歴史的地位
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鳩摩羅什には数多くの弟子がいるが、その中でも道生・僧肇・慧観・僧叡の四人は四哲といわれ、僧叡(慧叡と同一人物とされる)は「什公(鳩摩羅什)がもし、この『泥洹経』を読まれたなら、如何に心から悦ばれたであろうか」といわれる。その他、鳩摩羅什門下の道朗・超進など多くの弟子が皆、競って研究したことから中国南北朝時代には涅槃宗という『涅槃経』を研究する学派が形成されていった。 同じく鳩摩羅什門下四哲の一人である道生は、いまだ法顕訳の『泥洹経』しか伝わっていなかった頃、『涅槃経』の前半に説かれる一切悉有仏性から闡提の成仏を先んじて説き、他の学僧から排斥され蘇州の虎丘寺に流されたが、山川の石に向かって闡提成仏の義を唱えるや石が飛び上がって喜んだという伝説まである。後に曇無讖訳の『北本涅槃経』が伝えられるや、そこに闡提の成仏が説かれていたことから、道生の先見の明に学僧衆が皆感嘆したといわれる。 また四哲の一人である慧観は、先述の通り法顕訳の『泥洹経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合編纂した。これらの事実からわかるように鳩摩羅什門下の四哲を筆頭とする弟子衆は、師である鳩摩羅什が訳した『法華経』よりも『涅槃経』を重要視していたといえよう。 なお、鳩摩羅什門下で成実学派を大成した一人、僧嵩(そうこう)は『涅槃経』の如来・仏性の常住を否定し、僧嵩の弟子である僧淵(そうえん)も『涅槃経』は外道の説であると否定したが、僧嵩は臨終の日に舌本が先ず爛れて亡くなり、また僧淵も舌根が爛れて銷けたと『高僧伝』では伝えられている。 また龍樹以降の中観派は八不中道の遺蕩的方面に中心を置いていたが、『般若経』等が声聞・縁覚は菩薩(あわせて三乗という)に劣るとする立場にあり、また『法華経』では声聞衆の成仏を説く立場であった。また『般若経』等の大乗仏教が声聞衆を差別するに対して、すべての衆生の救済を説く一乗無差別平等という立場を主張した大乗仏教が、この大乗涅槃経と『法華経』であると考えられる。中観哲学や、また般若では解決しがたい差別の問題を法華涅槃などの大乗経典が解決したと思われる。ちなみに龍樹や提婆以降の仏教思想はこのような経典の一切衆生悉有仏性の思想の影響を受けて、次第に般若の真空から妙有へと移っていったと思われる。『涅槃経』は「三乗に差別はあっても仏性は等しく皆にある」という説を展開したのである。 また、天台宗の智顗が台頭するや、『涅槃経』に説かれる五味相生の譬を引用し、以下のように『涅槃経』を判定した。 追説追泯(ついせつついみん)、『涅槃経』は『法華経』の説を重ねて追って述べた。 贖命重宝(しょくみょうじゅうほう)、『涅槃経』は命である『法華経』の仏性常住をあがなう宝である。 捃拾教(くんじゅうきょう)、『涅槃経』は『法華経』の救いに漏れた機根の低い衆生のための教えである。 扶律顕常(談常)(ふりつ・けんじょう、だんじょう)、『涅槃経』は仏滅後における隔歴次第の修行を説いて戒律を守るよう扶(たす)けた方便の教え。 と本来、『涅槃経』の文中に個々にはないが全体として捉えられる広域的解釈により、『涅槃経』は『法華経』を援護する経文であり、ともにそれまでの三乗差別思想から一乗平等思想を説いたものとし、「涅槃経の説く円常を法華経に摂して」これを力説した。その時までに涅槃宗は勢力を失いつつあったが、これによって、その立場を復活し宗旨としての勢力は衰えたものの、一部の教義は天台宗によって引用されるに至った。 この天台教学における法華優位・涅槃劣位の主従関係は今日の日蓮系各教団でも引継がれたものの、日蓮教学には涅槃の教理が多く取り込まれていることが伺える。日蓮は、その教義の正当性を主張し広めるためにあらゆる文集の中で様々な経典を引用しているが、その中でも「泥洹経に曰く」と、特に『涅槃経』を多くもってその裏づけとし、場合によっては『法華経』よりも頻繁に引用している。これは日蓮が『法華経』第一としながらも、『涅槃経』によって布教されたと見ることも可能で、ある一面では、激越とも思われる折伏法は、『涅槃経』の影響を多分に受けていることを表している。 唐の時代では、三乗教の法相宗が『法華経』が説く一乗思想は方便説だとして、一乗派の天台宗などと論争になった。天台宗は一乗成仏であるから、その根拠として『涅槃経』を多用するのは当然とはいえ、興味深いことに三乗派の法相宗からも『涅槃経』の前半部にある闡提不成仏などを根拠としてよく引用せられた(ただし三乗派は闡提の成仏を認める涅槃経の後半部は引用しない)。しかし、後に華厳宗が三乗と一乗の融和を唱え、法相宗の五性各別を認めつつも、『涅槃経』の闡提成仏の思想を根本原理として終局的に一乗成仏することを説き、この論争に終止符を打った、との説もある。 なお、日本では奈良時代に大安寺をはじめとして元興寺や弘福寺、また東大寺において常修多羅宗(じょうしゅうたらしゅう)と呼ぶ、『涅槃経』を研究し講義する学派があった記録はあるが、南都六宗のように独立した宗派形成には至らなかった。
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歴史的地位
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キリスト教の文化では、社会における妻の地位と結婚における彼女らの見解は、新約聖書によって導かれると主張してきた。その例として、新約聖書は女性と男性両方の離婚をそれぞれ避難した上、一人の夫には「一人の」女性が存在し、同様に、一人の女性には「一人の」男性が存在することを仮定している。中世のキリスト教では、これは妻がほかの妻たちと夫を共有したりしてはならないといったことを意味すると理解されてきた。その結果、離婚は近代より前の西部、とりわけ中世・近世初期における離婚は比較的まれであった。そして、中世と近世のローマにおいて、夫が複数の妻をもつことはほとんどのなかったのである。 近代以前の時代というのは、近代初期の文学の理想となったときであったが、純粋に「恋愛」という目的のみでの結婚は、珍しいものであった。ローマ法は、少なくとも12歳の花嫁を必要とした。これは、カトリックの法律で採択されたことである。ローマ法の場合、12歳~25歳の花嫁における最初の結婚は、花嫁自身と花嫁の父親の承諾を必要としていた。だが、古代後期のローマ法は、25歳以上の女性であれば、親の承諾がないまま結婚をしてもよいということを主張している。また、新約聖書は、未亡人が自分の選択したクリスチャンと結婚することを認めている。12世紀には、カトリック教会は、12歳以上の娘と14歳以上の息子が両親の承諾なしに結婚することを認めたがゆえに、婚姻同意の法的基準を大幅に改訂した。教区研究では、中世後期を生きた女性たちが時々両親の許しのもとに結婚していたことを確かめた。カトリック教会の秘密結婚を考える政策、および親の同意なしに行われた結婚は、これまでにたびたび物議をかもした。そして16世紀に、フランスの君主制とルター派の教会らは限られた成功を想定した上で、こういった慣行を終了させようとした。 新約聖書は、実際は宗教よりも世俗法によって多くの影響を受けた妻の財産権についての宣言を行わなかった。現代以前の西洋にて最も影響力があったのは、中世盛期に共通法が知られるようになった英語圏の国家を除いて、民法であった。さらに、地方の慣習法は妻の財産権にも影響を与えることとなった。その結果、近代より前の西洋における妻の財産権は、地域によって大きく異なった。なぜなら妻の財産権または娘の遺産相続権は、法制度の違いによって地域ごとに大きく異なるため、それと同様、妻の所有する財産の額も大きく異なってくるのである。ローマ法の下だと、特に意思がない限りは、娘は両親から平等に相続権を継承された一方、中世後期における英国のコモン・ローでは、娘と息子は特殊な意思のないときに限り、妻の財産権からは除外されたのである。さらに、ローマ法では、夫側の財産と法的に別々のものと認識し、ヨーロッパと、ラテンアメリカによる植民地の法制度の一部を、認めることとなった。対照的に、英国の慣習法は、配偶者を持つ妻が自分の名義で個人の財産のほとんどすべてを所有できるシステムに移行されている。妻自身のための保護が受け入れられなかった場合において、結婚というものは女性の経済面からしても重要なものであった。この問題は、女性が限られた権能を持つ理由、すなわち平等な教育の否定と女性の平等な財産権の存在といったことを根底に置きながら、広く文献にて取り扱われた。この状態は、英国の保守派倫理学者であるウィリアム・ブラックストンによって「妻と夫はそれぞれ一人で十分である。」といった批評を受けた。英語圏の結婚している女性の財産権は1882年の既婚女性財産法(英語版)およびそれによく似た法律の変更によって大幅に改善された。これにより、妻が自らの名義で財産を所有することが可能となった。20世紀の終わりごろまでには、女性はいくつかの地域や時代で、夫が妻として女性を連れていくことなく勝手に女性の処女を奪った際に、女性が男性を訴えることが可能となった。 仮に女性が結婚を望まない場合、修道女として女子修道院(英語版)に入るよりほかはなかった。「救世者の花嫁」ともいわれる修道女になるというのは、女性にとって、純潔さおよび生きるための経済的保護が守られることを意味していた。修道女がヴェールをかぶったのは、「キリストとの結婚」の保護と権利を象徴するためであった。修道院に入るというよりも重大な意味を持っていたのは、西洋の非宗教的独身状態の選択であった。数学者ジョン・ハジャナル(John Hajnal)によって最初に数字に示されたように、19世紀と20世紀前半の結婚していない未聖職の西洋女性の割合は10~15%であった。この統計は他の主要な文明社会における独身女性の割合を示す数値でもあった。さらに、初期の現代西洋女性は、他の主要な伝統文化と比較して、その当時にとってはかなり高い年齢(とりわけ20代)で結婚していた事実も判明した。西洋の女性が初婚時に高齢であることは、少なくとも16世紀半ばという比較的はやめの時期にさかのぼる西洋の伝統的な結婚形態であることが、数多くの教区復興研究にて示されている。
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