主な作品解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:13 UTC 版)
「天璋院像」(徳川記念財団) 板・油彩 48.6x38.2cm「 1884年 - 一周忌に作られた遺影 「昭徳院(徳川家茂)肖像」(徳川記念財団) 板・金地、油彩 53.3x37.0cm 1884年頃清雄が制作した《歴代将軍像》の5点のうちの1点。他は「有徳院(徳川吉宗)像」「温恭院(徳川家定)像」「徳川慶喜像」像主不明の「将軍肖像」(徳川家重像とする説あり)が残る(全て徳川記念財団蔵)。印刷局を辞め生活に困った清雄に、海舟が徳川宗家に肖像画制作を斡旋し、清雄は月給30円を受けとり糊口をしのぐことができた。清雄の伯父は家茂近くに仕えており、この伯父から家茂のことを聞き取って描いたという。しかし、束帯などの装束や有職故実に間違いがあってはならず、清雄自身が遅筆なこともあってなかなか制作が進まなかった。海舟には会う度に小言を言われ、一年後にようやく家茂像や海舟像などの作品を見せに行くと、「お前の絵なんぞ見なくてもいい。はらわたが腐った奴は絵なんぞ描いたって駄目だから、腹切って死んでしまえ」と立腹していた。清雄が「腹は切りますけれど、どうぞ絵をご覧くださいまし」と答えると、「皆毀してしまえ」とまだ海舟の怒りは収まらない。「毀すことには毀しますが、この中には将軍の御肖像や(勝)先生のもありますから、2枚だけは私の手で破るわけにはいきません。これは如何致しましょうか」と切り返すと、ようやく海舟も「お見せ」と絵を観る気になった。絵を観た海舟は非常に悦び「川村はずるいよ、賄賂にこんな絵を持ってきた」と漏らした。次いで海舟の勧めで徳川家に持って行くと、母さん(ルビは「おっかさん」、家茂の実母・実成院か?)も大変悦び、家令も「どうしてこんなに似ているのだろう」と驚いたという。帰ってきて海舟にこの事を話すと、「お前は余程運がいい男だ。あれが似ていたんで命が続いたわい」と感想を述べた。その後、1年半で更に上記の4点を描くが、徳川家が清雄の遅筆にしびれを切らして給料は打ち切られ、肖像画制作も中断した。 帰国後の清雄は金地に描くのを好んだが、この作品はその早い例である。明治後期の一時の洋画には、岡田三郎助の作品や藤島武二の「天平の面影」、青木繁の「海の幸」など背景に金地を用いるのが流行している。この現象は、黒田清輝の「智・感・情」の影響というのが定説だが、その黒田に影響を与えたのは対立していた清雄の作品とする説もある。 画家の山口晃は、実作者の立場から本作品や清雄の絵を読み解いている。手前の人物は洋画的に、人物の背景は金地のようにベタ塗りの平面で描かれており、普通なら画空間が壊れてしまう。ところが清雄は、人物の描き込みを少し弱め、床から背景に移る部分に一調子入れることで、背景はベタ塗りのバックで平面的な反発力を持ちながら、同時に茫洋とした空間にも見えるようになり、図としては単純ながらも複雑な空間を獲得している。対して「智・感・情」では、描き込んだ人体と平塗りの背景が組み合わされただけで、画空間を構成してはいない。このモチーフの描写を部分的に省略し、かつ絵の具の物質性を見せる塗り方をすることで、金地の平面性・物質性と呼応させて、物質感を残したまま画空間を形成する手法は、後年の作品にも繋がる清雄絵画の大きな特徴と言える。いわば、西洋画の奥行き表現を壊して異質な空間を現出させるために、西洋の描法を壊している。更に油絵具においても、西洋描法とセットだったものを解体し、日本絵画の画材の一つ成立せしめた感があり、清雄の画業は、日本と西洋の融合ではなく、日本で最初期の西洋画の破壊だと評している。 「勝海舟江戸城開城図(江戸城明渡の帰途)」(江戸東京博物館) キャンバス・油彩 119.8x61.4cm 1885年頃海舟の肖像画としてよく知られた作品。右背景にある江戸城の石垣に穿たれた弾痕、海舟の足元に落ちている三つ葉葵が入った軒丸瓦が、徳川時代の終焉を象徴する。左の背後には、怒りの表情を浮かべた旧幕府軍の将校が刀を抜き海舟に斬りかかろうとしているが、これは後に書き加えられたものらしく、この人物が描かれていない状態の写真が残る(画像)。日銀総裁や東京府知事などを歴任した富田鐵之助の依頼によって描かれ、完成後は海舟に献じられた。その潤筆料に海舟の私費を加えて、海舟邸内に清雄の画室「心華書房」が建てられた。 展示や図版に掲載される際は、絵だけの場合が多いが、本来は重厚な足が付く(画像)。この状態で勝邸内の押し下の間に飾られ、子孫たちの礼拝の対象になっていたという。同じような例は他にもあり、川村清雄画の『大久保一翁像』(個人蔵)も、大久保家の仏壇に遺影として飾られており、上記の「天璋院像」も遺影として制作された。単に肖像としてのみならず、明治日本における洋画受容を考える上でも貴重な資料といえる。 「雲龍図(蛟龍天に昇る)」(福富太郎コレクション) キャンバス油彩 90.5x181.0cm 1891年頃雲の上を天翔る龍をダイナミックに描いた作品。明治24年(1891年)暴風雨が降る大晦日の日に、借金の返済を求められた川村清雄は、本作を勝海舟に当時のお金で百円という大金で買い上げてもらい、かろうじて年を越すことができたという逸話を持つ。龍の頭は、清雄は馬の頭を買って、これを参考にして描いた。海舟は客間にこの絵を飾り、訪ねた客たちを驚かせたという。 「形見の直垂(虫干図)」(東京国立博物館) キャンバス・油彩 109.0x172.8cm 1899年以降明治32年1月19日勝海舟が亡くなった。清雄は訃報を聞くとすぐさま駆けつけ、高橋源三郎(西澤金山経営者)、副島八十六(日印協会の運営に関わる)、宇佐彦麿らと共にその棺側に従い、海舟を死後の世界へ送り出した。本作品は、海舟没後直ちに制作が開始され、同年春の個展に未完成作品が出品されているのが見える。戦後のある時期「虫干し図」と呼ばれていた時期があるが、「形見の直垂(ひたたれ)」が本来の名称である。画面左の少女は、海舟の私心無き清らかな心を表象し、棺側に従った時に清雄が纏った白直垂を着せる。画面には海舟の胸像や、遺愛の品などを散らし、最大の恩人に対する深い感謝と鎮魂の願いを込めている。清雄はこの作品に筆を入れ続け、手元に自作を置かない清雄も、これだけはこの世を去るまで手放さなかった。清雄の没後は、帝室博物館が2000円で買い上げている。 「建国」(パリ・オルセー美術館) 絹本油彩 147.0x72.8cm 1929年 東洋学者・シルヴァン・レヴィの発意がきっかけでフランスに渡った作品。昭和2年(1927年)5月に東京上野の日本美術協会で『川村清雄 画伯全作品展覧会』で一週間開かれていた。展覧会の目的の一つは、パトロンのひとりである加島虎吉が経営する至誠堂の事業再建のため、自身のコレクションを売却するためであった。これをたまたま観に来ていたレヴィは、当時岸清一が所蔵していた『ヴェネツィア風景』(戦災で焼失)を観て感激し、是非これを母国フランスの美術館に収蔵したいと申し出た。木村駿吉を通じてこれを知った清雄は、「どうせ外国にいくのなら、外国にない純日本的なものをお見せしたい」と考え、この作品を一年半かけて制作、岸たちが仲介して寄贈された。 「建国」は、「天岩戸の神話」をモチーフだと清雄自身が語っている。絵の中央下に常世の長鳴鳥(鶏)を大きく描き、周囲に剣、鏡、勾玉、桜などを散らし、画面には金・白・赤が目立ち吉祥性が感じられる。右下を中心に末広がりの構図や、画面左下の須恵器の壷に左上にハイライトを付け、右下を暗く描くことで、画面からはみ出た左上方にある太陽(日本)の存在を暗示する。しかし、当時のフランスの反応を見ると、レヴィ自身を含めこの絵を日本神話を描いたものだと受け取っていない。フランス人は中央の雄鶏を、三色旗やマリアンヌと共にフランスを象徴する図像「ガリアの雄鶏」だと理解し、古代の装飾品の数々と太陽が日本を表し、フランスが日本へと高らかに鳴き声を上げている「日仏友好」の絵だと解釈された。これはフランス側の誤解ではなく、フランスに一時留学していた清雄自身が、フランス人にこの絵がどう受け止められるか計算して描いたと推測される。当初は当時の現代美術館であったリュクサンブール美術館(ポンピドゥー・センターの前身)に納められたが、後に国立近代美術館を経てルーブル美術館に移され、1980年にオルセー美術館に移管、1991年以前にギメ美術館に移され、再びオルセー美術館に戻され現在に至っている。 「振天府」(聖徳記念絵画館) キャンバス・油彩 300.0x270.0cm 1931年以前聖徳記念絵画館に掲げられた80枚の内65番目の作品。振天府(しんてんふ)とは明治30年(1897年)3月、吹上御苑に建てられた御府のうちの一つ。明治天皇によって、日清戦争の帰還将兵たちから皇室に献上された戦利品の展示、及び戦死した将校の写真や下士官以下の名簿を保存し、長く彼らの武勲を伝える陳列庫として建造された(現在は非公開)。絵画館の壁画は、形式的には全て「奉納」であり、スポンサーが画家に画料1万円を払い、完成した作品を奉納する仕組みだった。振天府の奉納者は、清雄の旧主君・家達である。家達は明治神宮奉賛会の会長を務め、壁画奉納にも直接関わった。家達はまだ壁画を受理するかも決まっていない段階で、会議の劈頭一番に、清雄に振天府を描かせると宣言している。清雄は老齢なため、依頼を断るのでは、という声もあったが、清雄は喜んで快諾した。 壁画には全て二世五姓田芳柳による試案図があるが、清雄はこれに全く従っていない。清雄は、清軍からの鹵獲品を静物画仕立てにして画面中央に配し、上部に収蔵品搬入の様子と軍旗を掲げて進軍する日本軍を描き加え、絵画館の作品の中では異例の構想画とすることで、陳列庫の絵画化という困難な課題に答えた。同館の作品は制約が多い制作環境のためか、紙芝居のように精気に欠ける作品が多い中、同館の中でも異色の作品に仕上がっている。
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