趣味・プライベート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:15 UTC 版)
家に居るときは洋服でなく着物を普段着としていた。ヘビースモーカーで、身辺を構わない人物であった。着物と絨毯は焦げ跡だらけだった。 酒も食事もあまり興味はなく、唯一の趣味はパチンコであった。行きつけの店は西荻窪の駅前にあり、周囲に気づかれないよう変装して入店したこともあったが、すぐに清張とわかってしまい困ったという。 夫人によれば、新製品が出るとチェックせずにはいられなかったというくらいにカメラに凝っていた。給料の少なかった戦争出征前、当時貴重なドイツ製のライカを購入していた。 取材の時には、一眼レフを中心としたカメラを首から下げているのが常であった。海外に出掛ける場合は2台以上を持ち、モノクロとカラーを撮り分けていた。写真エッセイ集『松本清張カメラ紀行』(1983年、新潮社)も出版されている。 松本清張記念館には、愛用したニコンF3(特注品の「松本清張スペシャル」)が展示されているが、この特注品は、カメラの頭の部分に、外付けの液晶画面が付けられ、シャッタースピードやマニュアル露出が表示されている。これは晩年に視力が弱ったことに対応したものであり、材料費を抑えるため、時計用の液晶を利用したのをはじめ、様々な部品が代用されている。 菓子として特に好んだのはかるかんで、九州から取り寄せていた。アルコールは受け付けなかった。またコーヒー党で、1日に10杯は飲んでいた。下戸であったが、取材のために銀座のバーなどへは顔を出し、ホステスを質問攻めにして店を困らせた。 人見知りをするところもあり、人との付き合いが下手であったとされる。文壇との関係も薄かった。ただ、無口ではあったが、暗い性格ではなく、身内や馴染みの者に適度に茶目っ気を見せることもあった。 自らはアンチ巨人と語っていたが、「巨人はどうした」といつもその成績を気にしていた。 「ぼくのマドンナ」像を問う企画の際、以下のように述べている。「私のマドンナ像は、いくつかの条件がある。まず、その女性との交流はプラトニックなものでなくてはならない。肉欲を感じさせるものなどもってのほか、あくまでも清純で、処女性を備えている必要がある。次ぎに、その関係は私の側からの片思いでなくてはいけない。相思相愛では、神聖な域にまで高められたイメージも、たちまちにして卑近な現実の無禄と化す。この世では到底思いのかなわぬ高嶺の花 - この隔たりこそ、切ないまでのあこがれをかきたてる要因である。私にとってのマドンナはまた、絶世の美女ではなくてはならない。いやしくもマドンナというからには、普遍化された理想像であって、個性などというものの入り込む余地はないはずだ。美人ではないが気立てのいい女、というのでは、話にならないのである」。 小説中の女性の描写に関して、瀬戸内寂聴は以下のエピソードを伝えている。清張の執筆量が激増した頃、ある女性と縁ができた。この女性は結婚願望が強かったが、清張は夫人を大切にしていて、離婚は思いも及ばないことであった。しかしその女性はどうしても清張夫人の座が欲しく、あらゆる難題を吹きかけ、手を尽くして自分の欲望を遂げようとした。のちに瀬戸内がその女性を取材した際、女性は悪しざまに清張を罵倒したため、瀬戸内は書く気が失せ、その仕事を降りた。そののち、清張は瀬戸内が書かなかったことへのお礼を述べ、「悪縁でしたね」と言った瀬戸内に、「そうとも言えないんだ。彼女のおかげで、ぼくは悪女というものを初めて識った。あれ以来小説に悪女が書けるようになった。心の中では恩人と思ってるんだ」と答えたという。 作品を執筆する際に使うのは万年筆、それもモンブラン製と決めていた。「わたしは年来、万年筆としてはモンブランを専用にしている。万年筆はわれわれにとっては手の一部で、調子が悪いと仕事ができない。手に万年筆があるのを意識しないくらいにスムーズなのが理想的だが、モンブランはだいたいこれに応えてくれている。それで、わたしの机の中にはモンブランだけが十本ばかりある」。愛用したのは「マイスターシュテュック」。主に使っていたのは、「149」や「146」よりも、「クラシックシリーズ」と呼ばれた実用的なモデルだったという。 抽象的なタイトルの作品が少なからずあるが、これに関して清張は、連載を頼まれ、締切りが切迫してきたが、まだ筋ができていない時、連載予告上の必要に迫られ、「『波の塔』だとか、『水の炎』だとかいうような題を出しておけば、内容が推理小説であろうが、ロマン小説であろうがあるいは時代小説であろうが、あと一ヶ月のほんとうの締切りまで時間がかせげるわけであります」と、抽象的な題名をまず出しておいた結果であると述べている。 初めて目を患ったのは小学生の頃、失明寸前だったとされているが、眼鏡をかけた少年清張の写真は発見されていない。眼鏡姿を確認できる最も古い写真は、20代の頃のスーツ姿の写真となっている。戦時中や朝日新聞社員時代には丸眼鏡をかけていた。丸味を帯びた長方形の眼鏡を愛用するようになったのは、1961年頃のこととされている。晩年には左目はほとんど見えなくなっており、愛用した眼鏡は右のレンズだけが分厚く飛び出している。左目の視力が衰えたため、右目で取材をし、資料を眺め、執筆をしていた。 清張との厳しい思い出を語る関係者は多い。「(清張のあからさまな門前払いに遭い)涙を流した」(森村誠一)、「(清張に自分の取材結果を一蹴され)一瞬、殺意を感じましたよ」(郷原宏)、など。 他方「(清張)先生はジェントルマンなんですよ」(藤井康栄)、「逆境にあったり、虐げられた立場にあったり、コツコツ努力する人間に対しては殊の外暖かい」(林悦子)、「陰口をたたいた者は一人もいなかった」(清張邸のお手伝い)など、優しく他人を思いやる人だったと回想する関係者も多い。清張の専属速記者を務めた福岡隆は「嫌われた人間からすれば、これくらいイヤな恐ろしい人はなく、また好かれた人間からすれば、これくらい親切で頼れる人はない」「実に好き嫌いの激しい人」と評している。 『点と線』以来、清張の原稿の遅さにやきもきする編集者の逸話は多いが、『オール讀物』編集部次長だった中井勝は「ゲームセンターのモグラ叩きで、モグラを清張さんに見立てて叩きまくった」と述べている。 1964年の東京オリンピックに関しては「東京にオリンピックがはじまってもなんの感興もない。何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらいである」「私たちの青年時代に若い人でスポーツ好きなのは、たいてい大学生活を経験した者だった。学校を出ていない私は、スポーツをやる余裕も機会もなかったし、理解することもできなかった」「オリンピックが世界の平和のために貢献するというが、こういう観念の功徳も私は信じない。このようなうたい文句で世界の現実から目をふさごうとするなら、オリンピックも麻酔的な役目しかなく、かえって危険である」などと記している。 北ベトナム取材時、ハノイへの連絡機が相次いで欠航し、ラオスのビエンチャンに二週間近く待たされ、日程が大幅に狂う中、ホテルの部屋の机の引き出しに備えられたレター・ペーパーに線を引いて、即席の原稿用紙とし、執筆を続けた。このとき、同行していた森本哲郎に、「作家の条件って、なんだと思う?」と問いかけ、森本が「才能でしょう」と答えると、「ちがう。原稿用紙を置いた机の前に、どれくらい長くすわっていられるかというその忍耐力さ」と述べている。 最後まで小説(フィクション)を作家活動の中心に考えていた。小説以外の活動が話題となった作家に対して、「彼が小説を書かないのは、才能が枯渇したから書けないのだ」と言い、俎上にあがった著名作家は、一人や二人ではなかったと言われている。新人作家が、斬新なトリックを使ったり、史料を違った角度から照射したりすると、大いに評価していたが、ひとたび彼らが人気作家になってしまえば、ライバルの一人としか考えなかった。このため、小説に対する意地と、同業作家たちと同じ土俵で勝負するという挑戦意欲が、筆を持たせたエネルギーだったとも評されている。 本人が評価していた映画作品は『張込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』『砂の器』だけであったという(三作とも脚本は橋本忍)。 長男がポーカーゲーム賭博で逮捕された不祥事が報道された際、「腹を切って詫びなければならない」と言った。 長谷川町子の漫画『いじわるばあさん』に、婦人参政権不要論の論者を主人公が清張と誤解し(実際は石川達三)、清張宅の窓に大音量のラジオを近づけて執筆活動を妨害する作品がある。
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