柳沢吉保の肖像とは? わかりやすく解説

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柳沢吉保の肖像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)

柳沢吉保」の記事における「柳沢吉保の肖像」の解説

『楽只堂年録』によれば、吉保は元禄15年1702年)に狩野常信の筆による三幅寿像作成させている。現在ではこのほかに一幅加わり四幅肖像伝来しており、翌元禄16年1703年秋に肖像に自ら賛文を記している。 吉保の肖像画三幅は、現在の山梨県甲府市太田町所在する一蓮寺と、山梨県韮崎市清哲町青木常光寺、そして奈良県大和郡山市永慶寺伝来している。『楽只堂年録』では一蓮寺本を一幅目、永慶寺本のうち一幅二幅目、常光寺本を三幅目としている。 いずれも束帯姿の同様の肖像で、一蓮寺本に手前文机の上に『古今和歌集』が描かれている。常光寺本に文机の上軍令記され文書描かれている。一蓮寺常光寺はいずれ甲斐源氏にゆかりのある寺院で、ともに吉保が甲斐源氏後裔であることを意識し文武両道教養積んだことを示す像と評されている。永慶寺烏帽子直垂姿で腰に刀を指し、手に仏子を持つ姿で描かれている。永慶寺本は吉保正室菩提寺である真光院伝来していたという。永慶寺にはこれと同一肖像画がもう一幅伝来している。 また、永慶寺には『楽只堂年録』記される烏帽子狩衣姿の像が残されているほか、永慶寺恵林寺には武田不動尊像を造像した仏師康慶の子とされる仏師浄慶の作による吉保・夫人木像残されている。

※この「柳沢吉保の肖像」の解説は、「柳沢吉保」の解説の一部です。
「柳沢吉保の肖像」を含む「柳沢吉保」の記事については、「柳沢吉保」の概要を参照ください。

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