大学への復職とは? わかりやすく解説

大学への復職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)

マルティン・ハイデッガー」の記事における「大学への復職」の解説

1951年には復職し退官教授となり、夏学期演習アリストテレス自然学2-1,3-1-3」。1951年8月5日ダルムシュタットでのシンポジウムダルムシュタット会話人間空間」において「建てること、住むこと、考えること」を講演ホセ・オルテガ・イ・ガセットもこのシンポジウムで「技術彼岸にある人間神話」を講演しハイデッガー会話した1951年10月6日、ビューラーヘーエで「詩人のように人は住む」講演。ビューラーヘーエでオルテガ存在概念について論争する1952年5月19日ハンナ・アーレントは再びフライブルク訪問しハイデッガー会った6月6日の夫への手紙でハイデッガー講義すばらしいものであったが、その妻とは悶着をおこし、ハイデッガー5万ページ未発表原稿は「本来ならそれを彼女(妻エルフレーデ)が数年のあいだにスムーズにタイプすることができていたはず」なのにしなかった、ハイデッガー頼れるのは弟だけと報告している。 1953年初頭サルトルハイデッガー訪問した『形而上学入門』がマックス・ニーマイヤー書店より再刊される。当時24歳学生ユルゲン・ハーバーマスは「『存在と時間』の魅力取り憑かれていただけに、文体隅々までファシズム的なものの染み込んでいるこの講義読んで大きなショックを受け」、「ハイデッガーハイデッガーに対して考える」を1953年7月25日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙上発表し、「この運動の内的真理偉大さ」という文中での表現について注釈序文での説明もないまま刊行したハイデッガーを「ファシスト知性」と非難し、「数百万人人間対する、今日我々みなが知っている計画的な殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは帰責能力をもって殺人行った人々実際犯罪ではないのか。それに対しては、一つ民族全体良心の呵責感じねばならぬのではないのか」と質問した8月13日クリスティアーン・E・レヴァルターがディー・ツァイト紙上で、この箇所は、ハイデッガー当時ヒトラー政権を「新し救済の印」としてではなく形而上学頽落歴史の中での「さらに進んだ頽落症候」と理解していたことの記録であるとし、「この運動の内的真理偉大さ惑星規模規定受けた技術西欧人間との出会い)」と括弧に付け加えられ文章について「ナチ運動は、技術と人間悲劇的な邂逅症候であり、その影響西欧全体広がり西欧没落引きずり込もうとしているからこそ、そのような症候として偉大さをもつのである」と反駁した。ハイデッガー9月24日ディー・ツァイト紙上でレヴァルターの見解を適切とし、あの文章を「削除するのは容易なことだったでしょう。しかし私はそうしませんでした将来そのまま残すつもりでいます。というのも一つには、あの文章歴史的に言って出来事としてすでに講義されたものだからですが、また、二つ目には、思索の手仕事学んだ読者から見れば、この講義は氏が挙げている文章十分に受け入れうるものと確信しているからです」と投書した11月18日ミュンヘン工業大学講演技術への問い」、ハンス・カロッサハイゼンベルクエルンスト・ユンガーホセ・オルテガ・イ・ガセットらも聴講し盛大なスタンディングオベーション起こり戦後ドイツでのハイデッガー公開の場での最大の成功となった1954年3月ドイツ文学者の手富雄ハイデッガー訪れた手塚との会話をもとに九鬼周造についての論評交えてハイデッガーは『言葉について対話』として刊行した1954年夏には鈴木大拙ハイデッガー訪問した1954年ヤスパースブルトマンとの論争公然とハイデッガー批判した。この1954年からハイデッガーは「1945年 - 51年大学における私の正教授としての地位に関する出来事」という弁明書を書き始めた1955年4月、W・ホフマン求めヘルダーリン協会入会1944年書いていた『思惟についての野の道での対話』を改訂マイスター・エックハルトを「思惟することの古き巨匠」と呼んだ同年メスキルヒ出身作曲家コンラディン・クロイツァー生誕175年記念のために1945年行った講演放下」を対話篇放下解明のために』として書き1959年刊行した1955年9月、フランスノルマンディーのセリジー=ラ=サル城館で「哲学とは何か」講演ジャン・ボーフレ、コスタス・アクセロス、ガブリエル・マルセル、アンリ・ビロール、ルシアン・ゴルドマン、文学研究者ベーダ・アレマン、ヤスパース高弟ジャンヌ・エルシュ、ドゥ・ヴェーレンス、ドンディン、ワイルマン、ヴァン・リート、ビーメルが聴講した。コスタス・アクセロスの仲介ハイデッガージャック・ラカンと会う。パリ詩人ルネ・シャール会いヴァランジュヴィル画家ジョルジュ・ブラックと会う。ユンガー60歳記念論文集に「線を越えて寄稿1956年に『有の問いへ』と題してヴィットリオ・クロスターマン社から刊行された。 1956年5月7日、「ヘーベルとの対話講演5月25日、ブレーメンクラブで講演根拠律」。オランダヘルダーラント州のクレラー・ミュラー美術館フィンセント・ファン・ゴッホ絵画を見る。 1957年3月24日、トートナウベルクで講義形而上学存在神論的体制」。夏学期一般教養講義で「思考根本命題」。6月27日フライブルク大学創立500年祝賀会講演同一律」、この講演レコード化された。ボーデン湖マイナウ島マルティン・ブーバーと会う。1957年ハイデッガーベルリン芸術学士会員バイエルン芸術学士会員ガダマー尽力ハイデルベルク学士院会員となる。 1958年3月20日エクス=アン=プロヴァンスで「ヘーゲルギリシア人達」講演。これ以降ルネ・シャール招きハイデッガーエクス=アン=プロヴァンス三度訪問した同年7月26日ハイデルベルク学士院総会でも同題で講演5月11日ウィーンブルク劇場講演詩作思索」、久松真一辻村公一らも聴講した5月フライブルク大学ハイデッガー主催し、「芸術と禅」について討論会久松真一辻村公一オイゲン・フィンク、M・ミュラー参加した1958年ミラノ-ヴァレセの「Il Pensiero (思想)」に1939年書かれていた草稿ピュシス本質概念について。アリストテレス自然学B、1」を発表スイス精神科医メダルト・ボス求め1959年9月8日チューリッヒ大学付属病院精神科ブルクヘルツリ講堂講演以降1964年1月7月11月1965年1966年1969年ボス自宅でツォリコーン・ゼミナールが開かれた9月26日70歳誕生日にはメスキルヒ住民からの祝いがあった。 1960年バーデン=ヴュルテンベルク州ヘーベル受賞。これ以前ヘーベル賞を受賞したのは作家アーダルベルト・シュティフターとカール・ヤコブ・ブルクハルト (1891 – 1974) のみで、ハイデッガー3人目受賞であった1961年5月17日キールで「有に関するカントテーゼ」を講演単行本1963年刊行された。1961年7月22日メスキルヒ公会堂メスキルヒ700年祝辞述べそのなかで思慮夕べに、一日終わり夕べ、生の終わり夕べまつわる事柄語った1962年4月リチャードソン神父への書簡で「転向」は『存在と時間』の変更でも放棄でもなく、『存在と時間』の問題忠実になされたと書いている。同4月ブレーメンのヘルムケンの勧誘初めギリシア旅行した7月18日実業学校教員息子イェルク・ハイデッガーの仲介でシュヴェービッシュ・ハルコンブルクの国立アカデミーでの実業学校教員のための講演伝承され言語技術的な言語」をした。この年ハイデッガーナチス関連文書収集したグイード・シュネーベルガー『ハイデッガー拾遺』が刊行された。 1963年2月23日ハイデッガーヤスパース80歳の誕生日に祝信を送る。3月25日ヤスパースは「対話はおそらくできません」と返信した。ギュンター・グラス1963年発表した小説犬の年』でメスキルヒ生まれた男(ハイデッガーのこと)について「よく聞けよ。あの男メスキルヒ生まれたんだ。イン河畔ブラウナウ近くにある町でだ。あいつ(ハイデッガー)ともう一人の男(ヒトラー)は同じとんがり帽子年に臍の緒切られたんだ。あいつともう一人の男はお互いに創造し合ったのだ」と書いた。 1964年ハンブルク大学客員教授となった西谷啓治ハイデッガー戦前訪問して以来久しぶり訪問した1964年5月2日ハイデッガーメスキルヒラテン語学校同窓会で「アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラについて」講演しそのなかでザクセンハウゼンフランクフルト近くあるように、我々の平和が戦争近くにあるとしても、神の慈悲によって、我々のところでは、貧しくとも、みな暖かい」というアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ言葉引用したり、またアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ文章には韻が巧妙に配されており、「トルコ兵の頭蓋(Köpfe)と弁髪(Zöpfe)が土鍋(Töpfe)のように一面散らばっていた」という文章や銀白の白鳥白さ連想させた文例挙げるなどしたうえで、「言葉巨匠」であると論じたテオドール・アドルノ1964年の『本来性という隠語』でハイデッガー批判した1964年秋、ハイデッガーネスケへの覚書ナチスへの加担政治的過誤について書いた1966年9月5日-10日プロヴァンスのル・トールでパルメニデスヘラクレイトス講義。このゼミナール1968年1969年にも行われ午前中に開かれ午後ポール・セザンヌ描いたサント・ヴィクトワール山方面へのハイキングに出かけ、ハイデッガーは「初めから終わりまで、私独自の思索の道がその独自の仕方で」この道にふさわしいとした夕方にはルネ・シャールの家で集まった。同1966年ユンガー東アジア旅行するため、手紙に『老子下篇47章の訳を添えた

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