おおいしくらのすけ〔おほいしくらのすけ〕【大石内蔵之助】
おおいし‐くらのすけ〔おほいし‐〕【大石内蔵助】
大石内蔵助
大石内蔵助
大石良雄
(大石 内蔵助 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 02:14 UTC 版)
大石 良雄(おおいし よしお / おおいし よしたか、万治2年〈1659年〉- 元禄16年2月4日〈1703年3月20日〉)は、江戸時代前・中期の武士。播磨赤穂藩の筆頭家老。通称は内蔵助(くらのすけ)[1]。江戸時代中期に起きた赤穂事件の赤穂浪士四十七士の指導者として知られ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。忠臣蔵の作品群では「大星由良助(おおぼしゆらのすけ)」の名で伝えられる[2]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j 朝日日本歴史人物事典『大石良雄』 - コトバンク
- ^ a b 百科事典マイペディア『大石良雄』 - コトバンク
- ^ 世界大百科事典 第2版『大石神社』 - コトバンク
- ^ 横田良遂と正虎が同一人物という説もあるが、両者には年数的に世代の隔離があり、温良の生誕年も不明である(後藤武夫伝「新撰大石系図」)。広島藩は系図および世代年数の懐疑を理由に、大石温良を「小山流大石家」の相続ではなく、「別家(横田流大石家)」取り立てという形を取った(知行も500石に減じている)。
- ^ 泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)。
- ^ 中央義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑』より「大石内蔵助良雄」(小池書院、2007年)
- ^ 池田家文書「赤穂札之高都合三千貫目程之由」
- ^ 来迎院 公式サイト
- ^ 松浦静『甲子夜話』(正篇三十など)
- ^ 「松浦家関係文書」(松浦史料博物館)
- ^ 「江赤見聞記」巻六
- ^ 港区高輪三丁目。細川家邸跡より少し離れており、厳密には大石良雄が切腹した場所ではない(細川邸は高輪一丁目)。
- ^ 「芸術新潮」(特集「世紀の遺書」・2000年1月号)
- ^ 川平敏文「室鳩巣『赤穂義人録』論-その微意と対外思想」(井上泰至編『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年) ISBN 978-4-585-22152-4
- ^ 太田南畝「街談録」「半日閑話」など。
- ^ 六月十二日付の堀部宛て大石書状ほか(「堀部武庸日記」上)。
大石内蔵助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/20 02:09 UTC 版)
「新春仕事人スペシャル 必殺忠臣蔵」の記事における「大石内蔵助」の解説
本来、仇討する気がなかったにも関わらず、周囲の期待に押され、赤穂四十七士を率いて、内匠頭の仇を討つことになった。
※この「大石内蔵助」の解説は、「新春仕事人スペシャル 必殺忠臣蔵」の解説の一部です。
「大石内蔵助」を含む「新春仕事人スペシャル 必殺忠臣蔵」の記事については、「新春仕事人スペシャル 必殺忠臣蔵」の概要を参照ください。
大石内蔵助(おおいし くらのすけ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 04:14 UTC 版)
「用心棒日月抄の登場人物」の記事における「大石内蔵助(おおいし くらのすけ)」の解説
※この「大石内蔵助(おおいし くらのすけ)」の解説は、「用心棒日月抄の登場人物」の解説の一部です。
「大石内蔵助(おおいし くらのすけ)」を含む「用心棒日月抄の登場人物」の記事については、「用心棒日月抄の登場人物」の概要を参照ください。
「大石 内蔵助」の例文・使い方・用例・文例
- 大石 内蔵助のページへのリンク