビ手帳)の記述内容を紹介。2021年3月11日放送分から、8冊目(1995年の手帳)の紹介に入っている。日本国内で新型コロナウイルスへの感染が拡大している時期(2020年4月18日 - 5月27日)には、手帳を保管している部屋(桑原曰く「鳩小屋」)からスカイプを通じて朝日放送ラジオのレギュラー番組へ出演している。
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