柳沢吉保に関する噂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)
俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり、綱吉から吉保に下された拝領妻であるという。一説に吉里は綱吉の隠し子であるとも言われる。また、一説に吉保は甲府に100万石の領地を綱吉から賜らんと企てて、吉保の側室になってからも綱吉の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。綱吉はこれを快諾するも、まもなく綱吉は病死し、このことは沙汰止みとなった。しかし、このようなことがまた起こることを憂慮した幕閣は、これ以降、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を2名、将軍の寝所に泊まらせ、彼女等に寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかをことごとく報告させることとした。このことは、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。 以上の説話は主に『護国女太平記』が流布・訛伝されたものと考えられており、実際には染子は柳沢家家臣の娘に過ぎず、大奥に上がったことも一度としてなかったため、将軍綱吉との接点もほとんどない。「御添い寝」の逸話も、おねだりをしたのがお伝の方など他の女性に変えられて語られる場合もあり、これも信憑性のないものとされることが多い。 尾張藩士・朝日重章の日記である『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』宝永6年(1709年)3月5日条では、将軍綱吉の没後に吉里が綱吉の実子であり謀反を企てていたとする噂や、吉里が綱吉から拝領した50万石を将軍家宣が老中・小笠原長重を使者として取り上げたとする噂が流布していたことを記している。
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