戦史上の日本刀
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日本の古代で軍事史料の見いだせるのは弥生前期(紀元前300~100年頃)の出土兵器からであり、当時は石器・青銅器が主に使用され、青銅製の剣(両刃を剣といい、片刃を刀という)や矛(剣に長柄をつけた刺突・斬撃両用の兵器。穂先が細鋭で刺突専門のものを槍というが、はっきり区別されないものもあるという説がある)・戈などが末期の末頃に出現しており、鉄製品では刀子(小刀)や銛と思われるものが発見されている。 弥生中期(紀元前100年頃~紀元100年頃)になると、前半の出土兵器は依然として青銅製の細鋭な剣や矛・戈などであるが、期の中期より青銅製は少なくなり鉄製の剣や矛が出現するようになる。しかし、当時の倭人の冶金術は未熟だったために、鉄剣は30~40cm程度の長さに過ぎず、護身用程度ではあるが、矛の穂先としては十分な長さであり、そこで主兵器は鉄矛だったと考えられ、青銅からより鋭利な鉄に代わった事はこの時期に世代の交代があったと考えられ、その他に、石や青銅の鏃が出土しており、鏃に鉄製品が出土しないのは、戦で大量に消耗される鏃にまで鉄が向けられず、不要になった青銅や石や骨鏃で間に合わせたと考えられ、弥生中期末には日本刀の前身と考えられる鉄大刀が出現するが、これはおそらく漢よりの輸入品で、豪族などの貴重兵器であり、また、鏃がこの程度では弓矢の力は必ずしも決定的ではなく、この時代の戦は手盾と手矛を持って戦う近接戦闘が主なものだった。漢書・後漢書によれば、西暦0年代頃より約50年の間に倭奴国が倭の代表的国家となり、さらにその後約50年の間に師升が倭人諸国を統一し、その代表者となった。 弥生後期(100~300年頃)になると、出土品に鉄製の長剣や大刀・鏃などが出現し、矛も依然として見られる。これらはおそらく日本列島産で、原料は砂鉄を用い鍛造法で作られ、後期の終わりになるに従い1m程度の大刀が多数国産できるようになったが、これは、製鉄技術が砂鉄の多い山陰や近畿各地に導入されたためであり、大倭王部族の鉄器独占が終わったことを意味するものでもあり、また、広幅の銅矛と銅剣が西日本で乱雑に棄てられた状態で発見されており、銅広矛などは祭儀用または部族の象徴として用いられたとされているので、この廃棄現象は鉄剣・矛の普及に伴うこれらの敗北を示すものである。馬は日本では乗用にならない南方系の小型馬が南九州以前の地に生息していただけで、騎乗の習慣はなかったが、新羅は早くから小柄の馬ながらも乗馬の習慣があり、戦にも若干の騎兵を使用したが、装甲のない軽騎兵のため倭の歩兵も十分に対抗できた。 弥生後期は卑弥呼より壱与に至る時代と比定され、中国における魏と西晋初期に相当し、卑弥呼時代を示す魏志を見て、師升時代と比べると、矛は同じだが鏃に鉄鏃が加わり、矢戦に大きく威力を増している。そこで卑弥呼軍は弓矢を主兵器とし、離れて敵に致命傷を与えて勝敗を決する戦法をとり、それでも敵が退却しない場合には手盾と手矛で接近戦を行うか、あるいは接戦を嫌って退却した。壱与の時代を示す晋書になると、卑弥呼時代に比べ、矛がなくなり、刀となり、鏃も骨がなくなり、鉄だけとなる。鉄の普及に伴い鏃が鉄だけになったのは当然として、問題は近接戦闘の主兵器である矛がなくなり刀が出現した事である。双方の戦意が旺盛で矢戦で勝負がつかず接近戦になった場合は手矛と手盾より、大刀と手盾の方が有利であるために、卑弥呼時代の弓矛軍は壱与の時代になって大刀弓軍に取って代わられたと考えられる。壱与の女王国では卑弥弓呼を追放したが、彼の大和優先の方針は継承し、日本書紀の神武東征に見られる兵器は弓矢・盾・大刀(頭槌大刀)・石槌(石斧)や矛などであり、遠征軍が熊野で高天原より大刀の補給を受けて戦力を回復したとの記事は大刀が最も重要な兵器であった事を示しており、また甲冑使用の記事も見られるので、おそらくは指揮官や突撃兵が、植物や革製の短甲様の物を着用したと考えられるが、防護力も弱く、数も不足し、突撃兵全員には行き渡らなかったであろう。戦闘では木の置盾を並べて掩護とし、その直後に弓兵を置いて矢戦を始め、盾を少しずつ前進させ、矢戦を激しくし、それでも敵が敗走しなければ突撃兵が手盾と大刀で突進した。装甲が発達しないために矢戦の損害が多く、また正面衝突では容易に戦に決着が着かなくなるために、そこで、側背への機動が賞用され、敵を欺く計略や離間手段が盛んに用いられた。 その次の兵器の世代は古墳前期(300年前後)より、古墳中期の中頃・五世紀上代まで続いた。この時代には薄鉄板を革紐で綴った歩兵用の短甲や鉄兜が出土し、これらの使用により、突撃兵の装甲は著しく強化され、片手に盾を持つ必要がなく両手で長柄兵器を使用できるようになり、突撃兵用の4~5メートル以上もある長槍が、出土品として急激に増加しているのもこのためである。短甲を着ければ腕や脚は自由に動かせても、胴は曲げられず動作の小回りが利かず、威力を発揮するには多人数の集団による外ないために、そこで鉄短甲・兜で装甲し、長槍を構え、槍襖を作って前進する古代ギリシアのファランクスと類似した突撃兵集団が、倭軍の戦闘力の中核になったと考えられている。この短甲・長槍は半島ではほとんど出土せず倭軍独自のものなので、その後の半島での倭軍優位の源泉となった。四世紀末以降短甲の付属品として頸鎧・肩鎧・籠手・草摺なども出現し、突撃兵の装甲はますます強化され、刀剣は更に長大となり、1.2メートルに及ぶものまで国産され、これらの装備をつけた兵士の姿を、初期の武人埴輪により想像する事が出来る。その後、高句麗騎兵に敗れた倭は兵器装備にも大きな影響を受け、古墳中期以降中期末に至る時期にその出土が見られ、すなわち馬具などの乗馬用具および鉄札を革綴して作った騎兵用のケイ甲がそれで、馬鎧や馬兜すら見られる。馬具はクツバミ・鞍・鐙などの揃った完全なもので、倭では大陸諸国に見られる「鐙なし騎乗」の時代はなかった。ただし、本期の挂甲の出土数は極めて少ない。倭軍に騎兵使用の記事が見えるのは444年の日本書紀が初見で、この時は高句麗騎兵を模した突撃矛騎兵用法だったと考えられるが、しかし、その後、倭では騎兵部隊使用の記事はほとんど見られず、馬は指揮官などの上層部の乗用に多く用いられ、しかも弓騎兵として発達する。これは倭では鏃が改良されて貫徹力を増したため(古事記)、矢がケイ甲をも突き抜くので突撃しなくとも矢戦で相手を倒せたことも原因だったろう。200年前に卑弥呼軍が弓を主兵器としたのと同様の現象である。短甲の本期後半に鉄鋲留の堅固なものが出現し、兜も衝角型に変わり、後には大陸系の眉庇付のものすら見られるに至った。鏃は前期に見られた広幅の矛型で切り裂く力を含めたものから、茎の長い槍の穂先型の貫徹力を重視したものに変化し、前期に見られた刺突専門の長槍は、柄をやや短くした矛に代わったが、おそらく乱戦になった場合に振り回して斬る事も出来る便利さを考えての事だと考えられる。 古墳後期の出土兵器の中で、短甲は全く姿を消し、挂甲が頻繁に出土しており、さらに頸鎧・肩鎧その他が加わり、装甲が強化され、徒歩兵も身体を動かすのに便利なように簡略化された挂甲を着用し、防護の不足を再び、盾で補うようになり、鎧は鉄甲より革甲に移った可能性もあり、したがって長矛は姿を消し、主兵器が大刀に代わった。この軍備により、歩兵は置盾などを掩護とし、敵騎兵の突進を強力な矢戦で阻止し、止むを得ず接近戦となったら手盾と大刀で対抗した。ケイ甲・盾・大刀歩兵方式は乱戦での各兵士の融通性ある身軽な活動を許し、古代ローマ歩兵が長槍方陣方式を廃して、盾(スクトゥム)と剣(グラディウス)での格闘方式を主とする軍団歩兵に移ったのと極めてよく似た経過をたどっている。 奈良・平安時代の軍隊は律令兵制が基幹となっている。「農民徴兵より構成された歩兵」を主体とした軍である。一般を歩兵とし、弓射に優れ、騎乗に慣れた者(必然的に平常馬を備えられる富裕・実力者の子弟に限られる)は騎兵隊に入れたが、極めて少数である。兵士は各人ごと一か月分の兵糧を納付し、また各人ごとに負担する兵器装備品は弓1・弓弦袋1・副弦2・征矢50・胡籔(ヤナグイ、矢を入れて負う器)1・大刀1・小刀1・砥石1などである。上記は全て各人負担なので、短期招集の際は政府の負担は極めて少なかった。出動の際はこれらの個人装備の他に、兵士の配置により割り当てられる増加装備品を駄馬で携行したが、盾・矛・甲冑の大部や矢・大刀・弓の予備、さらに作戦間の所要糧食などはあらかじめ基地、たとえば多賀城に集積せねば作戦は開始できなかった。軍団には弩を備え、「隊」ごとに強壮な者2人を選び弩手として専門訓練を受けさせた。弩には機械弩・手弩があった。弓・刀などは一般に私家での保管を認められたが、指揮用具、弩・牟(長さ二丈の矛)・一丈二尺の矛・具装は私人の所有を禁じられた。律令歩兵の最も重点を置いた戦闘方式は弓・弩による遠戦である。これは挂甲の強度が十分でなく、時には綿甲のため、弓・弩の威力が防護力を上回ったためである。しかも当面の敵である蝦夷や隼人は一層、装甲が弱かった。また蝦夷は騎射による機動戦を主体としていたため、刀槍が届く間合いでの戦闘は少なかったと考えられている。 俘囚により騎射の技術が伝わると、武士たちは「弓馬の道」を尊ぶ「騎馬弓兵」の性格が強くなったが、薙刀や太刀など打物も用いられており、騎乗中も刀は必ず装備していた。平安時代には騎射を主体としつつ、太刀で兜を殴ること相手を転倒させ、その隙に組付いて短刀でとどめを刺すための打撃武器であった。また携帯しやすいため補助的な武装(サブウェポン)としても利用されたと考えられている。 『可然物(しかるべきもの)』という室町時代の刀剣一覧がある。これは家臣に報奨として刀剣を下賜する機会が多かった足利義満が、将軍家からの太刀はおそらくその家の重代の家宝にするだろうから、斬れない刀ではあっては差し障りがあるだろう、として宇都宮三河入道に対して特に「切れ味」を基準に「然るべきもの」60工をピックアップさせたものである。このように当時の武士本人は日本刀を儀仗ではなく実用品と見なしており、家宝ですら美術的価値としてではなく武器としての性能が最も重視されていた。
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