戦区制限問題と対華21カ条要求
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「ウィリアム・カニンガム・グリーン」の記事における「戦区制限問題と対華21カ条要求」の解説
1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。英国はその貿易ルートをドイツ東洋艦隊から守るため、大日本帝国海軍の協力を必要としていた。このため8月6日、グレイ外務大臣は日本に戦争支援を要請し、加藤高明外務大臣もこれを契機に参戦を指向した。この時、日本の宣戦布告によってオーストラリア、ニュージーランド、米国の疑念を招くことを心配したグレイは日本に対し正式参戦を控え、限定された軍事行動をとることを求めた。これに対し、加藤はグリーンに「大隈内閣は宣戦布告を決定したが、何ら領土的野心を有さない」と伝えている。その後もグレイはたびたび日本軍の作戦行動範囲を限定するべく、グリーンに「宣戦布告は承認するが、参戦区域は制限させよ」と訓令したり、「日本の行動は東シナ海以外に拡大しない」といった声明を行った。こうした要求に加藤は反発して一切応じず、グリーンも両者の関係が決裂しないように奔走することとなった。 その後の対華21ヶ条要求では日本の露骨な野心と不誠実さに接し、グリーンは日本への幻滅・失望感を覚えた。これ以降グリーンの対日観は悪化の一途をたどり、「戦争という幸運が加藤男爵の足元にボールを置き、彼はそれを蹴った」と辛辣に批判した。この頃のグリーンは日英同盟について「日本人の感情を害することなく、かなりの礼節を持って同盟を葬り去らねばならない」と考えていたという。1919年4月に大使としての経歴に終止符を打ち、東京を去った。 帰国後の1920年、グリーンは日英同盟の将来を検討する小委員会の委員となった。1921年1月、小委員会は「日英同盟は廃棄し、そのかわり日英米参加国による三国協約を結ぶ」との結論を出したが、首相のロイド・ジョージはこの意見を採用せず、日英同盟の維持を求めた。しかし、アメリカ大統領ウォレン・ハーディングが率先して開催されたワシントン会議により、日英同盟の廃棄が決定された。 1934年に79歳で死去した。
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