大学への復職
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「大学への復職」の解説
1951年には復職し、退官教授となり、夏学期は演習「アリストテレス自然学2-1,3-1-3」。1951年8月5日、ダルムシュタットでのシンポジウム「ダルムシュタット会話:人間と空間」において「建てること、住むこと、考えること」を講演。ホセ・オルテガ・イ・ガセットもこのシンポジウムで「技術の彼岸にある人間の神話」を講演し、ハイデッガーと会話した。1951年10月6日、ビューラーヘーエで「詩人のように人は住む」講演。ビューラーヘーエでオルテガと存在概念について論争する。 1952年5月19日、ハンナ・アーレントは再びフライブルクを訪問し、ハイデッガーと会った。6月6日の夫への手紙でハイデッガーの講義はすばらしいものであったが、その妻とは悶着をおこし、ハイデッガーの5万ページの未発表原稿は「本来ならそれを彼女(妻エルフレーデ)が数年のあいだにスムーズにタイプすることができていたはず」なのにしなかった、ハイデッガーが頼れるのは弟だけと報告している。 1953年初頭、サルトルがハイデッガーを訪問した。『形而上学入門』がマックス・ニーマイヤー書店より再刊される。当時24歳の学生ユルゲン・ハーバーマスは「『存在と時間』の魅力に取り憑かれていただけに、文体の隅々までファシズム的なものの染み込んでいるこの講義を読んで大きなショックを受け」、「ハイデッガーとハイデッガーに対して考える」を1953年7月25日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙上に発表し、「この運動の内的真理と偉大さ」という文中での表現について注釈も序文での説明もないまま刊行したハイデッガーを「ファシスト的知性」と非難し、「数百万人の人間に対する、今日我々みなが知っている計画的な殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは帰責能力をもって殺人を行った人々の実際の犯罪ではないのか。それに対しては、一つの民族全体が良心の呵責を感じねばならぬのではないのか」と質問した。8月13日、クリスティアーン・E・レヴァルターがディー・ツァイト紙上で、この箇所は、ハイデッガーが当時ヒトラー政権を「新しい救済の印」としてではなく、形而上学の頽落の歴史の中での「さらに進んだ頽落の症候」と理解していたことの記録であるとし、「この運動の内的真理と偉大さ(惑星規模の規定を受けた技術と西欧的人間との出会い)」と括弧内に付け加えられた文章について「ナチ運動は、技術と人間の悲劇的な邂逅の症候であり、その影響が西欧全体に広がり、西欧を没落へ引きずり込もうとしているからこそ、そのような症候として偉大さをもつのである」と反駁した。ハイデッガーも9月24日ディー・ツァイト紙上でレヴァルターの見解を適切とし、あの文章を「削除するのは容易なことだったでしょう。しかし私はそうしませんでした。将来もそのまま残すつもりでいます。というのも、一つには、あの文章歴史的に言って出来事としてすでに講義されたものだからですが、また、二つ目には、思索の手仕事を学んだ読者から見れば、この講義は氏が挙げている文章を十分に受け入れうるものと確信しているからです」と投書した。 11月18日、ミュンヘン工業大学で講演「技術への問い」、ハンス・カロッサ、ハイゼンベルク、エルンスト・ユンガー、ホセ・オルテガ・イ・ガセットらも聴講し、盛大なスタンディングオベーションが起こり、戦後ドイツでのハイデッガーの公開の場での最大の成功となった。 1954年3月、ドイツ文学者の手塚富雄がハイデッガーを訪れた。手塚との会話をもとに九鬼周造についての論評を交えてハイデッガーは『言葉についての対話』として刊行した。1954年夏には鈴木大拙がハイデッガーを訪問した。1954年、ヤスパースがブルトマンとの論争で公然とハイデッガーを批判した。この1954年からハイデッガーは「1945年 - 51年の大学における私の正教授としての地位に関する出来事」という弁明書を書き始めた。 1955年4月、W・ホフマンの求めでヘルダーリン協会に入会。1944年に書いていた『思惟についての野の道での対話』を改訂、マイスター・エックハルトを「思惟することの古き巨匠」と呼んだ。同年、メスキルヒ出身の作曲家コンラディン・クロイツァー生誕175年記念のために1945年に行った講演「放下」を対話篇『放下の解明のために』として書き、1959年に刊行した。 1955年9月、フランスノルマンディーのセリジー=ラ=サルの城館で「哲学とは何か」講演、ジャン・ボーフレ、コスタス・アクセロス、ガブリエル・マルセル、アンリ・ビロール、ルシアン・ゴルドマン、文学研究者ベーダ・アレマン、ヤスパースの高弟ジャンヌ・エルシュ、ドゥ・ヴェーレンス、ドンディン、ワイルマン、ヴァン・リート、ビーメルが聴講した。コスタス・アクセロスの仲介でハイデッガー、ジャック・ラカンと会う。パリで詩人ルネ・シャールと会い、ヴァランジュヴィルで画家ジョルジュ・ブラックと会う。ユンガー60歳記念論文集に「線を越えて」寄稿、1956年に『有の問いへ』と題してヴィットリオ・クロスターマン社から刊行された。 1956年5月7日、「ヘーベルとの対話」講演、5月25日、ブレーメンクラブで講演「根拠律」。オランダヘルダーラント州のクレラー・ミュラー美術館でフィンセント・ファン・ゴッホの絵画を見る。 1957年3月24日、トートナウベルクで講義「形而上学の存在神論的体制」。夏学期、一般教養講義で「思考の根本命題」。6月27日、フライブルク大学創立500年祝賀会で講演「同一律」、この講演はレコード化された。ボーデン湖マイナウ島でマルティン・ブーバーと会う。1957年、ハイデッガーはベルリン芸術学士院会員、バイエルン芸術学士院会員、ガダマーの尽力でハイデルベルク学士院会員となる。 1958年3月20日、エクス=アン=プロヴァンスで「ヘーゲルとギリシア人達」講演。これ以降、ルネ・シャールの招きでハイデッガーはエクス=アン=プロヴァンスを三度訪問した。同年7月26日、ハイデルベルク学士院総会でも同題で講演。5月11日、ウィーンのブルク劇場で講演「詩作と思索」、久松真一、辻村公一らも聴講した。5月、フライブルク大学でハイデッガーが主催し、「芸術と禅」について討論会、久松真一、辻村公一、オイゲン・フィンク、M・ミュラーが参加した。1958年、ミラノ-ヴァレセの「Il Pensiero (思想)」に1939年に書かれていた草稿「ピュシスの本質と概念について。アリストテレス、自然学B、1」を発表。 スイスの精神科医メダルト・ボスの求めで1959年9月8日、チューリッヒ大学付属病院精神科ブルクヘルツリの講堂で講演、以降、1964年1月、7月、11月、1965年、1966年、1969年にボス自宅でツォリコーン・ゼミナールが開かれた。9月26日の70歳誕生日にはメスキルヒ住民からの祝いがあった。 1960年バーデン=ヴュルテンベルク州ヘーベル賞受賞。これ以前にヘーベル賞を受賞したのは作家アーダルベルト・シュティフターとカール・ヤコブ・ブルクハルト (1891 – 1974) のみで、ハイデッガーは3人目の受賞であった。 1961年5月17日、キールで「有に関するカントのテーゼ」を講演、単行本は1963年に刊行された。1961年7月22日、メスキルヒ公会堂でメスキルヒ700年祭祝辞を述べ、そのなかで思慮は夕べに、一日の終わりの夕べ、生の終わりの夕べにまつわる事柄と語った。 1962年4月、リチャードソン神父への書簡で「転向」は『存在と時間』の変更でも放棄でもなく、『存在と時間』の問題に忠実になされたと書いている。同4月、ブレーメンのヘルムケンの勧誘で初めてギリシアを旅行した。7月18日、実業学校教員の息子イェルク・ハイデッガーの仲介でシュヴェービッシュ・ハルコンブルクの国立アカデミーでの実業学校教員のための講演「伝承された言語と技術的な言語」をした。この年、ハイデッガーのナチス関連の文書を収集したグイード・シュネーベルガー『ハイデッガー拾遺』が刊行された。 1963年2月23日、ハイデッガーはヤスパース80歳の誕生日に祝信を送る。3月25日、ヤスパースは「対話はおそらくできません」と返信した。ギュンター・グラスは1963年に発表した小説『犬の年』でメスキルヒで生まれた男(ハイデッガーのこと)について「よく聞け、犬よ。あの男はメスキルヒで生まれたんだ。イン河畔のブラウナウの近くにある町でだ。あいつ(ハイデッガー)ともう一人の男(ヒトラー)は同じとんがり帽子年に臍の緒を切られたんだ。あいつともう一人の男はお互いに創造し合ったのだ」と書いた。 1964年、ハンブルク大学客員教授となった西谷啓治がハイデッガーを戦前に訪問して以来久しぶりに訪問した。1964年5月2日、ハイデッガーはメスキルヒのラテン語学校の同窓会で「アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラについて」講演し、そのなかで「ザクセンハウゼンがフランクフルトの近くにあるように、我々の平和が戦争の近くにあるとしても、神の慈悲によって、我々のところでは、貧しくとも、みな暖かい」というアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの言葉を引用したり、またアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの文章には韻が巧妙に配されており、「トルコ兵の頭蓋(Köpfe)と弁髪(Zöpfe)が土鍋(Töpfe)のように一面に散らばっていた」という文章や銀白の白鳥に雪の白さを連想させた文例を挙げるなどしたうえで、「言葉の巨匠」であると論じた。テオドール・アドルノは1964年の『本来性という隠語』でハイデッガーを批判した。1964年秋、ハイデッガーはネスケへの覚書でナチスへの加担の政治的過誤について書いた。 1966年9月5日-10日、プロヴァンスのル・トールでパルメニデスとヘラクレイトス講義。このゼミナールは1968年、1969年にも行われ、午前中に開かれ、午後はポール・セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山方面へのハイキングに出かけ、ハイデッガーは「初めから終わりまで、私独自の思索の道がその独自の仕方で」この道にふさわしいとした。夕方にはルネ・シャールの家で集まった。同1966年、ユンガーが東アジアに旅行するため、手紙に『老子』下篇47章の訳を添えた。
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