戦史の中での戦斧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 23:03 UTC 版)
青銅器時代、古代エジプトで槍と並んで刃の角度が急な青銅製の斧とコピスという鉈が白兵戦での主要な武器として使用されていた。 ヴァイキングやケルト人で知られる北ヨーロッパの民が好んで使用し, ヨーロッパ中世の戦場でほとんど見られる. 特にヴァイキング独自の投げ斧、片手斧、髭斧、両手斧はイングランドなどで猛威を振るった。当時は鉄器鍛造技術が未熟で剣は高級品であり、一般の人には斧のほうが手軽に持つことができた。このためテレマルク県のように紋章に戦斧が含まれている自治体も多い。イングランド王をノルマンディー公ギヨーム2世と争ったハロルドの護衛傭兵ハスカールは、主に斧で武装していた。スイス人傭兵が考案した槍や鉤と一体化したハルバードは、歩兵が騎兵に対抗する手段として普及した。 日本で戦斧が多く使われ出したのは南北朝期からのことであり、文献では『太平記』で長山遠江守が赤松氏範との一騎討ちで大鉞を使用している。基本的に、戦場で斧を使用するのは兵站の建設、あるいは城門の破壊のためだった。また、形状の良く似たものとして、修験者が霊峰入山の際に携帯する「入峰の斧」がある。14世紀には一般的な武器であった鉞だが、薙刀の方がより一般的であり、14世紀後半には槍が戦場の武器として威力を発揮し、廃れていった。 インディアンが白人との戦いの中で、独特の手斧「トマホーク」を使用した。現アメリカ軍のトマホークミサイルの語源である。 中国では斧は「銅鉞」として殷の時代からあり、当初は歩兵の武器として使用されたが、戦車戦が発達すると実戦では用いられなくなり軍事権を誇示するためのものになった。再び実戦で戦斧が使われだすのは南宋の時代になってからだった。当時、金の重装騎兵に対抗するために威力の高い打物兵器が求められ、大斧が使われだした。金の完顔兀述は宋軍の優れた武器として神臂弓(弩の一種)と共に大斧を挙げている。小説の世界では『説唐演技』の程咬金が大斧の使い手として描かれている。
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