「離婚」後
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「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「「離婚」後」の解説
教皇側に離婚を進める動きは全くないまま、1531年夏頃にキャサリンはヘンリーと別居させられる。 1531年から法改正などが行われ、1534年にはイングランド国教会が創設されてヘンリー8世はその長となり、ローマ教皇庁から独立を果たす。 一連の動きの中で1532年11月14日に国王とアンは極秘結婚し、翌1533年4月12日に公表された。このときアンは妊娠しており、生まれてくる子を庶子にしないための措置だった。『レビ記』を逆手に取ったヘンリー8世はカンタベリー大司教トマス・クランマーに命じ、5月23日に婚姻の無効を宣言させ、キャサリンはバックデンに隠棲させられる。カール5世は、オーストリアの拠点ウィーンをトルコ軍に包囲されて以降、オスマン帝国の脅威に直面しており、キャサリンを救う余力はなかった。 キャサリンは婚姻の無効を決して認めなかったが、ヘンリー8世からは王太子アーサーの未亡人としてのみ遇され、公式には「Princess Dowager」(王太子未亡人)と呼ばれることとなった。また、ヘンリー8世との結婚自体が無効であるため、庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられた。 1533年6月1日にアンの戴冠式が行われ、9月7日にエリザベス王女(後の女王エリザベス1世)が誕生し、ヘンリー8世は大いに落胆する。追い討ちをかけるように、翌1534年3月23日、王位継承法の成立によって、メアリー王女の継承権が剥奪された。しかし同日、教皇クレメンス7世はキャサリンの結婚の正当性を認める判決を下した。キャサリンは5月、さらにキンボルトンに移され軟禁状態に置かれる。監禁に近い生活であったが、近辺の住民と努めて接触し、王妃時代と同様に評判が良く、住民たちは彼女をプリンセス(王太子妃)ではなくクイーン(王妃)と呼んだ。 先述の王位継承法序文及び同年11月に国王至上法が成立し、この中でイングランド君主の宗教・世俗における最高権が謳われ、イングランドは正式にローマ・カトリック教会から独立した。また、公職や教会の役職に就く者たちには、イングランド君主が最高統治者(首長)であることを認める至上権承認の宣誓の義務が課せられたが、キャサリンはこの誓約をわざとスペイン語で行って誓約したように見せかけた。以降、この宣誓を拒否したモアやジョン・フィッシャーなど、国王に反対する人間が次々と処刑され、エリザベス1世の時代まで30年余りにわたって宗教に起因した混乱が続くこととなる。 国内の混乱を知ったキャサリンは、1535年10月、病を押してそれまで躊躇してきた、ヘンリー8世の破門を教皇とカール5世に極秘裏に上訴する。 1536年1月7日、キャサリンはキンボルトン城(英語版)で崩御する。数日前、ヘンリー8世に宛てた最後の手紙に「イングランド王妃キャサリン」の署名を残した。ヘンリー8世は、彼自身とメアリー王女、王妃の従者たちを気遣った手紙に涙したのも束の間、この署名を見て敗北感を味わったとされる。 娘メアリーにはスペインから持参した持ち物のうち、わずかに残った毛皮1枚、金の鎖、十字架のペンダントを残した。そして、甥であるカール5世に対し、メアリーの庇護を求める手紙を残した。 葬儀にはメアリーの出席が禁じられ、目立った行事も厳禁とされた。しかし、キャサリンを慕う住民たちはそれを無視して進んで葬列に加わり、行列は500人にも及び、キンボルトンから40キロ北のピーターバラ修道院まで代わる代わる棺を担いだという。奇しくも葬儀の日、アン・ブーリンは男児を死産し、ヘンリー8世の寵愛を失うことが決定的になると、同年5月に処刑される。その後もヘンリー8世は次々と再婚、そして離別と処刑を繰り返し、1547年に崩御した。 ヘンリー8世の正嫡の男子で唯一生存したエドワード6世が15歳で崩御すると、ジェーン・グレイを巡る混乱を経て、キャサリン所生のメアリーが王位に即いた。「ブラッディ・メアリー」(血塗れのメアリー)と呼ばれた女王メアリー1世である。 メアリーが即位すると、キャサリンの名誉は完全に回復され、ヘンリーとの婚姻関係も有効であるとされた。
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