「離婚」の画策
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「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「「離婚」の画策」の解説
こうしてヘンリー8世は離婚(婚姻の無効)を画策し、教皇クレメンス7世の特赦を求め始めた。近い前例としてフランス王シャルル8世やルイ12世が離婚を成立させたのは、当時からわずか数十年前、15世紀末の出来事だった。一方、教皇の権威は下落し、教皇に対する神聖ローマ皇帝の影響力も無視できなかった。 ヘンリー8世が離婚できるのは次の場合であった。 教皇ユリウス2世による結婚許可に誤りがあったと認められる場合 『レビ記』に基づき、結婚が無効であると認められる場合 先述の通り、旧約聖書の『レビ記』は兄弟の妻との結婚を禁じているが、一方『申命記』25章5節では、兄弟が子をなさずに死亡した場合は『レビ記』の規定を無視できた。 ヘンリーの意向を受けて、寵臣である大法官トマス・ウルジーは、1527年5月17日以降複数回にわたり、ウェストミンスターの宿舎で、法律家らを招集し会議を開き、極秘裏に国王と王妃の離婚について協議を進めた。しかし、メアリー王女の待遇や、王女のフランスとの縁組を含む親仏政策への悪影響の懸念、加えてウィリアム・ウォラム(英語版)やジョン・フィッシャーら高位の聖職者の猛反対があり、会議は結論を出せなかった。歴史上教皇はその時々の国際情勢に応じて『レビ記』に基づく結婚の許可・不許可を使い分けており、ヘンリー8世とキャサリンの離婚(婚姻の無効)が認められる可能性は低かった。 同年6月、ヘンリー8世は王妃キャサリンに対し離婚の意思を正式に伝える。キャサリンは涙ながらに反論し、王妃の座を捨て修道院に入ることもしないと主張した。 さらに、これらの離婚の画策と同時期、1527年5月にカール5世の軍はローマに侵攻し教皇を監禁した(ローマ劫掠)。教皇捕囚という横暴によって教皇の権威は失墜する。さらにキャサリンは同年8月に極秘裏にカール5世と連絡を取り、婚姻の無効を認めぬよう教皇に圧力をかけさせた。ここにヘンリー8世はハプスブルク家との離別を決意する。同年8月、イングランドとフランスはアミアン協定を結ぶ。
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