歴史的地位とは? わかりやすく解説

歴史的地位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 19:46 UTC 版)

大般涅槃経」の記事における「歴史的地位」の解説

鳩摩羅什には数多く弟子がいるが、その中で道生僧肇慧観僧叡四人は四哲といわれ、僧叡(慧叡と同一人物とされる)は「什公(鳩摩羅什)がもし、この『泥洹経』を読まれたなら、如何に心から悦ばれたであろうか」といわれる。その他、鳩摩羅什門下の道朗・超進など多く弟子が皆、競って研究したことから中国南北朝時代には涅槃宗という『涅槃経』を研究する学派形成されていった同じく鳩摩羅什門下四哲の一人である道生は、いまだ法顕訳の『泥洹経』しか伝わっていなかった頃、『涅槃経』の前半説かれる一切悉有仏性から闡提成仏先んじて説き、他の学僧から排斥され蘇州虎丘寺に流されたが、山川の石に向かって闡提成仏の義を唱えるや石が飛び上がって喜んだという伝説まである。後に曇無讖訳の『北本涅槃経』が伝えられるや、そこに闡提成仏説かれていたことから、道生先見の明学僧衆が皆感嘆したといわれる。 また四哲の一人である慧観は、先述通り法顕訳の『泥洹経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合編纂した。これらの事実からわかるように鳩摩羅什門下の四哲を筆頭とする弟子衆は、師である鳩摩羅什訳した法華経』よりも『涅槃経』を重要視していたといえよう。 なお、鳩摩羅什門下成実学派大成した一人、僧嵩(そうこう)は『涅槃経』の如来仏性常住否定し、僧嵩の弟子である僧淵(そうえん)も『涅槃経』は外道の説であると否定したが、僧嵩は臨終の日に舌本が先ず爛れ亡くなり、また僧淵も舌根爛れて銷けたと『高僧伝』では伝えられている。 また龍樹以降中観派八不中道の遺蕩的方面中心置いていたが、『般若経』等が声聞縁覚菩薩あわせて三乗という)に劣るとする立場にあり、また『法華経』では声聞衆の成仏説く立場であった。また『般若経』等の大乗仏教声聞衆を差別するに対してすべての衆生救済説く一乗無差別平等という立場主張した大乗仏教が、この大乗涅槃経と『法華経』であると考えられる中観哲学や、また般若では解決しがたい差別問題法華涅槃などの大乗経典が解決した思われるちなみに龍樹提婆以降仏教思想このような経典一切衆生悉有仏性思想の影響受けて次第般若真空から妙有へと移っていったと思われる。『涅槃経』は「三乗差別はあっても仏性等しく皆にある」という説を展開したのであるまた、天台宗智顗台頭するや、『涅槃経』に説かれる五味相生の譬引用し、以下のように『涅槃経』を判定した追説追泯(ついせつついみん)、『涅槃経』は『法華経』の説を重ねて追って述べた贖命重宝しょくみうじゅうほう)、『涅槃経』は命である『法華経』の仏性常住あがなう宝である。 捃拾教くんじゅうきょう)、『涅槃経』は『法華経』の救い漏れた機根の低い衆生のための教えである。 扶律顕常(談常)(ふりつ・けんじょう、だんじょう)、『涅槃経』は仏滅後における隔歴次第修行説いて戒律を守るよう扶(たす)けた方便教え。 と本来、『涅槃経』の文中個々にはないが全体として捉えられる広域解釈により、『涅槃経』は『法華経』を援護する経文であり、ともにそれまで三乗差別思想から一乗平等思想説いたものとし、「涅槃経説く円常を法華経に摂して」これを力説したその時まで涅槃宗勢力失いつつあったが、これによって、その立場復活し宗旨としての勢力衰えたものの、一部教義天台宗によって引用される至った。 この天台教学における法華優位涅槃劣位主従関係今日の日系各教団でも引継がれたものの、日蓮教学には涅槃教理多く取り込まれていることが伺える。日蓮は、その教義正当性主張し広めるためにあらゆる文集の中で様々な経典引用しているが、その中でも「泥洹経に曰く」と、特に『涅槃経』を多くもってその裏づけとし、場合によっては『法華経』よりも頻繁に引用している。これは日蓮が『法華経第一しながらも、『涅槃経』によって布教されたと見ることも可能で、ある一面では、激越とも思われる折伏法は、『涅槃経』の影響多分に受けていることを表している。 唐の時代では、三乗教の法相宗が『法華経』が説く一乗思想方便説だとして、一乗派の天台宗などと論争になった天台宗一乗成仏であるから、その根拠として『涅槃経』を多用するのは当然とはいえ興味深いことに三乗派の法相宗からも『涅槃経』の前半部にある闡提不成仏などを根拠としてよく引用せられた(ただし三乗派は闡提成仏認め涅槃経後半部引用しない)。しかし、後に華厳宗三乗一乗融和唱え法相宗五性各別認めつつも、『涅槃経』の闡提成仏思想根本原理として終局的一乗成仏することを説き、この論争終止符打った、との説もある。 なお、日本では奈良時代大安寺はじめとして元興寺弘福寺、また東大寺において常修多羅宗(じょうしゅうらしゅう)と呼ぶ、『涅槃経』を研究し講義する学派があった記録はあるが、南都六宗のように独立した宗派形成には至らなかった。

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歴史的地位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:18 UTC 版)

「妻」の記事における「歴史的地位」の解説

キリスト教文化では、社会における妻の地位結婚における彼女ら見解は、新約聖書によって導かれる主張してきた。その例として、新約聖書女性男性両方離婚それぞれ避難した上、一人の夫には「一人の」女性存在し同様に一人女性には「一人の」男性存在することを仮定している。中世キリスト教では、これは妻がほかの妻たちと夫を共有したりしてはならないといったことを意味する理解されてきた。その結果離婚近代より前西部とりわけ中世近世初期における離婚比較的まれであった。そして、中世と近世ローマにおいて、夫が複数の妻をもつことはほとんどのなかったのである近代以前時代というのは、近代初期文学理想となったときであったが、純粋に恋愛」という目的のみでの結婚は、珍しいものであったローマ法は、少なくとも12歳花嫁を必要とした。これは、カトリック法律採択されたことである。ローマ法場合12歳25歳花嫁における最初結婚は、花嫁自身花嫁の父親の承諾を必要としていた。だが、古代後期ローマ法は、25歳上の女性であれば、親の承諾がないまま結婚してもよいということ主張している。また、新約聖書は、未亡人自分選択したクリスチャン結婚することを認めている。12世紀には、カトリック教会は、12歳上の娘14歳上の息子両親承諾なしに結婚することを認めたがゆえに、婚姻同意法的基準大幅に改訂した教区研究では、中世後期生きた女性たちが時々両親許しのもとに結婚していたことを確かめたカトリック教会秘密結婚考え政策、および親の同意なしに行われた結婚は、これまでにたびたび物議かもした。そして16世紀に、フランス君主制ルター派教会らは限られた成功想定した上で、こういった慣行終了させようとした。 新約聖書は、実際宗教よりも世俗法によって多く影響受けた妻の財産権についての宣言を行わなかった。現代以前西洋にて最も影響力があったのは、中世盛期共通法知られるようになった英語圏国家除いて民法であった。さらに、地方の慣習法は妻の財産権にも影響与えることとなったその結果近代より前西洋における妻の財産権は、地域によって大きく異なった。なぜなら妻の財産権または娘の遺産相続は、法制度の違いによって地域ごとに大きく異なるため、それと同様、妻の所有する財産の額も大きく異なってくるのであるローマ法の下だと、特に意思がない限りは、娘は両親から平等に相続権継承され一方中世後期における英国コモン・ローでは、娘と息子は特殊な意思のないときに限り、妻の財産権からは除外されのである。さらに、ローマ法では、夫側の財産法的に別々のものと認識しヨーロッパと、ラテンアメリカによる植民地法制度の一部を、認めることとなった対照的に英国慣習法は、配偶者を持つ妻が自分名義個人財産のほとんどすべてを所有できるシステム移行されている。妻自身のための保護受け入れられなかった場合において、結婚というものは女性経済面からして重要なものであった。この問題は、女性限られた権能を持つ理由、すなわち平等な教育否定女性平等な財産権存在といったことを根底に置きながら、広く文献にて取り扱われた。この状態は、英国保守派倫理学者であるウィリアム・ブラックストンによって「妻と夫はそれぞれ一人で十分である。」といった批評受けた英語圏結婚している女性財産権1882年既婚女性財産法英語版)およびそれによく似た法律変更によって大幅に改善された。これにより、妻が自らの名義財産所有することが可能となった20世紀終わりごろまでには、女性はいくつかの地域や時代で、夫が妻として女性連れていくことなく勝手に女性処女奪った際に、女性男性訴えることが可能となった。 仮に女性結婚望まない場合修道女として女子修道院英語版)に入るよりほかはなかった。「救世者花嫁」ともいわれる修道女になるというのは、女性にとって、純潔さおよび生きるための経済的保護守られることを意味していた。修道女ヴェールかぶったのは、「キリストとの結婚」の保護権利象徴するためであった修道院に入るというよりも重大な意味を持っていたのは、西洋の非宗教的独身状態の選択であった数学者ジョン・ハジャナル(John Hajnal)によって最初に数字示されたように19世紀と20世紀前半結婚していない未聖職西洋女性割合10~15%であった。この統計は他の主要な文明社会における独身女性割合を示す数値でもあった。さらに、初期現代西洋女性は、他の主要な伝統文化比較して、その当時にとってはかなり高い年齢(とりわけ20代)で結婚していた事実判明した西洋女性初婚時に高齢であることは、少なくとも16世紀半ばという比較的はやめの時期さかのぼ西洋の伝統的な結婚形態であることが、数多く教区復興研究にて示されている。

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