あらい‐はくせき〔あらゐ‐〕【新井白石】
あらいはくせき 【新井白石】
新井白石
新井 白石 (あらい はくせき)
1657〜1725 (明暦3年〜享保10年) |
【学者・政治家】 「折りたく柴の記」を著わし、政治・言語・歴史にマルチな才能を発揮した学者政治家。 |
名は君美、白石は号。木下順庵の推挙によって甲府藩主徳川綱豊(のち家宣)の侍講となり、家宣が六代将軍になると幕政に参画、七代家継を補佐した。財政難の幕府が起こした経済インフレを是正するための貨幣改鋳や、長崎貿易制限などの正徳の治を断行。吉宗の将軍就任にともない失脚の後、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わし、朱子学を基本として、東西歴史学、言語学に多彩な業績を残した。 |
年(和暦) | ||
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 | 2才 |
●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | 6才 |
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | 24才 |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | 25才 |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 | 30才 |
●1698年 (元禄11年) | ■江戸大火(勅額火事) | 41才 |
●1702年 (元禄15年) | ■赤穂浪士討ち入り | 45才 |
●1703年 (元禄16年) | ■江戸開府100年 | 46才 |
●1705年 (宝永2年) | ■御蔭参り流行 | 48才 |
●1707年 (宝永4年) | ■富士山噴火 | 50才 |
●1718年 (享保3年) | ■御蔭参り流行 | 61才 |
●1719年 (享保4年) | ■相対済し令 | 62才 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸大火 | 63才 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸町火消しいろは組を設置 | 63才 |
●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 | 65才 |
・柳沢 吉保 | 1658年〜1714年 (万治元年〜正徳4年) | -1 |
・室 鳩巣 | 1658年〜1734年 (万治元年〜享保19年) | -1 |
・尾形 光琳 | 1658年〜1716年 (万治元年〜享保元年) | -1 |
・大石 内蔵助 | 1659年〜1703年 (万治2年〜元禄16年) | -2 |
・市川 団十郎 | 1660年〜1704年 (万治3年〜宝永元年) | -3 |
・尾形 乾山 | 1663年〜1743年 (寛文3年〜寛保3年) | -6 |
新井白石
新井白石(あらい はくせき)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:40 UTC 版)
「新・浪人若さま新見左近」の記事における「新井白石(あらい はくせき)」の解説
本所で妻と暮らしており、子供たち相手に私塾を開いて生活している。御家人達の凋落ぶりに常々腹を立てており、そのためトラブルになっていた所を左近に助けられた。
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新井白石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「新井白石」の解説
新井白石は、アイヌ民話のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、義経が蝦夷から韃靼に渡り金の将軍になったという噂の金史別本を読み安積澹泊宛にそれが偽物であると見破り手紙を書き、義経蝦夷脱出に関しては断定を避けた。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死については入夷説を長々と紹介し、更に入韃靼説も付記している。また『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎出島のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。ただし白石は義経の韃靼行と清祖説には触れているが、全面的に肯定しているわけではなく元祖説にも至っていない。 「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ」「今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝ヘシトモ云フ」《義経、手を束ねて死に就くべきにあらず。不審の事なり。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。また夷人、飲食に必ず祀る。それのいわゆるオキクルミと 云うは即ち義経のことにて、義経後には奥へ行きしなど云い伝えし》『読史余論』新井白石。 新井白石は『蝦夷志』で義経が韃靼に渡ったと推論していると史学博士の原田信男は記し、安積澹泊との往復書簡では微妙な立場をとり続け、『読史余論』上では泰衡が頼朝側に献じた首は本物ではないだろうとし、「義経、手を束ねて死に就くべき人にあらず、不審の事也」とした上で蝦夷の義経館や、オキクルミが義経だとする話を持ち出し、「義経のちには奥へゆきしなどと言い伝えしとも言う也」とした。原田氏は白石と澹泊は文献重視の立場からは義経自殺説を真っ向から否定できなかったが、心情的には生き延びて蝦夷地に渡った説にしたかったのだろうと記している。
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新井白石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)
『読史余論』の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利するものであると、総じて否定的な評価をしている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を押領して家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に与ったことを憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽閉した罪を問わなかったことを責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いと、襲った理由は、義経が朝奨に与ったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。
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