生涯・来歴
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1912年5月17日、オーストリア・ハンガリー帝国第2の都市コロジュヴァール(現在のルーマニア・クルージュ=ナポカ)で出生。6歳からピアノを学び始めた。1924年、リスト音楽院(ブダペスト)に入学し、ヴァイオリンをイェネー・フバイに、作曲をコダーイ・ゾルターンに学んだ。1927年、リヒャルト・シュトラウスの曲を作曲者自身の指揮でソリストとして演奏してデビューした。同年、同音楽院からフバイ賞とレメーニ賞を獲得し、1930年に同音楽院を卒業。その後ソリストとして活動すると同時に、ハンガリー三重奏団を結成した。 1935年、ハンガリー四重奏団を結成。当初ヴェーグが第1ヴァイオリンを務めていたが、2年後にバルトークと親交のあったセーケイ・ゾルターン(ゾルターン・セーケイ)が同四重奏団に加入すると、セーケイが第1ヴァイオリンを務め、ヴェーグは第2ヴァイオリンにまわった。そしてヴェーグが在籍していた1936年、ハンガリー四重奏団によるバルトーク『弦楽四重奏曲第5番』の初演が行われた。 1940年、ハンガリーに残るべく、オランダに活動拠点を移すこととなったハンガリー四重奏団を脱退。リスト音楽院の教授に就任すると共に、自身の名を冠したヴェーグ四重奏団を結成して活動を開始。 1946年、ヴェーグ四重奏団がジュネーヴ国際音楽コンクールで第1位を獲得。だが暫くしてヴェーク自身と共に亡命のためハンガリーを去る。1970年代半ばまでヴェーグ四重奏団はコンサート活動を続け、ヴェーグ自身もソリストとして活動していた。ヴェーグは、1953年にフランス国籍を取得。 1952年、ヴェーグは、チェロ奏者パブロ・カザルスから、カザルスがスイスのツェルマットで開講していたサマークラス(1953年 - 1962年)に招待され、以後、カザルスが主催していたプラド音楽祭(1953年 - 1969年)に毎年参加するようになった。また、バーゼル音楽院(1953年 - 1969年)、フライブルク音楽院(1954年 - 1962年)、デュッセルドルフ音楽院(1962年 - 1969年)、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院(1971年 - 1997年)において教鞭を執った。 1962年、ヴェーグはチェルヴォ国際室内楽音楽祭を創設、また自らシャーンドル・ヴェーグ室内管弦楽団を立ち上げ、1968年から1971年までの音楽祭の期間中タクトを執った。更に1974年から1977年までは、マールボロ祝祭管弦楽団も指揮していた。 1979年、モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカの指揮者となる。同楽団を指揮してのモーツァルトのディヴェルティメント及びセレナーデの録音で1989年のフランス・ディスク大賞を受賞した。 ヴェーグはまた、レジオンドヌール勲章のシュバリエ章(1986年)、イギリスのウォーリック大学とエクセター大学の名誉職(1987年)、ザルツブルク・ゴールドメダル(1987年)、大英帝国勲章のコマンダー章(CBE、1988年)をも授与されている。 1997年1月6日、オーストリア・ザルツブルクにほど近い、ドイツ・バイエルン州のフライラッシンクの病院で没した。
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生涯・来歴
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1920年(大正9年)東京府東京市日本橋区小伝馬町(現・東京都中央区日本橋小伝馬町)生まれ。鈴子が0歳、兄が4歳のときに両親が離婚し、1924年(大正13年)に父親と兵庫県神戸市へ移住した。 父はデパートで家具の販売をしながら神戸・元町で小さな家具屋を営んだ。父は芸事が好きで新内節を唄ったり寄席芸人を招いては宴を楽しんでいた。 1927年(昭和2年)家具屋をたたみ、父親の思いつきで芝居一座を結成し、娘を座長にさせた。九州の炭坑町の小さな劇場で安来節を唄い、初舞台を踏む。 その後もあらゆる芸(漫才、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付ける。 1942年(昭和17年)に吉本興業入りし一座を解散、三遊亭柳枝と結婚した。終戦後は柳枝劇団を旗揚げするが、柳枝の浮気が元で離婚。初代ミスワカナの死後、一時期二代目ワカナを名乗る。1947年に弟子だった鈴夫(本名・吉村朝治、のちの南都雄二)と再婚(事実婚だったという)し、JR美章園駅近く(大阪市東住吉区)のガード下の部屋を借り、夫婦生活を始める。 1948年(昭和23年)に「蝶々・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビ結成して、三重県津市の曙座でコンビで初舞台。1949年(昭和24年)から、秋田實の誘いを受け、大阪でラジオ番組を始めた。このとき上方トンボ改め南都雄二となる。が、初代ワカナと同じく当時芸能界で蔓延していたヒロポン(覚醒剤の一種)に手を出し、強度の依存症となったが、治療のため入院するなどして克服。 1952年(昭和27年)に、秋田實の宝塚新芸座に参加し、大阪・道頓堀の中座を拠点に活躍した。民間ラジオ放送草創期の人気番組『漫才学校』『夫婦善哉』(いずれもABCラジオ)の司会などで知名度を高めた。特に1955年(昭和30年)に始まった「夫婦善哉」はラジオからテレビへと20年の長きにわたって続く長寿番組となった。 雄二とは「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不毛であったという。1958年(昭和33年)の「離婚」後も数年は公にせず「夫婦善哉」の司会など"夫婦コンビ"としての活動を続けたが、週刊誌等で話題になってきたことなどもあり、「夫婦善哉」の番組内で離婚していたことを告白した。離婚後はソロの女優としても活動するようになった。 雄二とは公私共に付き合いは続き、1972年(昭和47年)に雄二が糖尿病を悪化させ入院し翌年の1973年(昭和48年)に亡くなるまで一切の面倒を見たのは蝶々だった(雄二が、蝶々と別れた後に結婚した女性と離婚していたことや、ほかに面倒を看る人がいなかったため)。 1974年(昭和49年)に道頓堀の中座で1ヶ月公演を実施、脚本・主演・演出の3役をこなした。大好評であったことからその後25年間定期公演を続けるという偉業をなし遂げる。その他、名古屋などでも定期公演を行うなど舞台女優として大きくはばたく。 その一方でタレントとしても『2時のワイドショー』での辛口コメントなどで健在ぶりを発揮していた。 1971年に第8回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。1984年(昭和59年)に紫綬褒章を、1993年(平成5年)に勲四等宝冠章を受章。1998年『幸せのために…』05月21日発売昔から腎臓に持病があり、晩年は車椅子で移動しないといけないほど体調も悪化したが、舞台に対する思いは強く積極的に舞台に上がった。その様子は『NHKスペシャル』でも取り上げられ話題となった。 最後の舞台は1999年(平成11年)10月15日の『じゅんさいはん』(中座)。特別ゲストとして登場し、自身のホームグラウンドと称していた中座の閉館を惜しんだ。 2000年(平成12年)3月にテレビ出演したのが公式の場に出た最後となり、10月12日午後1時7分に慢性腎不全で、大阪市天王寺区のNTT西日本大阪病院(現・第二大阪警察病院)で死去、80歳没。墓所は大阪市天王寺区大善寺。 没後、地価約4億円といわれる大阪府箕面市の自宅を記念館として整備したいという義弟のひとりと売却を主張する他の親族とで約8年にわたって争いが続いていたが、土地の一部分割・売却で決着。改装を経て、2008年(平成20年)5月24日にミヤコ蝶々記念館がオープンしたが、2018年6月10日にて入館者の減少による財政困難のため閉館した。 亡くなった後も関西地方では根強い人気があり、大阪府のひったくり予防キャンペーンのCMにかつての映像が登場するなど、親しまれている。
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生涯・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 18:39 UTC 版)
1941年に大阪電機学校卒業、戦後、大阪中央郵便局の電気係を経て、三遊亭柳枝主宰の柳枝劇団に参加し、照明部で裏方をしていた。その後演者側に回り、看板女優だったミヤコ蝶々の弟子となり「鈴夫」と名乗る。 1947年に柳枝と離婚した蝶々と結婚し、1948年、柳家三亀松の改名の提案で「蝶々・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビを結成。後に夢路いとしに相談して南都雄二に改名。(漢字があまり読めず周りに「何という字?」とよく尋ねたことからついたと言われる。) 1952年、秋田實・小林一三の宝塚新芸座に参加し、夢路いとし・喜味こいしや秋田Aスケ・Bスケ、笑福亭松之助らと舞台俳優としても活躍する。その後、「漫才学校」「夫婦善哉」(いずれもABCラジオ)の司会などで「男前の雄さん」として人気者となる。 蝶々との夫婦仲や芸名の由来などについては、ミヤコ蝶々の項を参照。 映画俳優として、東映や大映の映画に数多く出演した。特に勝新太郎主演の『悪名』や『兵隊やくざ』ではシリーズで出演している。「姉さん女房」の蝶々とのイメージからか、女の尻に敷かれ、少々頼りない男のような役どころが多かった。 夜遊び、夜の豪遊は語り草になっており「キタの雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれるほどであった。 1973年に持病の糖尿病がもとで死去。48歳。 ミヤコ蝶々・南都雄二として、死後、2006年に第11回上方演芸殿堂入りしている。
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