演出についてとは? わかりやすく解説

演出について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:24 UTC 版)

時をかける少女 (1983年の映画)」の記事における「演出について」の解説

"元祖アイドル映画監督"とも評される大林は、1988年インタビューで、アイドル演出法、女優監督の関係について本作を例に、「映画監督女優の関係というのは非常に難しいもんでね。映画というのは共同作業といいながら、実は監督個人的な夢を描くわけです。それも他人人生借りて表現するのね。映画というのは短いものでも3ヵ月から半年くらいは撮影するのに必要ですから、『時をかける少女』でいえば、ボクにとっての45歳数ヵ月原田知世にとっては16歳数ヵ月一緒に過ごすわけです。ボク自分映画を撮るからいいんだけど彼女にとっては人生の中で非常に貴重な時間でしょ。それをボク貸してくれるわけ。半年でも映画中に生きていると、人間ってのはその映画影響されるものなんですよ。映画中の原知世役名芳山和子は、ある青年恋をするんです。それもこの世にないくらいの理想の恋を。すると原田知世芳山和子区別が、彼女自身つかなくなってくるんですね。その半年の間、芳山和子体験した恋愛原田知世16歳体験にもなってしまう。もし、彼女がその後誰かのことを好きになったときに、少しでも芳山和子的な部分があったとしたらね。それは原田知世にとって幸福か不幸かと言えばボク不幸だと思うんです。ボクは彼女の実人生をどこかで少しづつ傷つけているのかもしれないそういう恐怖感監督持っているわけですよ。で、ボクは彼女に大し何をしてやれるかと考える。彼女の頭上ライト落ちてきたらどうするか。ボクは彼女を突き飛ばして身代わり死ねるか。これは思い込んでいくと恋愛一緒でね。オレ知世大好きだ身代わり死んでもいい思える瞬間が来るんですよ。その時に、ヨーイ、スタート声をかけるわけですね。『時をかける少女』原田知世は、演技するうちにどんどん芳山和子成りきっていきました芳山和子って、ようするボクが創ったボク恋人ですからね。カットをかけたくないですよ。でも映画というのは、眼を閉じた開いたりするように、時間断ち切る作業ですから。いつかストップしなくちゃいけない。ボクにとっては、あらかじめ失恋予想したプラトニックラブみたいなもんですよ。で、遂にカットの声をかけます瞬間それこそ『ここはどこ、私は誰?』って顔するんです。これはね、地獄見たですよ。今まで愛していると言われ続けた少女が、突然、嫌いだと言われた顔ですよ。同時に『そうか、私は原田知世なのね』という顔もするんです。カットと声をかけた後も、フィルムは少し回っているんだけど、3コマくらいにその瞬間映ってるんですよ。ボク恋人逃げて行く瞬間だね。そういうフィルムボク大事に持っているんです」などと説明をしている。 1983年一般公開とみられる石上三登志との対談で、大林は以下のような作品解説をしている。文中の"今"は1983年当時を指す。「SFとか子供主人公映画というと子供用映画思われちゃうんですけど、僕としては、子供使って大人映画作っているわけで、むしろ、子供を使うことによって、大人感情純粋な部分描けるというのが、ジュブナイルものであり、SFものだと思います少年少女ストイックなまでに肉体的存在でないから、感情としては実にセクシーなんです。『転校生』男女入れ替えたのも今度『時をかける少女』で、少女未来少年恋をするという設定も、結局肉体喪失しちゃうから、より感情としての純度磨かれる。それはまさに大人感情模様である、だからセクシーでもあるのです。ファンタジーという技法そのものは、1940年代1950年代ハリウッドでは、大人感情を描くためにうまく使われていた。それがいつの間にか、子供たち愛玩になってしまった。大人がそうしてしまった風潮もある。ファンタスティック表現というのは、かつては大人映画で実に優雅に使われていた。ところが今はそういう技法を使う作品というのは、限られたジャンルになってしまったところがある。これは正にSF市民権得たがために、逆にまた一つジャンル逆行してしまっているという状況でもある。SFというのは本来、人間の魂のリリシズムであるとか、人間の尊厳であるとか、内面的世界デリケート感情豊かに描くための素材であったはずなのに、それがファッションになり過ぎてしまったという反省が僕にもあります今度映画ストーリー的には三角関係メロドラマだけど、これをベタベタした甘えの構造になるところが、SFファンタジーでやるからこそ一種節度キリリとした礼節生まれる。それがリリシズム繋がっています」「原田知世はもちろん15歳ですから、セリフはまだ、どちらかというとネンネ言葉だけれどキリリとした大人感性持っている。この表現力感動しました『オズの魔法使』ジュディ・ガーランドや『オーケストラの少女』のディアナ・ダービンという、正統派ハリウッド少女スターリインカーネーションではないか思いました原田知世自己の存在一度抹消して、役の芳山和子としてスクリーンの中で甦るそういう才能持っていました思えば1950年代少女スターたちが、映画館暗闇中にのみ、ほのかな夢のように息づいて、白日のもとでは遠い記憶のように消滅してしまう、そういう儚さ持っていたからこそスクリーンの中で存在感を得ることができた、そういうこと似ているかもしれない」「(本作一本だけ撮って原田引退させるという話とは逆だが)原田資質見た時にこれはタレント映画にしてはいかん、この子いろいろな役柄ができると信じているので、今回ストイックな役に閉じ込めてみたんです。正統派映画芳山和子という役をきっちり演じさせてみようと思いましたアイドル映画にも、タレント映画にもしなかったつもりです。そのことによって原田知世という新人魅力は光るだろうし、二作目三作目で全く違うことがやれるだろうと思う。彼女はそういう演技の幅は持ってる思います」「いくら相手子供少女でも、演出しているということは感情的に男と女の関係にあるわけです。その感情乗り移らないと、少女少女として輝かないんですね。その辺タレント映画作るのとはちょっと違う。というところを、自ら課しているところもあります。これは『転校生』以降変化した僕の演出論です」などと述べている。 堀川吾朗役は現実少年日常中の少年のため、吾朗役にリアリティがないと、話が全部絵空事になるという判断から、可哀想すぎる役ながら、作品ヘソきっちり抑えて欲しいと尾美としのり起用した深町一夫役の高柳良一には、「突っ立ていろ、セリフ棒読みでいい」と伝え高柳ボイストレーナー付けて指導させて、味のある棒読みをさせた。三人イメージは、ミッキー・ルーニーピーター・ローフォードか、ロバート・テイラーの間にいたジュディ・ガーランド

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:50 UTC 版)

最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」の記事における「演出について」の解説

次回予告時に流れエンディング曲番組内挿入曲同様にクラシック音楽であった2006年から邦楽使用されるようになったエンディング形式一貫して次回予告の後にたけしが「そのまま放って置くと、大変な事になりますよ」と言って後ろ振り向き去っていきそのまま提供クレジットに入る形となっていた。この映像番組開始当初からずっと変わっておらず、放送開始から数回でたけしが髪を金髪にしたがこの映像のみ黒髪のままであった(現在は黒髪戻している)。 レッドゾーン該当者VIP患者席に入る際に、たけしが「○○みたいだ」(「三世住宅」、「ぼったくりバー犯人」など)などといじる場合がある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:00 UTC 版)

ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」の記事における「演出について」の解説

ヴィリー・ボスコフスキー時代には、ウィーン・フィル打楽器奏者であるフランツ・ブロシェクが毎年愉快な演し物用意しており、名物となっていた。例えば、『ジプシー男爵』の入場行進曲ではブタ飼いシュパンに扮したブロシェクが豚を抱えて登場場内大爆笑だったり(1969年)、『鍛冶屋のポルカ』では鍛冶屋親方扮して飲み食いしながら演奏したり(1971年)、『山賊のギャロップ』では山賊扮して演奏中の楽員から金品盗んで回ったり(1972年)、『爆発ポルカ』では工事現場作業員格好をして爆破装置スイッチ押し、曲の最後に舞台上に風船飛ばした紙吹雪降らせる1974年)などである。 ブロシェク引退後も、打楽器パート中心になって毎年さまざまな趣向凝らされている。少しエスカレートしすぎた1970年代前半には、「今年悪ふざけセーブ」という内容記事朝日新聞紹介されたこともあった。1976年は、エドゥアルト・シュトラウス1世ポルカで、ファゴット先端(ベルジョイント)から花火上がったこともあった。2006年には、エドゥアルト・シュトラウスの『電話ポルカ』の最後で、指揮者ヤンソンス持っている携帯電話鳴り出すという演出があった。2008年/2009年には、『美しく青きドナウ』のエンディングに、ダンサー男女客席通路踊らせた。2008年には、UEFA欧州選手権2008オーストリアで開催記念し奏者全員タオルマフラーなどのグッズを身につけて演奏したり、指揮者演奏者の間でイエローカードレッドカード応酬繰り広げられた。2010年には、『シャンパン・ポルカ』の演奏中に打楽器奏者実際にシャンパン開けて乾杯交わし指揮者プレートルが「私の分はないのか?」と言いたげな仕草をするなどの演出があった。 また、1987年には、『春の声』において、ソプラノキャスリーン・バトル共演したが、このようなゲストを招く演出は、これ以降見られないテノール歌手プラシド・ドミンゴが、1990年代初頭指揮者ソリスト出演希望したところ、ウィーン・フィル側が「コンサート趣旨合わない」として出演要請はねつけたといわれる一方でウィーン少年合唱団はこのコンサートでたびたび共演している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 21:01 UTC 版)

カルメン (オペラ)」の記事における「演出について」の解説

モブ群集シーンが多いことが特徴として挙げられる第1幕 タバコ工場女工達&それに群がる男たち 第2幕 酒場の客 第3幕 密輸団 第4幕 闘牛士一団観客たち 劇中フラメンコ舞踏挿入する演出頻繁に行われる。2幕冒頭や4幕前間奏曲あわせて踊ることが多くまた、オリジナルにはないフラメンコ用の曲を挿入して見せ場とする場合もある。 4幕の闘牛士一団行進シーン劇中でもっとも盛り上がる場面のひとつであり、メトロポリタン歌劇場などの大劇場では、豪華絢爛衣装を身に着け多数闘牛士と、本物の馬をも多数動員した大がかり演出が行われる。一方予算限られた公演では、このシーン低コストどのように作り上げるのかが大きな課題となる。

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