西日本水害による水没事故
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「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「西日本水害による水没事故」の解説
1953年(昭和28年)の梅雨は例年になく早く始まり、特に西日本では雨が多く6月末になると4日間で600ミリを超すような60年ぶりという大雨が降った。大雨は各地に被害をもたらし、のちに昭和28年西日本水害と記録されることになった。国鉄でも、680か所に及ぶ不通箇所が発生するなど大きな被害を受けた。 6月28日日曜日も雨が降り続いており、関門トンネルに備えつけられた排水ポンプは稼働を続けて、トンネルに侵入する雨水を排出し続けていた。11時頃、戸ノ上山の麓でがけ崩れが発生し、門司駅北側の大川を堰止めた。これによって溢れた水は、南側の田畑川から溢れた水と合流して、門司駅構内に流れ込み始めた。門司駅に設置された雨量計では、10時から12時までの間に155ミリという猛烈な雨を観測しており、この雨に川から溢れた水が加わり、門司駅からスロープ状の掘割になっている関門トンネルの門司方坑口へと流れ込み始めた。関門トンネルの掘割を囲う防水壁の第13号架線鉄柱付近にある切り欠き(壁が途切れた部分)から架線をかすめるように濁水が噴出し始め、11時頃に巡回中の門司保線区員がこれを発見して通報した。当時、京都と博多を結ぶ特急「かもめ」は、26日以来の豪雨で鹿児島本線が不通となって、上り列車を運転できずに博多に編成が取り残されており、次いで27日の下り列車で下ってきた列車も門司打ち切りとなっていたが、この門司打ち切りとなった編成を28日に上り臨時第6列車「かもめ」として運転する予定としていた。しかし、11時2分に関門トンネルへの濁流の流入の通報を受けて、「かもめ」の発車は抑止された。 続いて、下関側に連絡して下り列車の抑止を行おうとしたが、約800名の乗客を乗せた岩国発佐世保行下り第327列車は10時57分にすでに発車したあとであった。関門トンネルを抜けてきた第327列車の機関士は、門司方の出口で防水壁の切り欠きからの落水に気づき、また公安職員の停止の指示を受けて、11時8分ごろ、トンネル出口の約70メートル手前で列車を停車させた。保線区員が土嚢を積んで切り欠きを塞ごうと試みたが、思うように塞ぐことができず落水は止まらなかった。仮に落水の中をそのまま通り抜けた場合、水流によってパンタグラフと車体の間が短絡されるか碍子の絶縁破壊を起こして電気機材や車体が焼損するおそれがあり、あるいは架線の溶断や変電所の遮断器の動作により停電して、トンネル内からの脱出が不可能になるおそれがあった。電話で指令室の指示を仰いだところ、トンネル自体の浸水を懸念したことから強行突破の指示が出され、11時17分ごろに脱出を開始した。列車が停止した場所から落水場所までは数十メートル程度しかなく、また急な上り勾配の途中で列車の引き出しは容易ではなかったこともあり、機関士はいったんトンネル内に列車を退行させた。EF10形電気機関車は車両の前後に合計2台のパンタグラフを搭載しており、このうち前部のパンタグラフを下げて、後部のパンタグラフのみから集電した状態で列車を再発進させると、勢いをつけてトンネルから出てきて、落水箇所の直前で後部のパンタグラフも下げて落水箇所を惰性で通過し、通過直後に前部のパンタグラフを上げて門司駅へ向かい、11時24分ごろに無事に到着した。 この直後の11時30分ごろ、防水壁の上を越えて水が滝のようにトンネル内に流れ込み始めた。トンネル内各所に据えつけられた排水ポンプがフル稼働したが、11時45分ごろに上り線トンネル中央部のポンプが、11時50分ごろには門司方入口のポンプが使用不能となり、12時には下り線トンネル中央部のポンプ室の配電盤が浸水して爆発した。本線トンネルから溢れた水は試掘坑道に流れ込み、弟子待と小森江の試掘立坑底部に集まってきた。浸水により繰り返し遮断器が動作する中を変電所から排水ポンプへ強行送電が続けられていたが、ポンプ室は次々に機能を停止していき、13時5分にはポンプ室への送電が打ち切られた。ポンプ室に詰めていた職員は全員が脱出に成功した。排水機能を失った関門トンネルは急速に水没していき、上り線1,880メートル、下り線1,760メートルが水没して推定浸水量は約9万立方メートルに達した。16時すぎに浸水が止まった時点で確認したところ、トンネル全長の約3分の2が天井まで浸水しており、関門トンネルによる本州と九州の連絡は切断されてしまった。 関門間の輸送が途絶したため、下関駅と門司港駅を結んで運航されていた関門連絡船の豊山丸、長水丸、下関丸を使って旅客・小荷物・新聞類の代替輸送にあたるとともに、支援として大島航路から七浦丸を投入した。貨物輸送については国鉄所有の船舶のほかに、汽船や漁船、機帆船なども借り上げて代行輸送を行った。かつて下関と小森江の桟橋の間で貨車航送を行っていたが、下関の岸壁は関釜連絡船の岸壁延長のために埋め立てられており、小森江の可動橋も取り外して転用したため、急に再開できる状況ではなかった。しかし、国鉄がかつて運航していた関門丸は宇高連絡船での運用が終了したあと、民間会社に払い下げられて関門海峡でカーフェリーとして運用されており、結果的に貨車からトラックに積み替えた貨物の代行輸送に役に立つことになった。 トンネルに浸水するとすぐに、国鉄西部総支配人を長とする復旧対策本部が設置され、各地から応援の人員と機材を手配して排水復旧作業に取りかかった。まず単線での運転再開を1日も早く実現することにし、下り線を早期に開通させる方針で作業に取りかかった。試掘坑道に対しては立坑にシンキングポンプ(吊り下げ式ポンプ)を各4台、上り線・下り線の各本線トンネルに対しては下関側は坑口から、門司側は小森江の立坑からパイプを伸ばして、水面付近にタービンポンプ(ディフューザポンプ)を各2台配置して排水を行った。小森江の試掘立坑に運び込んだ最初のポンプは7月1日から稼働し始め、以降各地からポンプが届けられ、幡生の鉄道工場と現地で整備して据えつけられ、稼働し始めて行った。1日約1,300立方メートルから1,700立方メートルに及ぶ湧水があったため、当初はトンネル内の水量を減少させるには至らなかったが、多数のポンプが順調に稼働し始めるとようやく減水していった。本線トンネルは20パーミル程度の勾配であり、1メートル水位が下がると水面は50メートルも後退することになるため、受電装置・ポンプ・サクションホースを台車に載せて前進させ、後ろにパイプを順次つなぐ作業をしていった。このパイプをつなぐ作業にかなりの時間を要したため、結果的に運転時間は1日平均6 - 10時間程度であった。これに対して立坑から吊り下げたポンプは1日20 - 24時間程度運転することができた。また輸送用のモーターカーの排気により一酸化炭素が発生し、頭痛を訴える作業員も出たため、モーターカーの使用を制限したり換気装置を設置したりといった対応に追われた。 最盛期には1,000人を超える作業員が1日3交代制で作業に従事した。下り線は7月10日に、上り線は翌11日に、トンネルの天井部分がすべて見えてくる程度に減水し、下り線は12日12時に一応の排水が完了した。しかし、残りの水は試掘坑道へ排除できるものと考えていたが、試掘坑道へ通じる排水管が詰まっていたため、トンネル内の湧水により却って増水する状況であった。そこで、排水管の閉塞を取り除くと流れ出した水で吸い込まれてしまう危険があるのを顧みず、下関工事事務所の職員が汚水に潜って手探りで排水管を探り当て、詰まっていたごみを取り除いて、無事に排水を完了させることに成功した。中央部に溜まった泥や土が約60センチメートル程度あり、ポンプ室に備えられた試掘坑道への連絡パイプを通じてできるだけ試掘坑道に排除するとともに、両側の坑口からトロッコを使って搬出し、7月13日19時に試運転列車を通過させ、7月14日0時35分門司発の貨物列車第678列車から単線での運転を17日ぶりに再開した。続いて上り線では7月13日20時に排水を完了し、電気信号関係を完全に復旧させて7月17日に開通させ、一旦下り線を休止して上り線に運行を移したうえで下り線の完全整備を実施し、7月19日8時31分に複線での完全復旧を完了した。 本線のトンネルが復旧した時点ではまだ試掘坑道の排水は終わっておらず、さらに本線トンネルに設置のポンプが未復旧であったため、トンネル内の漏水や線路・電線の洗浄に使った水が流れ込んで、むしろ水位が増える方向であった。表面の水をポンプで吸い上げてはドラム缶にヘドロを詰めて立坑から運び上げるという作業を昼夜三交代で継続し、ようやく8月20日に試掘坑道も復旧が完了した。 国鉄は列車の運行を優先し、11時20分に最後の列車が通過するまで門司方の線路上に土俵による防水壁を築くことができずにおり、これがのちに衆議院運輸委員会で問題にされることになった。一方、第327列車の機関士、トンネルの浸水を発見した保線区員、現場で機関士と運転指令の間の連絡にあたった公安職員2名の計4名が8月31日に「緊密な連絡と臨機の処置により列車の重大事故を未然に防止した」として長崎惣之助日本国有鉄道総裁から国鉄総裁表彰を受け、さらに機関士と保線区員の2名は10月20日に「本年六月の風水害に際し生命の危険を顧みず公務遂行に当たりその功労は特に顕著である」として吉田茂内閣総理大臣より総理大臣表彰を受けた。またトンネル中央部の汚水に潜って排水管閉塞を解決した下関工事事務所職員は、2003年(平成15年)になって叙勲を受けている。 水没事故の経験を生かし、門司方の防水壁はさらに1メートル高くされ、トンネル入口のポンプは従来の約2倍の能力に増強された。浸水を防止するためにトンネル入口には鉄製の防水扉が取りつけられ、トンネル内のポンプも地上から操作ができる強力なポンプに取り替えられるなど、浸水対策が強化された。また、毎年6月には総合的な水防訓練が実施されるようになった。なお、この水没事故後の1961年(昭和36年)の変電所無人化に際して、運転電流と事故電流を高精度で弁別(区別)して送電を停止する故障選択継電器と、事故時に並列饋電している隣接変電所の遮断器を同時に開放する連絡遮断装置が導入されたため、同様の事件が再度発生したとしても、遮断器が動作して停電することになり、第327列車のように落水箇所を強行突破することは不可能となっている。 上り線トンネルの建設時に工事事務所長を務めていた星野茂樹は、水没事故時は民間企業の顧問となっていたが、トンネル開通から10年が経ってちょうどいい機会であるとして、門司鉄道管理局の根来幸次郎施設部長に連絡して、排水作業の傍らで水を流してトンネルの大掃除をさせた。当時の吉田朝次郎所長は何事かと怒ったものの、関係者は「星野さんの命令」としてそのまま掃除を続行したという。さらに根来施設部長は、トンネル再開後の最初の試運転列車の先頭に乗って、特級酒を全線に振りかけたという。またこの水没事故は、関門トンネル開通10周年を記念して門司方坑口に「道通天地」(道は天地に通ず)という銘板を取りつけた直後であったため、「天と地がつながって空からもらい水をした」などと皮肉を言われることになってしまった。 「昭和28年西日本水害」も参照
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