開局までの経緯とは? わかりやすく解説

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開局までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:38 UTC 版)

福島テレビ」の記事における「開局までの経緯」の解説

福島県ではラジオ福島RFC)が1957年昭和32年)にテレビ予備免許コールサインJOWR-TV)を取得するものの、1958年昭和33年)に失効してしまった。全国的にラジオ単営局テレビ放送開始してラテ兼営局になる傾向ひいてはTBSJNN系列日本テレビNNN系列への加入)があり、ラジオ福島兼営となるところであったが、増資などの折り合い付かずその道閉ざされた。 次に同名ながら全くの別会社である「株式会社福島テレビ」が1960年昭和35年)に予備免許取得コールサイン現在のFTVと同じJOPX-TV)したが、1961年昭和36年3月1日をもって免許失効となり、開局できずに終わったこの度重な開局延期劇の背景には、福島民報福島民友という地元2大新聞間の確執やその背後にある〔民報-毎日新聞-TBS〕と〔民友-読売新聞-日本テレビ〕の関係、またこれらとは別の福島市郡山市といった対立関係もあり、こうした福島県特有の事情のため調整難航していたからである。この争い終止符を打つべく、県が自ら調整乗り出して誕生した放送局本局であり、1962年昭和37年)、県および県議会テレビ免許割当対す競願者の間に調停入り、県が主導した上で福島テレビ株式会社当社)を設立翌年1963年4月開局している。 当時全国的に1県1局が通常で、1967年の「テレビ放送周波数割当計画表」修正までUHF波の親局送信所使用解禁されなかった事情があったとはいえ広域圏中核都府県を除く府県隣県電波の関係でVHF波のテレビ親局送信所設置困難だった佐賀県民放テレビ第1局1969年開局UHF局サガテレビ)を除けば民放テレビ第1局としては、最後発での開局となった

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開局までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 21:59 UTC 版)

讀賣テレビ放送」の記事における「開局までの経緯」の解説

日本テレビ放送網(以下「日本テレビ」)は1953年東京での開局先立ち大阪にも放送免許申請電波監理委員会提出した。しかし、当時大阪地区割り当て電波は2波しかなく、NHK大阪放送局大阪テレビ放送OTV。現・朝日放送テレビ)の2局に免許与えられ、"日本テレビ大阪放送局"の免許却下された。却下理由は「日本テレビ東京地区代表するもので、これが大阪電波を出すのは"越境"である」というもの。日本テレビ率い正力松太郎大阪の他、札幌名古屋福岡同局地域放送局設立することを電波監理委員会申請したが、これも大阪と同じ理由却下された。 大阪では当時読売新聞進出して朝日新聞毎日新聞などと販売競争激しく競い合った大阪テレビ放送朝日新聞毎日新聞朝日放送新日本放送(現・毎日放送)によって設立されテレビ局であることから、当時大阪読売新聞社(現・読売新聞大阪本社社長務臺光雄は「両紙を相手部数伸ばすには、自社系列テレビ局を持つ事が必要」と確信し読売側も大阪読売新聞社中心に関西財界などの出資によるテレビ局作ろう決心。務臺が発起人代表となって財界から発起人集め行った放送局社名は「新大阪テレビ放送株式会社」(しんおおさかテレビほうそう。略称:NOTV=New Osaka Television。『ノーテレ』と呼ばれた)とし、1957年2月設立発起人総会実施社屋大阪市北区岩井町(現・東天満)の真宗大谷派天満別院境内大半借用して建設された。1956年10月放送免許申請郵政大臣提出した。そして、1957年10月に準教育局として新大阪テレビ放送予備免許交付(第10チャンネル、JOIX-TV)された。1958年2月12日創立総会行い同年8月1日社名を「新大阪テレビ放送」から「讀賣テレビ放送株式会社」(略称・YTV愛称よみうりテレビ)へ変更同月28日OTVネットされていた日本テレビ番組を完全移行させる形で近畿地区では2局目の民放テレビ局として開局した。 読売テレビ開局これまでOTVクロスネット政策のため近畿地方流れなかった日本テレビ番組スポンサーの不満が解消し読売新聞西日本での部数増に大きく貢献した大阪本社とする民放テレビ局のうち、関西私鉄資本入らず読売新聞グループ野村証券関連会社資本構成されている。

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開局までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 00:00 UTC 版)

十和田湖テレビ中継局」の記事における「開局までの経緯」の解説

1972年8月20日NHK青森放送局青森放送共同アナログテレビ中継局として開局十和田湖周囲山系囲まれ谷間のような地形であるため、開局以前青森県内におけるテレビ受信地域のひとつであった。また当時十和田湖訪れ観光客増加一途たどっており、その需要対応するため、1970年当地UHF中継局開局決定する。 しかし、地区により青森波(鷹森山もしくは八戸波(天魔平)が受信可能でありながら良好な受信点の探索は困難を極め、いったんは八戸波が受信可能な御鼻部山が有力建設地となったものの、電力線新設費用高額なことや、冬季における燃料電池の使用問題などから同地断念同年秋に現在の山頂での開局決定した国立公園内の立地という事情・制約から保守道の開拓出来ず当地への建設資材機器運搬ヘリコプターによる空輸行われた。また建設当たっては、事前に環境庁文化庁など、監督官庁への許可申請に相当な時間費やしたという。 青森テレビ1年9か月遅れて1974年5月30日開局これに伴い階上岳からの電波受信のため、焼山固定局設置した青森朝日放送1996年開局

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開局までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 00:31 UTC 版)

エフエムおびひろ」の記事における「開局までの経緯」の解説

コミュニティ放送局開局にあたっては、監督官庁である郵政省当時)が市町村東京都特別区政令指定都市内の行政区において、コミュニティ放送局は1局のみとする基本原則定めていた。 しかし、帯広市では北海道新聞グループ帯広ガスグループ、地元建設会社中心になって設立したおびひろ市民ラジオFM-WING)と十勝毎日新聞設立した当社FM-JAGA)が競願となった郵政省一本化再三指示した両社とも拒否したため、ライバル関係にある北海道新聞十勝毎日新聞による「事実上代理戦争となってしまった。その後郵政省事態の収拾を図るため、両局に免許交付するという「実質的な規制緩和」を行い帯広では2つコミュニティ放送局同時に開局することとなった。 現在、同一地域複数コミュニティ放送局存在する地域は、他に札幌市中央区鹿児島県鹿児島市などがある。

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開局までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 15:51 UTC 版)

熊本シティエフエム」の記事における「開局までの経緯」の解説

1994年平成6年以降全国的にコミュニティ放送局相次いで開局し、九州では西日本鉄道福岡市においてコミュニティ放送局開局する意向報道されていた。このような中、熊本日日新聞社テレビ熊本熊本工業大学(現・崇城大学)がそれぞれ個別熊本市当局開局持ちかけ、これらを一本化し誕生したのが熊本シティエフエムである。なお、熊本工業大学開局直前になり枠組から離れた地元経済によれば放送機材導入をめぐり意見がまとまらなかったためとされる。)。出資者も、熊本市筆頭熊本日日新聞社熊本リビング新聞社テレビ熊本の子会社)と続き、その他金融機関地元企業・団体が名を連ねている。代表取締役には熊本市の元助役就任した熊本市マスメディア集中排除原則にいう支配関係にある。 開局構想発表1995年平成7年)秋と西日本鉄道よりもかなり後だったが、急ピッチで準備進め1996年平成8年4月1日九州初のコミュニティ放送局として開局した。なお、西日本鉄道出資する天神エフエム当局半年後の1996年10月1日開局Love FM事業譲渡を受けるため2010年平成22年12月31日廃局した。

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開局までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 06:47 UTC 版)

CWテレビジョンネットワーク」の記事における「開局までの経緯」の解説

The CW(以下、便宜上CW」)の前身であるThe WB(以下、「WB」)はワーナーが、UPNChris-Craft Industries作ったテレビネットワークであり、ともに1995年1月開局した。この2つネットワークは、ワーナーChris-Craft Industries1993年共同立ち上げたものの1995年分解した全国ネットワークPrime Time Entertainment NetworkPTEN)の後継企業であったPTENは独自の番組それぞれのネットワーク供給するシンジケートサービスとして1997年まで存続した。 しかし、同じよう新興ネットワークとして出発したFox徐々に視聴者ネット局増やし、ABC、NBCCBSビッグ3呼ばれていたテレビネットワーク食い込みビッグ4となったのとは対照的にWBUPNカルト的なヒット番組生み出したものの財政的に不振続き先行するネットワーク追い着くことはできなかった。 このためワーナー・ブラザースCBS2006年1月24日に、UPNWB閉鎖しCWとして合併することを発表9月18日の新シーズンからスタートした加盟局に関しては、WBUPN加盟していた放送局CW移行し全米放送されている。WB資本参加していたトリビューン社(有力紙シカゴ・トリビューンや、ロサンゼルス・タイムズ親会社)が保有していたWB加盟局や、CBSコーポレーション保有していたUPN直営局も含まれるWB結成当時独立局が無い田舎中小都市向けにケーブルテレビ(のちにデジタル放送にも進出する)でしか視聴できないミニ放送局設置したが、これらもCW移行している。 基本編成WB名残があり、毎晩2時間プライムタイム以外に日中2時間(主にシンジケーション)と土曜朝アニメ番組)にCW番組配給自主編成をしないミニ放送局為に24時間何らかの番組供給している。 プライムタイムでは基本的にWBUPNから人気番組引き継がれた。CW2006年秋ラインナップのうち、新番組ドラマシットコムとも、各1本あったのみである(#開局時のプライムタイム番組参照)。旧2社はともに、他ネットワークより低め視聴者層想定していたが、この流れCWでも引き継がれた。開局日の特別番組で、各番組キャストらが番組紹介を行うとともに新生ネットワーク方向性アピールし9月20日にはそれまでUPN放送されていた「America's Next Top Model」を放送開始した。 一方UPN加盟局中心にCWから漏れた放送局にはFox所有放送局含まれていたこともあり、Fox旗振り役となってマイネットワークTV設立された。マイネットワークTV後年UPNからCW移行していた『WWEスマックダウン』を鞍替えさせることに成功している。

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