コンラディン・クロイツァーとは? わかりやすく解説

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コンラディン・クロイツァー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:42 UTC 版)

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コンラディン・クロイツァー
Conradin Kreutzer
基本情報
生誕 1780年11月22日
出身地 神聖ローマ帝国 バーデン辺境伯領 メスキルヒ
死没 (1849-12-14) 1849年12月14日(69歳没)
ロシア帝国 リガ
ジャンル クラシック音楽
ケルントナートーア劇場(1830年)

コンラディン・クロイツァーConradin Kreutzer1780年11月22日メスキルヒジークマリンゲン郊外)) - 1849年12月14日リガ))は、ドイツビーダーマイヤー期を代表するオペラ作曲家指揮者

略歴

父の要求によりフライブルクで法律を学び、かたわらジングシュピールを作曲、学生仲間で上演する。1800年、父の死によって音楽に踏み切り、各地を遍歴ののち、1811年シュトゥットガルトオペラを上演する。1812年宮廷楽長になるも、1816年に辞職する。1818年ドナウエッシンゲンの宮廷楽長に就任する。そして1822年ウィーンケルントナートーア劇場楽長に就任する(1827年まで)。その後も2度務める。1833年、ヨーゼフスタット劇場楽長に就任する。この間、1834年に作曲した『グラナダの夜営』で一躍有名になる。1840年にウィーンを去り、1842年までケルンの市音楽指揮者を務めた。以後はオペラ歌手である娘セシリア・クロイツァーたちの演奏旅行や契約地を転々とし、1849年に末娘の契約地リガにおいて脳溢血で倒れ、この世を去った。オペラのほかに3曲のピアノ協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲などを残している。

作品

  • ジングシュピール『エリーとベテリー』(1810年
  • オペラ『シュヴァーベンのコンラディン』(1812年
  • オペレッタ『フェドーラ』(1812年
  • オペラ『リブッサ』(1822年
  • オペラ『美しいメルージーネの物語』 (1833年
  • オペラ『グラナダの夜営』(1834年
  • オペラ『浪費者』(1834年
  • オペラ『ブルガリアの公爵夫人』(1849年

参考文献

外部リンク

先代:
イグナツ・フランツ・カステリ
ケルントナートーア劇場
楽長
1822年 - 1827年
次代:
フランツ・ラハナー
先代:
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
初代音楽監督
1840年 - 1842年
次代:
ハインリヒ・ドルン




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