やなぎさわ‐よしやす〔やなぎさは‐〕【柳沢吉保】
柳沢吉保
柳沢 吉保 (やなぎさわ よしやす)
1658〜1714 (万治元年〜正徳4年) |
【側用人】 五代綱吉の寵愛を一身に受け、破格の出世を遂げた側用人。 |
将軍綱吉の側近。綱吉が将軍就任以前の上野国館林藩主の頃から綱吉に仕えた。綱吉が将軍となって幕臣となってからは、数度の加増と昇進で、500石余りから15万石を超える大名に異例の出世を遂げた。老中上座として幕府最高権力者となり、元禄時代の幕政を主導した。松平姓と綱吉の一字を賜り、松平吉保と改名するなど、将軍のあまりの寵愛に様々な憶測も流れたが、川越藩主としての評判もよく、実直な人柄だったという。 |
年(和暦) | ||
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 | 1才 |
●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | 5才 |
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | 23才 |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | 24才 |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 | 29才 |
●1698年 (元禄11年) | ■江戸大火(勅額火事) | 40才 |
●1702年 (元禄15年) | ■赤穂浪士討ち入り | 44才 |
●1703年 (元禄16年) | ■江戸開府100年 | 45才 |
●1705年 (宝永2年) | ■御蔭参り流行 | 47才 |
●1707年 (宝永4年) | ■富士山噴火 | 49才 |
・新井 白石 | 1657年〜1725年 (明暦3年〜享保10年) | +1 |
・室 鳩巣 | 1658年〜1734年 (万治元年〜享保19年) | 0 |
・尾形 光琳 | 1658年〜1716年 (万治元年〜享保元年) | 0 |
・大石 内蔵助 | 1659年〜1703年 (万治2年〜元禄16年) | -1 |
・市川 団十郎 | 1660年〜1704年 (万治3年〜宝永元年) | -2 |
・尾形 乾山 | 1663年〜1743年 (寛文3年〜寛保3年) | -5 |
・鳥居 清信 | 1664年〜1729年 (寛文4年〜享保14年) | -6 |
柳沢吉保
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柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもあり、江戸に六義園を造営した[1]。
注釈
- ^ 柳沢氏の系譜については西川広平「柳澤家の系図編纂と武田家」『山梨県立博物館 研究紀要 第3号』2009年
- ^ 柳沢吉保の「側用人」任命に関して、福留真紀は江戸幕府の日記類において公式な「御側御用人」の役職が見られるのは宝暦6年(1756年)5月21日の大岡忠光に関する記事であり、綱吉期には役職としての「側用人」の呼称は確立しておらず、将軍側近のあり方も綱吉期と役職としての「側用人」確立後では変質していることを指摘している(福留 2011年)。
- ^ 近衛基熙・家煕親子は霊元上皇と対立しており、しかも近衛基煕の娘の煕子(天英院)は当時綱吉と対立していた徳川家宣に嫁いでおり、近衛基熙が桂昌院の従一位叙位に動いたとは考えにくい。[要出典]一方、近衛家煕の側室は上臈御年寄右衛門佐局の姪であり、東山天皇と徳川綱吉は近衛家煕・右衛門局佐を経由して連携関係にあった。
出典
- ^ a b c d e 宮川葉子「柳沢吉保の忠義心と憧れ◇徳川5代将軍綱吉の側用人、翻刻した日記229巻が映す素顔◇『日本経済新聞』朝刊2021年7月7日(文化面)2021年7月17日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『柳沢吉保と甲府城』p.136
- ^ a b c d e f g h 『柳沢吉保と甲府城』p.142
- ^ 元禄7年侍従任口宣案・宣旨(公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会蔵)(川越市立博物館 2014, p. 46(写真掲載))
- ^ 元禄11年左近衛権少将任口宣案・宣旨(公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会蔵)(川越市立博物館 2014, p. 47(写真掲載))
- ^ a b 『柳沢吉保と甲府城』p.137
- ^ a b c 『柳沢吉保と甲府城』、p.147
- ^ a b 『柳沢吉保と甲府城』p.120
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』(近代文芸社、2000年)69頁
- ^ a b c d 『柳沢吉保と甲府城』p.7
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『柳沢吉保と甲府城』p.138
- ^ 徳川綱吉領地宛行状(公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会蔵)(川越市立博物館 2014, p. 12(写真掲載))
- ^ 『柳沢吉保と甲府城』p.152
- ^ 石田俊「元禄期の朝幕関係と綱吉政権」(初出:『日本歴史』725号(2008年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2021年、P68.
- ^ a b c d e f g 『柳沢吉保と甲府城』p.139
- ^ a b c 守屋(2011)、p.128
- ^ 廣井敏男『里山はトトロのふるさと』旬報社
- ^ 福留(2011)、p.122
- ^ a b c d 『柳沢吉保と甲府城』p.143
- ^ 『柳沢吉保と甲府城』p.151
- ^ 小林求「甲斐八珍果」『山梨百科事典』山梨日日新聞社、1972年6月10日、153頁。全国書誌番号:73005476
- ^ a b c d 『柳沢吉保と甲府城』pp.134 - 135
柳沢吉保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 15:33 UTC 版)
物語当初の元禄14年時点では、御側御用人で、老中上座の柳沢保明。シリーズを通しての敵役で、大黒屋の古着屋総代としての財力と影旗本としての実力の双方を手中に収めようと企む。
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