栄典受章の陰で - 晩年の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)
「森光子」の記事における「栄典受章の陰で - 晩年の状況」の解説
1984年(昭和59年)11月、紫綬褒章を授与される。この時、年齢を3歳サバ読みしていることや、嵐寛寿郎の姪ではなく従妹であることが発覚するが、当時のマスコミの論調は好意的だった。 1985年(昭和60年)、好角家としても知られた森は新装となった両国国技館に足を運び、1月場所2日目に砂かぶり席で観戦。その姿がNHK大相撲中継に映された映像が現存している。ちなみに森が観戦したこの日の結びの一番が昭和の大横綱である北の湖現役最後の一番でもあった。 1992年(平成4年)11月、勲三等瑞宝章を授与される。この頃から体力の衰えを実感し、当時野茂英雄が通っていたジムへ行きトレーナーへ指示を仰ぎ肉体改造に着手。毎日欠かさず150回(朝75回、夜75回)のスクワット(実際には、スクワットというよりも軽めの屈伸運動に近いものである)を行いエアロバイクを漕ぐなど筋力強化に励んだ。こうして、80代に入ってもなお、若々しい容貌と機知に富んだコメントで、幅広い世代に親しまれ続けた。 1996年(平成8年)、1月31日と2月1日に新高輪プリンスホテルで初のディナーショー、『森光子 Special Dinner Show』を開催。構成・演出はジャニー喜多川。バックダンサーとして、東山紀之や堂本剛に加えV6、TOKIOも踊りを披露しており、ジャニーズJr.にはデビュー前のタッキー&翼、嵐の大野智らが参加している。結局これが生涯ただ1度のディナーショーとなった。 1999年(平成11年)、京都市特別観光大使に任命される。その後2009年(平成21年)に京都市市民栄誉賞を受賞。2011年(平成23年)からは京都市名誉観光大使を務めた。 2000年(平成12年)、16年間悩み続けた白内障の手術に踏み切り、無事成功する。 2005年(平成17年)、芸能生活70周年を迎えたこの年の3月4日 - 27日に行われた芸術座公演『放浪記』は、老朽化のため解体が決まった芸術座での最終公演。千秋楽ではカーテンコールの際に「祝・大千穐楽 あたたかいご声援をありがとうございました」と書かれたパネルが舞台上に掲げられ、48年の歴史に幕を閉じた。 10月5日 - 30日(帝国劇場)、11月5日〜30日(中日劇場)、伊集院静原作の舞台『ツキコの月 そして、タンゴ』に出演。東山紀之との共演が話題となった。また、この舞台の主題歌として10月5日、10年ぶりにリリースした新曲『月夜のタンゴ』(作詞:竹内まりや、作曲・編曲:山下達郎)が10月17日付のオリコンチャートで45位初登場となった。歌手デビュー64年で初のチャートインは史上最長期間記録。85歳5カ月での初登場トップ50入りも最年長記録で、ダブル快挙である。 11月、文化勲章を授与される。女優からの勲章受章者は山田五十鈴以来2人目(杉村春子は辞退)。 2006年(平成18年)9月2日 - 27日(明治座)、11月1日〜26日(名鉄ホール)に公演が行われた『女たちの忠臣蔵』(作:橋田壽賀子、劇化:田井洋子、演出:石井ふく子)にナレーターとして参加。1979年のテレビドラマ版でナレーターを務めて以来、1980年の舞台初演からナレーターを務めているが、この公演の録音が最後となった。この年、元・俳優で1970年(昭和45年)以降、35年余にわたり森を支えてきたマネージャー関富士夫が直腸がんを発病、治療に専念するため退社を余儀なくされる、という出来事が起きている。 2007年(平成19年)10月2日 - 26日、新橋演舞場10月公演『錦秋演舞場祭り 中村勘三郎奮闘』に出演。十八代目 中村勘三郎との初共演が注目された。昼の部は勘三郎中心の歌舞伎公演、森は夜の部の『森光子・中村勘三郎特別公演「寝坊な豆腐屋」』(脚本:鈴木聡、演出:栗山民也)に出演、親子を演じた。先代勘三郎とは歌舞伎座公演『いくぢなし』(1969年)、帝劇公演『花の吉原つき馬屋』(1984年)など過去に4回舞台で共演しているが、十八代目との共演は前名・中村勘九郎時代から映画、テレビを含め初めてであり、これに加えて森の希望で2代目 中村勘太郎、2代目 中村七之助も配役され、実に親子3代との共演が実現した。しかし、結局これが最初で最後の共演となった。また、東宝系の舞台出演が多い森にとって、松竹系の演舞場への登場は1966年に森繁久彌、三木のり平らと共演した「森繁劇団特別公演」以来、実に41年ぶりのことであった。 2008年(平成20年)、1月、前年11月、芸術座の跡地にオープンした新劇場「シアタークリエ」で初の『放浪記』公演を行う。この公演からそれまで名物となっていた「でんぐり返し」をとりやめ、万歳三唱に変更。これは前年の博多公演で失敗したことや、森の体力面を考慮しての処置であり「でんぐり返しの封印」と報道された。また、この年の4月に唯一存命の肉親で、長年「オフィス・モリ」代表、マネージャーとして、公私にわたり森を支え続けた3歳下の実妹・柳田咲子が死去。そのショックは大きく、本人は喪に服し(公に発覚したのは翌2009年の放浪記公演前だった)、気丈に振舞うも、夏頃には喉の病気を患ったことも重なり、あきらかに衰弱した姿が見られるようになった。またこの時期と前後して、長年森に尽くした付き人がいつともなく森の元を去っている。こうした事実に、多数の週刊誌が興味本位に「森光子の老い」との記事を組むなど、翌2009年の放浪記の公演はおろか森の生命すら危ぶまれる状態にあった。森はそんな中、親交が深い和田アキ子宅を訪れ、まだ女優を続けたい思いと、思うようにならない身体との間で思い悩み、和田に相談を持ちかけたという。4時間に及んだ話し合いの中、和田は森に「森っち、もうええやん。これまでずっと頑張ったやん」と降板するように進言したという。しかし、結局森は「お客様が待ってる」「私の生きがいだから」とそれを断り、舞台に拘り続けた。 2009年(平成21年)1月、初の著書『女優森光子 大正・昭和・平成 -八十八年激動の軌跡-』を出版。懸念された健康状態も年明け頃から徐々に立ち直り、舞台公演は無事に続けられ、5月9日の誕生日には『放浪記』上演2000回を迎えた。また、5月11日には河村建夫内閣官房長官より森に国民栄誉賞を授与する方針が表明され、5月29日に正式決定の上、7月1日に授与された。これは俳優では初の生前授与である。 11月3日から27日にはマキノノゾミ作・演出の明治座11月公演(国民栄誉賞受賞記念出演作品)『晩秋』に出演。マキノは森を想定して脚本を当て書きし、演出した。また森自身が共演者として十代目 坂東三津五郎と八千草薫を指名、三津五郎とは初共演、八千草とは1961年の『放浪記』以来48年振りの共演となった。この作品では振袖姿で『センチメンタル・ジャーニー』を英語で歌うシーンもこなしている。 2010年(平成22年)1月8日 - 2月6日、引き続き帝国劇場での舞台『新春 人生革命』(作・演出・構成:ジャニー喜多川)に出演、滝沢秀明、錦織一清との共演が話題となったが、この頃すでに立ち上がりや歩行に介添えが必要となっており、舞台上でも座った姿勢での演技や共演者が移動の際に手をとるなど「立たずに済む、動かずに済む」演出が多くなり、抑揚に欠ける台詞回しや、長台詞になると飛んでしまう(忘れてしまう)こともたびたび生じ、場面によってはリップシンクが採用されるなど、その衰えは否めなかった。しかし持ち前のユーモアと機転でアドリブを交え、そうした不安をカバーして1か月に及ぶ公演を務め上げた。だが2月26日、体力面を不安視する主治医の勧めもあり、同年5月から6月にシアタークリエで公演予定だった『放浪記』の中止が発表された。 以後は各種のイベントや芸能関係者の訃報・慶事に対し本人名義のコメントを寄せているが、2008年TBS放送の『渡る世間は鬼ばかり』第9シリーズ秋のスペシャルがドラマ作品の遺作となり、女優としての活動は舞台『人生革命』が最後となった。2010年8月11日放送(収録は7月)のドキュメンタリー番組『戦場の漫才師たち 〜わらわし隊”の戦争〜』(NHK総合)に証言者として出演、同年11月には帝国ホテルで帝国劇場100年記念ムック本『帝劇ワンダーランド 〜帝国劇場開場100周年記念読本』への収録のためインタビュー取材と写真撮影を受けているが、これが表舞台での最後の仕事となった。2012年(平成24年)1月2日〜28日、明治座創業140周年記念公演として、5年4か月ぶりにキャストを一新して上演された『女たちの忠臣蔵』では久々にナレーターとして名を連ねているが、実際には前回、2006年の明治座9月公演の際に録音されたものが使用された。最後の近影となったのは、2012年2月7日から4月30日にかけ上演された堂本光一主演の舞台『Endless Shock 2012』の初日に公表された、公演ポスターを掲げる姿(実際には1月22日の撮影)で、公式の場に寄せた最後のコメントとなったのは、2012年7月9日に山田五十鈴が死去した際のものである。
※この「栄典受章の陰で - 晩年の状況」の解説は、「森光子」の解説の一部です。
「栄典受章の陰で - 晩年の状況」を含む「森光子」の記事については、「森光子」の概要を参照ください。
- 栄典受章の陰で - 晩年の状況のページへのリンク